| ■ 04 ■伏せた睫毛の白々しさよ■ ──歌声が聞こえる。甘く、優しく、それでいてどこか寂しげな。 ゆっくりと心地良いリズムに身を任せていると、頭から腰にかけて何度も何度も優しい手に撫でられていることに気が付く。けれど、どれもこれも気持ちが良過ぎてむしろ覚醒から遠のくばかり──だが、それは漂うカレーの芳香に気が付くまでのことだった。 「ピギャ! カレーはどこに!?」 口ずさんでいた"通りゃんせ"を止めたなまえが、寝起きとは思えない素早さで身を起こしたベルゼブブのくちばしにカレーパンを押し当てる。 むぐむぐと夢中で目の前のカレーパンに食らいつくベルゼブブに状況を理解する頭はない。ここがソファの上だとか、体勢から考えると数秒前まで誰かの膝枕状態に合ったことだとか、無論その相手はなまえであるとか、くちばしをカレーでベタベタにしながら食い付く自分を見るなまえの表情がいつになく嬉しそうなものだとか、そんなことはこのカレーパンの前では小さ過ぎる程に小さなことなのだ。 「ごめんなさい」 「……まあ、いいでしょう。どちらかと言えば取引を持ちかけたアクタベ氏の方が悪質ですし、一応あなた自身は最後はこのベルゼブブに対する敬意を思い出したようですし」 ぶぶぶと羽を動かしホバリングするベルゼブブはいつもよりも高い位置に陣取っていた。そして首を倒して仰ぎ見るなまえを見下しながら「これでも私は紳士ですからね」と続ける。 誠に悪魔らしい捻くれた言い方ではあるものの、このベルゼブブの言葉は紛れもなく本心から出た許しの言葉である。謝罪の品も過度の仕置きも求めることなく「まあいいでしょう」となまえを許したのだ。そしてベルゼブブ自身そんな不可思議な決定を下した自分自身に気が付いていたが、これまた何故か改める気にもなれないでいた。 一応の言い分はある。彼女のバックにいるアクタベが恐ろしいし、今ここで彼女を責めたところで悪魔も真っ青なお仕置きが待っていることは確実だから。けれど、理由はそれだけかと問われればそういうわけでもないのが複雑なところである。 例えば、つい先ほど口にしたカレーパンの味だったりとか、今回に限らず手土産にカレーパンやカレーコロッケが多かった記憶だとか、思えばあの魔法陣に呼び出されて以降こんなにも大切に扱われた覚えがないことだとか、なんだかんだで撫でる手がツボを心得ていて気持ちよかったこととか、挙句にそもそもの契約内容がこのプリチーな身体を抱きしめてもふもふしたいだなんて……なんと自尊心を擽られることだろう、ということだとか。 その上、悪魔に対するには随分と似つかわしくない程の素直さで謝られれば、まあ悪い気はしない。そんなこんなで随分と軟化した怒りに、常日頃から悪魔よりも悪魔らしい人間たちに扱き使われていることを加味すれば、結果は自ずと出てくる。つまりこの愚かで矮小な人間らしさには、いっそ安堵を通り越して好感すら覚えようかということだ。 「やや不本意ではありますが、あなたはアクタベ氏の関係者ですしね。それに、このプリチーボディを前にして愛でたいと思うことは仕方のないことです。だからなまえさん、今後はなにもあんな下らない契約など交わさなくとも少しくらいなら触らせて差し上げましょう」 やれやれ呆れたという素振りで締めくくってやれば、なまえがあまりに嬉しそうに笑うから。予想を軽々と超える好意を向けられて、瞼がばちばち動く。うっかり傾きそうになったことには、気が付かれていなければいいのだが。 「じゃあじゃあ、そのお腹に今すぐ頬擦りさせて下さい」 「……調子良過ぎですよクソビッチが」 「実はカレーパンがまだ残っていたり、なんて」 「フン。生贄の準備も完璧とは、悪魔使いでもねェくせにちゃっかりしてやがる!」 *** 後のベルゼブブは、この日を振り返るたびにこう口にする。 「本当に、あの時の私は衝撃のあまりどうかしていたとしか思えません」 あの男と旧知の間柄にある人間が、それもあれ程はっきりと悪魔を知覚する人間が、まともな人間である筈がないのに── (2015.09.04)(タイトル:亡霊) [ 戻 / 一覧 / 次 ] top / 分岐 / 拍手 |