■ 地獄に近く天国に遠いところで

 雲に遮られた月明かりを補うようにベッドサイドの灯が増える。弱い光とはいえ月とは幾分か質の異なる輝きに慣れるためか戸惑ったのか、男の目がぎょろりと動く。
 その、暗がりでも窺える異形の下では、女がひとりあられもない姿で転がっていた。身を守るための衣類はほとんど残っていない状態にもかかわらず、視界と両手の自由だけは揃いの黒布でしっかりと封じられている。もしも今この部屋に第三者が踏み入ったとしたなら、怪物に襲われた乙女を救助すべく雄叫びをあげるだろう。それくらい言い訳の効かない構図である。

 けれども、この薄暗い中でも落ち着いて観察すれば違和感に気づくことはできるだろう。つまり、彼女の視界を覆った先の結び目が、決して固く結ばれているわけではないということに。あるいは、彼女の自由を奪うための枷が実際のところ形式だけのもので、皮膚に食い込むほどの細さも跡を付けるほどの強さも持っていないということに。なにより、啜り泣くでも恐怖に震えるでもないその様子は見れば見るほどに……。もしも今この部屋に正義感溢れる第三者がいたとしたら、暇を持て余したご婦人が少々危険な遊びに手を染めたのだと判断して肩をすくめたに違いない。


  ***


「……いいぜ。但し、オレの"オネガイ"を聞いてくれるなら、だがな?」

 もう耐えきれないとばかりに熱い視線を向けていた彼女は、メレオロンの申し出に一瞬目を見開いた後こくこくと繰り返し頷いた。

 こいつがあんまりにもしつこいから仕方なくだ。オレが折れるしかなかったんだ。という自分は被害者でありあくまで諦めの境地にたどり着いただけだという、今思えばなけなしの意地でしかないような情けない言い訳を盾にしてメレオロンがこの関係を受け入れてから随分経っていた。
 彼女という女が、手を合わせ唇を合わせ、ついでに舌も絡ませ合うだけの接触で満たされてくれるような"扱い易い生娘"なんてものではないことはまさに今更なことだった。
 いや……まあ、男として甘えたことを言ってみれば、わかりやすく積極的ななまえはある意味とても"やりやすい女"と分類できたのだが……それはともかく、もともと身動きすらやっとな狭い道をじりじりと這い進むような身の上である。全身で誘ってくる女にうっかり釣られて崖から転がり落ちたまでは必然だったとしても、それでもなんとか最後の最後で踏みとどまっていたつもりだったのだ。
 しかし、である。そもそも元いた場所が崖だったとしたら前提から覆る。這おうが齧りつこうが安寧はなく、そのうえ崩れ始めていたならばその端っこでじたばたと足掻いてみたところで残念なことに先は見えているではないか。
 というようなことを酔った勢いで友人にぶちまけたらなにが言いたいかわかんねーよオメーと笑われた。当たり前だと思う。

 大事なのはたったひとつ。
 つまり、その、どうにも、そろそろ限界がきていたということだ。

 どうしようもないことだ。相手が悪かった。そう繰り返すのは自分に言い聞かせるためだけではなく、事実を事実として受け入れるための儀式でもある。
 なにせ彼女は、全身から甘い匂いをぷんぷん放ちながら虫を誘う花だった。一体なぜそこまで自信を持っていられるのかがいっそ不思議なほどに、自分が花であることを自覚している花だった。それも、香りにつられて哀れな虫が足を踏み入れたが最後、真綿の如く優しく緩やかに、しかし無慈悲に食い殺す捕虫器官を持つ類の花だ。
 けれども。そうと気が付いた時にはもう引き返せる地点はとっくに過ぎていた。進んだ先にあるものが決して飽食の楽園ではないことがわかっていても、虫は抗えない。この先、きっともうあと一歩でも進めば、真っ逆さまに落とされてどろどろに溶かされることがわかっていても、それでも求めずにはいられない。

 とまあ、つまりメレオロンとしても、なまえの申し出を突っぱねることに限界を感じていた。なにより自分自身がどうしようもなく彼女を欲しているのだから。
 後生大事に守ったところでいつか決壊してしまうなら、いっそ自分から。ああそうだ、下手に実力行使に出られて無様に襲われるよりはまだこちらから仕掛ける方が面目も立つだろう。そんなこんなで彼女の誘惑をもうこれ以上無下にするつもりはなかったし、次の機会にはいよいよ……と腹を括ったつもりでいたのだ。
 にもかかわらず。
 いざその展開へと至った際に、何故かとっさに口をついたのは"オネガイ"という名のくだらない条件、つまり"両手の拘束と目隠し"だった。
 甘ったるい"初めての夜"を飾るには随分と外道な趣向であり、散々舌と指で嬲り続けてきた果てのご褒美としては似合いの変態行為ではあったが、少なくとも彼女の好みではないことだけは確実だ。断ってくれてもよかった。むしろ、形だけでも腹を立ててくれたら宥める為にどこまでも譲歩し機嫌をとれただろう。
 けれども、どこまでいっても彼女はなまえだった。つまり彼女は──メレオロンに対してとことん甘いのだ。


  ***


 ハンターの彼女でなくともその気になれば外せるような、そんな頼りない拘束に律儀に従うなまえの姿を愛おしげに見つめながらメレオロンはなめらかな肌に触れていた。
 いよいよという期待からか、それとも自由を奪われている状況にか。または自由を奪われることを許している自分自身に対しての興奮か。撫でても摘んでも噛んでも舐めても、どこをどうしてもいつも以上にいい反応を見せるなまえにメレオロンの興奮も昂ぶる一方である。
 本音を言えば、羞恥にこわばる肢体を無理やり押し開いたり、必死の抵抗をねじ伏せて……という状況への期待もほんのりとあったのだが、まあそれはそれ。すっかり余裕のない様子で自分が与える快楽に流される恋人の姿は、黒い布と肌のコントラストも相まり堪らなく淫らで美しい。

 彼女が好む胸への刺激を繰り返し、けれども肝心な部分への刺激は極力避けてやるという意地悪はそろそろ終いにするかとメレオロンはさりげなく体勢を整えた。
 もう、もう、お願い、意地悪しないで、などと切羽詰まった懇願を聞くのは気分がいいものだが、泣きが混じりかけた頃が限界なことは今更だ。実力行使で引き剥がされるのは論外として、退き際を見極めずに進めた結果として本気で泣かれるという顛末は、場合を選べばそれなりに興奮する展開ともいえるが大体の場合では歓迎できない展開に分類される。
 しゃあねェな、と物わかりのいい振りをする自分がにやけているのを自覚しながら、彼女がただひとつ身に着けている下着ごしに指を這わせる。丸めた指の背ですっと撫であげれば、水音を掻き消す声が響き渡った。
 これ見よがしには触れることなく、しかしなんてことないように擽る程度には偶然を装って触れ、散々焦らしていた甲斐あってそこは見事に濡れている。なまえ特有の、と言っても他のメスを抱いたことはないから実際のところ比較はできないのだが、少なくともそう認識している甘い蜜が布越しに滲みでて指を濡らしていた。自分の指となまえのそこを見比べて、改めて触れ直す。布の隙間から指をねじ込んで、今度は指の腹でたっぷりと蜜を掬い取り自分の口元へと運ぶ。

「マジで、甘ェな。……いつも甘ェが、今日はまた一段と濃いっつーか……まあ……この量じゃ"濃縮"ってわけじゃねーだろうけど?」

 蜜を舐めとる舌が鳴らす音だけでも、何をしているのかの想像はついていたのだろう。緊張気味に身構えていたなまえはメレオロンの感想に一転、うううと身悶え始めた。そこですかさず「そんなに期待してたのかァ?」と追い討ちをかければますます愛らしく頬を染めてくれるのだから今度はメレオロンの方が身悶えしたくなる。
「だから! そういう感想は言わないでって!いつも言ってる!」
 無防備な格好でキャンキャン吠えられてもちっとも恐くない。むしろ、布の下で睨みつけているだろう瞳を思うとより興奮する。
 最初こそ安い自衛のつもりだったが、いざやってみるとこの状態はなかなかにクるものがあった。
 繰り返すが、今の彼女は両手を結ばれ自由が効かない。腹筋に任せて起き上がることは容易ではないだろうに、困難を承知で無理やりに身体を起こそうとする彼女の脇腹を手の平で撫でてやれば、驚いた唇がひゃんと声を漏らす。いつどのタイミングでどこにどう触れられるのか。視界を封じられた彼女には、メレオロンの行動はギリギリまでわからない。
 そして頼りにならない視覚の代わりに他の感覚が研ぎ澄まされる。たとえば、そう……聴覚とか?

「ハハッ、やーらし。お前がこんなに喜ぶんだったら、もっと早くやっとけばよかったな。なかなかいい反応じゃねェか?」

 目隠しってのも癖になるな。此処ぞとばかりに顔を寄せ囁く。ついでに、なまえの柔らかい耳朶の味を確かめるのも忘れはしない。刺激に応えてしっとりと汗ばんだ身体がびくりと跳ねれば、先ほどまで散々いじり倒した膨らみがまだ足りないと誘うかのようにいやらしく揺れた。相変わらず無自覚だとしたら恐ろしい。この下半身にくる連鎖反応は堪らないなと、なまえから見えないのをいいことにメレオロンの顔はだらしなく緩んだ。膨らみの上でぴんと立つ先端を指先で弾いて反応を楽しみ、下半身への愛撫も再開する。

 なまえの身体を淫靡に彩るアクセサリーとしては上々だが、生憎これからの行為には邪魔でしかない下着をゆっくり脱がせていつものように舌を寄せる。甘い肌、甘い蜜、甘い声……そして、空間に漂う香りまで。どれを取っても甘過ぎる快楽に理性が揺さぶられ、下半身によりいっそうの熱が集まっていくのがわかる。
 いつもなら、この時点でもう充分硬く熱く露出している生殖器を宥めるのに神経を割り振るところなのだが──今夜は違う。

 奥へ奥へと誘う穴に舌を差し込みなまえの声と蜜を引き出しながら、行為への期待に疼く生殖器をびくりと震わせたメレオロンは、けれどもそこで責めを緩めた。今すぐ埋めたいはずなのに、夢にまで見たなまえとの行為のはずなのに、なぜかまだ条件が不足している気がするのだ。

 ──なにかが足りない。漠然とした戸惑いに立ち止まるメレオロンを他所に、なまえは疑問符を浮かべつつもこの機を逃すまいと健気にも息を整え始める。白い腹部がゆっくりと上下に動く様が眩しい。黒い布により確かめることは叶わないが、潤む瞳はとてもきれいで美味そうなんだろう。

 ふいに、合点がいった。
 瞳を隠す黒い布。両手を封じる黒い布。
 どうしようもなく焦がれた瞬間に必須だったものは。足りなかったものは。

 わざわざ封じた癖にと自嘲が浮かぶが当然ながらなまえがそれに気がつくことはない。
 そしてメレオロンの方も、わざわざそれを伝えることはしない。
 ただ何事もなかったかのように、数秒前からやり直すようになまえの肌に触れていく。


 メレオロンの喉が、ごくりと音を立てた。



(2015.01.04)(タイトル:亡霊)