10.籠の中
夏と言えど涼しい洞窟の中で、右目に布を当てた青年が懐かしい歌を聴いていた。
聴きなれない旋律はマルヤム風なのだと、今なら分かる。
透明感のある美しい歌を紡ぐ少女は、濡れるのも厭わずに洞窟から見える水辺の浅瀬に足を浸していた。
自分の記憶にある幼い少女の面影よりも少し大人びた横顔が、月明かりに照らされた。
伏せた睫毛に、通った鼻筋、唇は珊瑚に色付き、長い首がその白い肌に相まっている。
一目見たときから欲しいと思った少女はあの忌々しい出来事で手から零れ、そしてまた眼前に現れた。
今度こそ手に入れたいーー。
恋する少女の横顔を焼き付けるように、青年は彼女を見つめ続けた。
* * *
王宮のとある一室。
パルスの王妃を捕らえ、ルシタニア軍による王都陥落が成功した。
あてがわれた部屋に足を踏み入れた銀仮面卿は、攫った女を寝台にゆっくりと寝かせる。
眠る女の頬に手を滑らせ、細い首に指を這わせる。脈打つ鼓動を感じたのか、直ぐに指を放した。
闇の中でも輝く金色の髪を一房手にして唇に寄せる。ずっと欲しいと渇望していた女と瓜二つの存在を、銀仮面卿は見つめた。
あの地下室で出会った時、あまりにも似過ぎた存在を本物と錯覚して無意識に抱きしめていた。本当に欲しい存在は、王太子一行と共にしていると知っていたのに。
そして、女を気絶させて抱き起こした時、地下室に現れた部下のカーラーンが驚いたように腕に抱かれた女を見ていた。
『レイシー……殿』
レイシーという名に記憶の蓋が開く。
妹の存在を思い出してやっと、求めていた女と違うものだと銀仮面卿は気がついた。
「まあ、いい。人質にはうってつけではないか」
口づけを落とした柔らかい髪をはらはらと寝台に零して、独りでに呟く。
これを使えば、妹を大切にする彼女が自分のもとへ自ら来るだろう。最大限に利用すればいい、と。
そう口では言いながら、銀仮面の冷たい瞳が熱を帯びたように光っている。
頭で何かを考えていなければ錯覚してしまうのか、今にも彼女が欲しいと手を伸ばしてしまう。
「俺が欲しいのは……」
静かに眠る女の顔が、愛しい存在と重なる。
ゆっくりと唇を近づけると、眠る人形から小さな吐息が漏れた。
「んっ……」
「!!」
驚いて身を引くと同時に、閉じた瞼が開いて宙を見つめる。ゆれる紅い瞳が、銀仮面を見つめたーー。
* * *
夢を、見ていた。
懐かしい夢から、思い出したくないものまで。
いろんな記憶の狭間を垣間見ていると、ふと誰かに呼ばれたような気がした。
水の中を揺蕩うように、流れに身を任せて眠っていた思考が上昇する。
ゆるゆると瞼を開けると、銀色の光が見えた。
「…………誰?」
銀色の仮面と目が合う。
見開かれた瞳は、自分ではない何かを見ているようでーー。
ばさりと銀仮面の纏う闇色の外套が翻り、背を向けられる。
「逃げようなどとは思うなよ、ルシタニア兵に殺されたくなければな」
問いかけには答えずにそう言い残し、銀仮面が部屋から出て行く。一人取り残されたレイシーはゆっくりと起き上がった。
(王妃様はご無事だろうか……)
あの恐ろしい戦いの音がしないということは、パルスは負けたのだろうと考えて寝台から降りる。
周りを見渡すと、月明かりに照らされた部屋が王宮の一室であると気がついた。おそらくルシタニア軍に占領されたのだろう、我が物顔で踏み荒らされる情景を想像して唇を噛みしめる。
部屋を見て回り、扉を見つめる。
あの不気味な銀仮面は逃げればルシタニア兵に殺されると示唆していた。せめて王妃の安否を知りたいと思っていると、扉が開いて見知った顔が現れた。
「……カーラーン、さま……?」
「……レイシー殿」
灯りを手にしたカーラーンが、近くの燭台に火を灯す。部屋が明るくなると、レイシーはカーラーンに詰め寄った。
「何故、貴方がここに……!?」
「私は今、とあるお方にお仕えしておるのです」
「あの銀仮面に、ですか……?」
カーラーンが頷くと、レイシーは呆然とした表情で目を見開く。アトロパテネに行く時から、カーラーンはパルスを裏切るつもりだったのか。
目の前が暗くなりそうになる。額に手を当てていると、カーラーンは逆に安堵したような表情を見せた。
「この部屋から出なければルシタニア兵に危害を加えられる心配はござらん。我が主は貴女の姉君を捜しておる、じきに再会できるでしょう」
「あの人が、お姉様を……」
地下室で捕まった際に姉の名前で呼ばれたのを思い出す。確かにここにいれば安全なのだろうが、それよりも王妃の安否が気にかかった。
「タハミーネ様は、ご無事なのですか?」
王妃の名前にカーラーンの眉が寄る。
レイシーがじっと見つめると、観念したように溜息を吐いた。
「王妃は……ルシタニア国王に求婚され幽閉されている」
「求婚!?」
驚くレイシーにカーラーンはただ頷く。
女も羨むあの美貌は敵国の王さえも虜にするとは……。
「とにかく、無事な姿が見れて良かった。当分はこちらでおとなしくしているように」
カーラーンが念押ししながら出て行く。
「……いったい、何が起こっているの……?」
状況についていけない。
頭を抱え込みたくなるのを我慢して、ぼさりと寝台に寝そべった。
危害を加えられないと言われたが、それが本当なのかは判断できない。銀仮面はパルス人だろうが、ルシタニア軍にとってレイシーは敵国の人間なのだ。
「……今はまだ情報が足りない……なにか、考えなければ……」
何かしら考えておかないと自分を保てそうにない。少しでも気を緩ませると涙が溢れそうになった。
「っ……泣いてはダメよ、絶対に、お姉様と再会するのだから……」
縋れるものは唯一、姉の安否だけ。
寝具に顔を埋めて黙り込む。
ああ、あの時に旅の楽士の手を取っていればどうなっていたのだろうか。
あるはずもない未来を考えて、ゆっくりと眠りに落ちた。
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