18.アネモネの花言葉



 銀仮面卿もとい、ヒルメスの館で暇を持て余していたレイシーは、中庭の花を手入れしようと与えられた部屋から抜け出した。
 今ヒルメスはザンデを伴い、アルスラーンと姉を追ってペシャワールに向かっている。

 今頃追いついているだろうか……。
 お願いだから姉を攫ってきてほしくない。
 それは姉の無事をただ願っているだけなのか、それとも幼い頃の初恋をいまだ引きずっているからなのか、自分でももう分からなくなっていた。

 中庭に降り立ち、ひっそりと咲く花を見つめる。
 冬に咲いた珍しいアネモネは儚げに散ろうとしていた。
 ゆっくりと紫の花弁に触れようとした時、後ろからパタパタと走る音が聞こえてきた。

 振り返ると、召使いが軽い食事を乗せた盆を持って裏口から出ようとしている。

「何をしているの?」

「ひ、姫さま!?」

 ただ声をかけただけなのに、若い召使いは狼狽えたように後ずさる。

「? それをどちらに持っていくのか気になっただけよ」

「そ、それは……怪我人にお持ちするためです……」

「怪我人? この館に怪我人がいるの?」

「い、いえ! こちらではなく、裏の館に….…」

「そう、私も連れて行ってもらえないかしら?」

「……か、かしこまりました……」

 何かを隠しているだろう召使いを訝しみ、館の裏に位置する一軒の家へと足を踏み入れると、レイシーは意外な人物と再会した。

「……サーム、様、ですか……?」

「レイシーか……?」

 寝台で横になっていた万騎長サームが起き上がり、レイシーが傍に駆け寄る。上半身裸の状態で腹部に包帯を巻いていた彼の惨状に声を失っていると、召使いが持っていた盆の中身を思い出した。

「この方の包帯を変えるのね?」

「は、はい。ですがそれは私がーー」

「お願い、私にやさせて」

 レイシーに懇願されて召使いが渋々盆を手渡す。
 召使いが家から出て行くのを確認して、レイシーは寝台の脇にある台に盆を置いた。

「レイシー、何故おぬしがここに……まさかヒルメス王子と行動を共にしているのか?」

「私は……ただの人質でしかないのです……」

「なに……?」

 血の滲んだ包帯を慎重に巻き取り、盆に置いてある軟膏を傷口に塗っていく。丁寧に塗りながら、今までの経緯をサームに説明すると、彼は驚いたように聞き入っていた。

「そんなことがあったのか……独りで、辛かっただろう……」

 清潔な包帯を巻き直そうと、レイシーが新しい包帯を盆から取ろうとすると、大きな手が彼女の頭を撫でた。

「サーム様……」

 顔を上げると思慮深い優しい瞳と目が合う。

「俺はヒルメス王子に生かされながらも、誰にお仕えすればよいかわからなくなってしまった……」

 敵として現れた男は亡くなったとばかり思っていたヒルメス王子で、彼はアンドラゴラス王に謀殺されかけ復讐と正当性を証明するために王位を欲しているという。

 サームは王家に忠誠を誓っている。
 現王ながらオスロエス王の後を継ぐはずのヒルメス王子を謀殺したアンドラゴラス王に変わらずの忠節を尽くすべきか。
 それとも、正統の血筋をもちながら叔父に裏切られ復讐を誓う王子の助けになるべきか、苦渋の選択を迫られていた。

 暗い雰囲気のサームに、レイシーが口を開いた。

「そうですね……私も、何が正しくて、何が悪いのか、分からなくなってますわ。でもまずはーー」

「ぐっ!?」

「お怪我を治して、英気を養ってから考えても良いと思います」

 にこやかに笑うレイシーの手には白い包帯。
 キツめに固定された包帯に息を漏らしたサームに、レイシーがくすくすと笑っている。

「ちょうどヒルメス王子はアルスラーン殿下とお姉様を追って、ペシャワールにいます。いない人を思ってもせんなき事、まずは歩けるようにならなくては」

「っ……そ、そうだな。おぬしの言う通りだ」

 苦笑しながらもなにか救われたように笑うサームに、レイシーが微笑む。
 そう、いない人のことを考えても何もならない。
 たった一人で暗闇に投げ出されたこの人をの心身の怪我を治さなければならないと、レイシーは決意した。

「さ、手当の次は食事ですね」

 盆から温かいシチューの入った器を取り、匙で掬う。
 ふーふー、とシチューを冷まそうと息を吹きかけて「はい、どうぞ」とサームの口元に匙を寄せると、珍しく彼が顔を真っ赤にさせて狼狽している。

「レイシー、食事ぐらい一人で食べれる。おぬしにそんなことまでさせるのはーー」

「怪我人は大人しくしていてくださいませ」

「む……すまぬ……」

 大人しくなったサームに満足したように頷いて、少しずつシチューを食べさせる。

 こうして、裏の家にサームの存在を知ったレイシーは毎日のように足を運び、甲斐甲斐しく世話をするようになった。

 林檎を向いてサームに食べさせたり、歌を歌って慰めたり。
 冬の寒さが強くなってくる今日は、シャトランジ(チェス)で対決していた。

 盤上に赤と緑の駒が向かい合い、互いに睨み合っている。
 赤の駒のレイシーが自軍の駒をすすめると、緑の駒のサームが冷静に対処していく。

「さすがサーム様、お強いですね……」

「レイシーこそ、リンドバーグ殿と似た指し方をするな。やはり親子か」

「お父様と指していたのですか?」

「ああ、戦うしか能のない俺に戦略を教えてくれたのがリンドバーグ殿だ」

 レイシーが有利に駒を動かしながらも、サームの冷静でいて柔軟な策で王を掴むことができない。
 レイシーがいかに王を取るか考えていると、サームが顔を上げた。

「して、レイシー。少し気になっていたことがあるのだが」

「なんですか? 今は勝負に集中していたいのですがーー」

「おぬしはヒルメス王子のことを慕っているのか?」

「ええ!?」

 突然の言葉に動揺したレイシーが駒を思わぬ所に置いてしまう。
 止めようとするが時既に遅く、サームが自駒を進めている。

「少し前に、ここから表の館まで歩いていたら、中庭にいるおぬしを見つけてな。物思いに耽けながら枯れた花を見つめているおぬしが今にも泣きそうに見えた」

「っ、それ……は……」

 そう、あの季節外れに咲いていたアネモネの花が枯れた。
 何故かそれが悲しくて、泣くのを我慢しながら花を見つめていた。

 でも、私がヒルメス王子を慕っている……?

 確かに幼い頃の初恋の人ではあった。
 でも銀仮面として現れ、自分を攫った張本人のことを好きになるなど……。

「私はあの人に冷たいことしかされていません。それにあの人にとって私はお姉様の身代わりだから……」

「身代わりと嘆くこと自体が慕っている証拠ではないだろうか」

「ーー!!」

 そう、私は身代わりであることか辛い。
 いつもあの人は私のことなど見ていない、姉の面影を探して、私を『レイン』と呼ぶ。
 自分の名前など一度も呼ばれたことなどない。

 私の名前を呼んでほしい……。

「……負けましたわ」

 気づけば王手をかけられ、さらに自分の心まで見透かされ、二重の意味で負けてしまった。

 いつのまにか溢れていた涙を優しい指が丁寧に拭う。

 もう少しすればあの人が戻ってくるだろう。

 いつもなら避けるしかできない私だけれど、次会う時は真正面から向き合ってみたい。

 自分の気持ちを再確認するためにも。

 たまにはあの人を待つのもいいかもしれない……。


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