20.貴女に捧げるは最愛の
かつかつとペシャワール城塞の廊下に靴音が響く。祝宴場の喧騒とは打って変わり、物静かな夜の匂いをラジェンドラは満足そうに吸い込む。
腕の中で眠っている女の華奢な体を抱いていると、ついと女の寝顔を見つめた。
(存外軽いのだな)
剣を向けられた時の苛烈に光る瞳を思い出す。祝宴の時にそれとなく王太子に聞いてみれば、レインという名の女はアルスラーンの護衛だという。
(女が剣を持つとは珍しい)
だからこそ、興味を持った。
そして蓋を開けてみればなんともそそる顔をする女であるか。男として手を出さずしてどうすると彼は大真面目に思っていた。
「……んっ……」
眠っていたレインが目を覚ましたのか、瞼が揺れてゆっくり開く。
「……あれ、ここ……ダリューン?」
まだ眠いのかうとうととした表情のレインにラジェンドラが笑いそうになると、やっと目が慣れたのか、自分を抱いて歩いているのがラジェンドラだと気がついて目を見ひらく。
「!? ら、ラジェンドラ王子! お、降ろしてください!」
「それは無理な相談であるな、おぬしはまだ酔いが回って辛いだろう。なに、与えられた俺の部屋にあないして介抱してやろう」
「け、結構です。自分で歩けますから……きゃっ!」
「ほら、ふらふらして満足に歩けんだろう」
突然降ろされてよろめくレインの腰を抱き寄せるラジェンドラの手慣れた姿に、色好きな王子だと察して退こうとするが、手を取られて壁際に追いやられる。
「っ!!」
「もしやここで介抱されたいのか?」
壁に手をついて耳元で囁くラジェンドラに背筋が凍る。そもそも何故こんな状況になっているのか皆目見当がつかない。ファランギースと話しているところまでは覚えているが、そこから先が一切記憶から抜け落ちているのである。
レインとしては今すぐにも蹴りを見舞わせたいが、曲がりなりにも相手は王子で同盟相手。下手なことをすればアルスラーンとの間に亀裂を生みかねない。
「おやめ、ください。私などが相手せずとも、貴方様には自分から名乗りを上げる女性がたくさんいらっしゃるのではありませんか」
「確かに、国に戻れば自ら媚びるように女達が俺に言い寄ってくる。だが、おぬしが良いのだ」
「何故……」
「おぬしに惚れた」
「んっ!?」
強引に唇を奪われる。
酒気の匂いが鼻について唇が痺れるように熱い。
我慢できずに手を振りあげようとした時。
「ラジェンドラ王子!!」
聞き慣れた声が、廊下に響いた。
「……なんだパルスの戦士殿、今良いところなんだが」
「だ、ダリューン……」
恐る恐る声がした方に視線を向ければ、怖い顔をしたダリューンがそこにいる。彼女にとって一番見られたくない人に、見られてしまった。
彼は大股で近づき、ラジェンドラから引き剥がすようにレインの腕を取って抱き寄せた。
「彼女がなにか粗相をしたようで、申し訳ござらんが私がお預かりいたしましょう」
「……なに、レイン殿が酔って倒れそうになった所を助けたまでのこと」
にやりと笑うラジェンドラにダリューンが眉を寄せる。興が冷めた、と王子が二人から退くように離れていく。
「そんなに大事なら離さぬことだな。……ではレイン殿、次の逢瀬を楽しみにしているぞ」
笑い声を上げて去って行くラジェンドラを睨み付けたダリューンが、強い力でレインを抱き上げる。
「きゃっ!? ダリューン!」
「動くな、落ちるぞ……部屋に送って行く」
「…………」
いつもより硬い声に言葉を噤む。
しばらく二人の間に無言の時が過ぎると、レインの部屋に到着した。
「大丈夫か……」
ゆっくり寝台に降ろされると、緊張の糸が切れたように目の前のダリューンに寄りかかる。
「レイン、どこか具合が」
「ううん、大丈夫……疲れた、だけ」
心配したダリューンが隣に腰掛けて、レインが肩に寄りかかれるようにする。
「ありがとう……助けてくれて」
「いや……。それよりもあの王子になにを言われた」
「それは……私に惚れたって……」
「なに!?」
「きっと冗談だよ、パルスの女が珍しいだけ」
まるで自分に言い聞かせるように言うレインにダリューンが何も言えずにいると、ふふっと彼女が笑った。
「それよりも、懐かしいなぁ。今日はずっと互いに呼び捨てにして」
「あれは、つい」
「いつからだっけ、互いに敬称で呼ぶようになったのは……ああ、あの日からだっけ」
「ああ」
「父様と母様が亡くなった……あの日……」
ぽたぽたとレインの目から涙が溢れて、ダリューンの肩に流れる。震える声でレインが呟いた。
「ダリューンに頼りたくないのに、頼ってはいけないのに、貴方を頼ってしまうの……私、強くなるって誓ったのに」
「十分だ、十分強い」
「そうかな……」
「ああ、戦士の中の戦士のおれが言うんだ。レインは十分強い、強くて、綺麗だ」
「…………ありがとう」
しばらくして規則正しい寝息が聞こえる。目尻に残った涙を指で拭い、寝台に寝かせる。
無防備な寝顔を見て、この唇にラジェンドラが触れたと思うと胸の奥に底知れぬ怒りが渦巻いてくる。
結わえている髪暇を解き、流れる金色の髪を左指に絡ませる。朱に染まっている頬を右手で撫でると、口付けを落とした。
「んっ……」
最初は啄むように口付けし、唇を食んで、次第に深く深く、舌を絡ませる。
あの王子の痕跡を消すように、手の甲にも唇を寄せた……。
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