1.初陣
パルス歴三二十年、秋。
永きにわたる繁栄を象徴するかのように緑豊かな王都エクバターナの王宮は、普段とは珍しく慌ただしかった。
隣国のマルヤム王国が西のルシタニア王国軍によって滅亡し、ルシタニア軍はパルス王国内に侵入した。ーーその報せが舞い降りた後、王宮は戦の準備に忙しない。
王宮内の自室で書物を読んでいた金髪の女が、外の騒々しさに溜息を漏らした。
「もう出立の時刻なのかしら」
書物に薔薇の栞を挟んで椅子から立ち上がって部屋を出る。庭や広場を通って門前に出ると、大勢の軍馬の群れと甲冑を着た騎兵や歩兵が溢れかえっていた。戦前の熱気にあたりながら周りを見渡す。と、見知った中年の男性が目に付いた。
「カーラーン様」
「おや、レイシー殿ではないですか」
甲冑姿の男性は、パルス軍に十二名しかいない万騎長の内の一人で名をカーラーンという。
真面目そうな顔の万騎長に駆け寄ると、彼は何かを悟ったかのように問いかけた。
「姉君をお捜しですか」
「はい、アルスラーン殿下のお側にいると思うのですが見かけませんでしたか?」
「先程あちらの方でお見かけしたので、まだいらっしゃると思いますぞ」
「ありがとうございます、カーラーン様」
礼を言うと、レイシーはふわりと微笑んだ。
「戦で怪我が無いように、ご武運を祈っておりますわ」
蝶のように軽やかに去っていくレイシーを見送り、カーラーンは一人痛みを堪えるように瞼を閉じた。
カーラーンに指し示された場所を目指して騎兵で溢れる中をするりと抜けて行く。
あと少しと思った時、甲冑姿の兵に押されぐらりとよろめいた。
「きゃっ!?」
レイシーの白絹のドレスが翻り転ぶと思った瞬間。逞しい腕がレイシーの腰にまわり誰かに抱き寄せられる。
「大丈夫か?」
驚いて顔を上げると、少しムスッとした表情の万騎長シャプールと目が合った。
「シャプール様! あ、ありがとうございます」
「ここは女が来る所ではないぞ、怪我したくなければ王宮に戻れ」
密着していた体が離れて厳しい目を向けらられる。武人として堅苦しい性格のシャプールにそう言われ、レイシーの目が翳った。
「申し訳ありません……。アルスラーン殿下と姉上のお見送りがしたかったのです」
彼女の言葉にシャプールがああと理解した。
「王太子殿下はこたびの戦が初陣だったな。心配なのも分かるが、こんなむさ苦しい連中に女が紛れていたらどんな野獣に捕まるかわからないぞ」
「え……」
「ただでさえお前は隙が多いんだ、クバードあたりに見つかって口説かれでもしたらどうするつもりだ。分かったら早く姉の元に急ぐんだな」
「は、はい」
名残惜しいがそう言われたら急ぐしかない。本当はもっと話をしていたかったが、最後に一言だけ声を掛けようと思い顔を上げた。
「あの、シャプール様」
「今度はなんだ」
「必ず、無事に帰ってきてくださいね。武運を祈っております」
「あ、ああ……」
言いたいことだけは言えた達成感に思わず笑みがこぼれる。深々と礼をし、今度こそ目的地を目指して人混みをすり抜けて行った。
レイシーの背を見送りながら、シャプールは手で口元を覆い俯いた。
「……反則だろ……」
あんな顔をされたら男は黙っていられない。父親に連れられていたあどけない少女だと思っていたが、こんなにも男心をくすぐる表情ができるとは堅物なシャプールも動揺を隠しきれなかった。
シャプールと別れて先を急いでいたレイシーは、見知った白馬と女を見つけて駆け寄った。
「お姉様!」
白馬の背を撫でていた金髪の女性が振り返って笑顔を見せる。それは驚くほどレイシーと瓜二つの顔をしていた。
煌めくような金色の髪に真紅色の瞳。レイシーと違うのは波のある髪を高く結わえ、服装は動きやすさを重視しているのか踊り子のような軽装だった。
「レイシー! 見送りに来てくれたの?」
「はい。必ず無事に帰ってきてくださいね」
唯一の肉親である双子の姉を心配してそう言うと、姉は苦笑して妹の柔らかな髪を撫でた。
「大丈夫、女の私は実際に戦闘には加わらないし、天幕で殿下の帰りを待つだけだから」
十四歳になったばかりの王太子アルスラーンの初陣。その世話係りとなったのが王太子の護衛でもある双子の姉レインが勤めることとなった。といっても女のレインが戦に加わることはなく天幕内での王太子の世話をするだけだ。
「それにもしも敵が天幕内に侵入しても、この剣で全員斬ってみせるから」
レインが腰に差した剣の鞘を叩く。
すると後ろからクスクスと笑い声が聞こえた。姉妹が振り返ると、銀色の髪をした少年が面白そうに笑っている。
「レインなら本当にできそうだな」
「殿下!」
「まあ、アルスラーン殿下」
姉妹が仕える少年王子は晴れ渡る青色の瞳を揺らす。初めての戦に緊張しているのか、表情は少し硬かった。
「殿下、こたびの初陣おめでとうございます」
レイシーが優雅に礼をとり王太子を安心させるように柔らかく微笑む。
「殿下、もしも緊張していらっしゃるのなら手のひらに人という字を書いて飲み込んでみてください。きっと落ち着きますわ」
「なぜ人の字なのだ?」
「戦では大勢の敵と相対します。その時敵の気迫に呑まれないように、という意味が込めてあります。殿下が敵を呑み込んでしまえばよろしいのですわ」
「なるほど、ではやってみよう」
実際にやってみる王太子に姉妹は微笑ましそうに見やる。人を呑み込み瞼を閉じると、アルスラーンは落ち着いたような表情を見せた。
「流石私の教師だ、私の知らないことをなんでも知っている」
「もったいないお言葉です。ですが私の知識は全て父と書物から得ているものですわ」
姉妹の父親は今は亡き先の宰相で、先見の明がある天才と言われた人物だった。
その父親の聡明さを受け継いだレイシーは王太子の教育係を任されている。
「殿下、私は王宮で王妃様と共にお帰りをお待ちしております」
「ああ……」
「パルスの神々のご加護が貴方様の頭上に降りますように……。ご武運を祈っております」
遠くから笛の音が鳴る。
アルスラーンとレインが馬に乗ると、邪魔にならないよう後方に下がったレイシーが深くお辞儀をした。
「行ってくる」
晴れ渡る夜空のような瞳が前を見据えて馬を進める。
王太子アルスラーンの初陣を見送りながら、レイシーは亡き父母に祈った。
「お父様、お母様。どうかアルスラーン殿下とお姉様をお守りください」
アルスラーン達の背が見えなくなるまでその場にいたレイシーは祈ることしかできなかった。
まさかこれが最後の対面になるとは知らずに……。
パルス歴三二十年、秋。
アトロパテネの戦いが始まるーー。
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