2.アトロパテネの戦い



 濃い霧が辺りを真っ白に染めている。
 晴れていればアトロパテネ平野が見渡せる筈が、今では立ち込める霧で先が見えずにいた。
 既に多くの兵が陣を作っている中、王太子の護衛であるレインは馬に乗った王太子に礼をした。

「殿下、ご武運を」

「ああ……必ず帰ってくる」

 緊張しながらも前を見据えるアルスラーンを見て、レインは息を吐いた。

「でもまさか、ダリューン殿が万騎長の任を解かれるとは……」

 レインの呟きに王太子も頷く。
 十二人の万騎長マルズバーンの内の一人、ダリューンが王の不興をかい万騎長の任を解かれた。幸先悪い知らせにレインはずっと嫌な予感を胸に感じていた。

(何事も無く終わればいいのに)

 アルスラーンが兵に呼ばれて陣に向かう。
 女であるレインは戦に参加できない、側で王太子を守りたいと思いながら歯痒い気持ちで後ろ姿を見送る。

「レイン殿」

 ダリューンの元にでも顔を出してみようかと思った時、一人の騎士がレインを呼び止めた。

「カーラーン様!」

 中年の万騎長の姿にレインが礼を取る。
 幼い頃から知る万騎長は心配そうな顔をして彼女を見た。

「戦がはじまったら絶対に天幕から出てはなりませぬぞ。戦場は危険ですからな」

「分かってますよ」

 苦笑すると、カーラーンはなおしつこく念を押す。
 レインの父親と親交があったカーラーンは、姉妹にとって父親のような存在でありレインにとっては憧れの戦士である。そんな彼に念押しされれば頷かないはずがない。

 大人しく天幕の中に入って手持ち無沙汰に剣を触る。
 暫くすると、国王による突撃の合図がこちらにまで轟いてきた。

「はじまったか……」

 騎兵が地を駆ける音が地鳴りのように響くいてくる。絨毯に座り込んで音を聞いていると地鳴りが悲鳴へと変わった。

「え、なに……?」

 パルス語で響き渡る悲鳴に思わず立ち上がる。先陣を切るのは屈強な騎兵隊で、その中には王太子もいるはず。不安に駆られて恐る恐るテントから外を見ると、遠くに大きな炎が燃え上がっていた。

「……嘘……」

 パルス軍が火攻めにあっている。
 遠くから赤々と燃える炎がかいまみえ心臓が大きく鳴り響いている。蛇のように唸る炎に足が竦み、頭の中ではあの時の悲鳴が再生された。

「…………助け、なきゃ…………」

 あの時助けられなかった後悔が胸に迫り、反射的に外套を掴んで天幕から飛び出した。
 フード付きの外套を羽織って愛馬に跨る。本陣まで急ぐと、大将軍のヴァフリーズがレインに気がついた。

「レイン!? おぬしなぜここにーー」

「それよりもヴァフリーズ様、何が起こったのですか!?」

「……敵の罠じゃ、先陣が総崩れとなっている」

「ではアルスラーン殿下は!?」

「…………レイン、女子のおぬしに頼るのも申し訳ないが、殿下をお助けしてもらえないか」

 ヴァフリーズの言葉にレインが大きく頷いた。

「もとより私は殿下の護衛ですから!」

 言うが早く馬を駆り、戦場の只中に突入する。
 先陣隊が突入するであろう場所から、更に王太子を逃がそうとする兵達の動きに検討をつけ最速で駆けた。

 戦場を駆けていると、悲惨な現状が目を奪う。パルスの騎兵隊が炎に包まれ、逃れた者も降り注ぐ矢に射抜かれている。

(酷い……)

 立ち込める霧が運良く白い外套と白馬に溶け、レインの姿を消してくれている。時折ルシタニア兵に見つかるもそれよりも早く剣を振い敵を倒していく。
 随分戦場深くまで来たが未だ王太子と随従兵らしき一団は見当たらない。早く捜し当てなければと周辺に視線を走らせると、東の方角から叫び声が聞こえた。

「なぜだ、カーラーン!!」

 まだ幼さが残る声に王太子の声だと気づくと、素早く馬の横腹を蹴り猛然と東へ駆ける。

 霧の向こうにルシタニアの旗が見えてきた。
 声の主を捜すと、旗の手前に銀髪の王太子が地面に倒れ、霧で顔は見えないが敵らしき人物が王太子目掛けて剣を振り下ろそうとしている。

「殿下ーー!!」

 レインの剣が敵の剣を弾いた。

「レイン!!!」

 王太子の前に立ちふさがり、敵を睨みつけよる。アルスラーンに剣を向けていた人物と目が合うと、それは見知った存在だった。

「カーラーン……様……?」

 王太子を殺そうとした人物がカーラーンだったという事実に絶句していると、カーラーンは目を見開いて呟いた。

「なぜ……貴女がここに……」

「なぜって、それはこちらの台詞です! どうして貴方が、アルスラーン殿下を殺そうとするのですか!?」

 レインの言葉にカーラーンは唇を噛みしめ剣を前に突きつける。

「今直ぐに本陣の天幕に戻りなさい。私の主が貴女を迎えにくる」

「っーーパルスを裏切ったのね! ルシタニアに寝返ったような者に私がついていくはずがありません!!」

「ならば力づくでも連れていくまで!!」

 突きつけられた剣を薙ぎ払い、後方へ馬を引く。王太子を守りながらどうやってこの場から逃げようか考えていると、ルシタニア兵が横合いから槍を突き出してきた。

「くっ!!」

「! 傷つけるな! 少しでも傷つけたら銀仮面卿のお怒りを受けるぞ!」

 レインが紙一重でかわす。カーラーンがルシタニア兵に怒鳴っている隙を見て周囲の敵を蹴散らした。

「ぐあっ!」

「ぎゃあ!」

 舞うように剣を振るうレインにルシタニア兵が怯んで後退する。カーラーンがレインの馬を斬ろうとした時、後方から力強い声が聞こえきた。

「殿下ーー! レイン殿ー!!」

 黒馬に跨った黒衣の騎士がカーラーンの剣を槍で突く。衝撃で後退したカーラーンが苦々しげに乱入してきた騎士を睨んだ。

「殿下、レイン殿、ご無事ですか。伯父の命によりお助けいたす」

 黒衣の騎士ダリューンが槍を構えてカーラーンと対峙する。
 戦士の中の戦士マルダーンフマルダーンといわれたパルスに名高い戦士の登場に、レインは安堵したように息をついた。

「ダリューン殿……!」

「レイン殿は殿下をお守りくだされ」

 ダリューンの言葉に頷いて王太子の傍らに引くと、万騎長同士の戦いが始まった。


「裏切ったのか、カーラーン!」

「裏切りではない。まことパルス王国のためを思えばこそ、アンドラゴラスを玉座から追うくわだてに加担したのだ」

 ダリューンが黒衣を翻して突進する。
 カーラーンの後ろにいたルシタニア兵が守ろうとしたが、ダリューンの槍で貫かれ勢いよく落馬した。
 己の槍ごと落馬した兵を視界にいれるより早く、ダリューンが長剣を抜き払い続くルシタニア兵の首を落としてカーラーンの剣とぶつかり合う。

「まて、ダリューン、話を聞け!」

 ダリューンの凄まじい剣技に防戦一方のカーラーンが、馬を引いて離れようとする。

「いまさら何を言う!」

「まて、事情を知ればおぬしとて俺の行為をせめはすまい。聞いてくれーー」

 追うようにダリューンが鞍の革紐の一部を切り落とした瞬間、カーラーンは己の不利を悟って馬首をめぐらした。

「ここは引くぞ!!」

「カーラーン!!」

 ルシタニア兵と共に逃げていくカーラーンを追おうとしたが、ダリューンは王太子の無事を確かめることを優先した。

「殿下!」

 へたり込んでいる王太子に駆け寄ると、すでに馬から降りていたレインがアルスラーンを抱き起こしていた。

「……なぜだ……カーラーン……」

 信じていた万騎長の裏切りに年若い王子は信じられないというに呟く。
 レインとダリューンはお互い顔を見合わせて俯いた。


 アトロパテネの戦い。
 それはまだ未熟な王太子の波乱の人生の幕開けだった。


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