33.募る想い



 アルスラーン達がシンドゥラで戦っていた頃、レイシーは銀仮面卿の邸宅で彼らを見送っていた。

 ルシタニアの狂信者ボダンが、聖堂騎士団テンペレシオンスと共にザーブル城に立て籠もってしまったため、ギスカールに請われたヒルメスが討伐に向かうのである。
 エクバターナでパルス人の兵を集めたヒルメスは、サームやザンデを伴って出陣する。討伐軍に加わることのできないレイシーは一人取り残され、見送ることしかできなかった。

「サーム様、どうかご無事で……」

「ああ。おぬしを一人残すのはしのびないが……ザーブル城を陥した時は必ず呼びもどそう」

 どうやらルシタニアの内輪揉めに関わった理由は、ザーブル城を陥した後に城を恩賞として求めるようだった。館ではなく城を根城にできれば、ルシタニアの中でも銀仮面卿の扱いが変わってくるだろうと。

「……待つ身は苦しいです…….」

「そうか……そうだな……」

 アトロパテネの戦いが脳裏をよぎる。あの日王太子と姉を見送ったのが、最後だった。

 ぽんとサームの手がレイシーの頭におり、優しく撫でられる。大きな手のひらに撫でられて少し気持ちが落ち着いてきた。
 レイシーが礼を言うと、サームは集った兵士達の準備を確認するために去ってしまう。残された彼女は一点を見つめて歩を進めた。

「…………ヒルメス、殿下」

「…………」

 自らの馬を撫でていたヒルメスがこちらに視線を移す。はじめて彼の名前を呼んだが、銀の仮面に隠れて表情は見えない。

「……無事を祈っています」

 思っていることを口にすればヒルメスは予想だにしなかったのか、うろたえたように顔をそらした。

「俺がここから離れれば、おぬしは逃げられるぞ」

「もう、逃げません。言ったではないですか、貴方の傍にいたいと。だから待っています」

 分からないというようにヒルメスの目がレイシーの瞳を見つめる。今まではずっと彼女が彼の真意を掴めなかったが、今は立場が反転したようになっている。しかもずっと名前を呼べと言っていたのに、いざ言うと本人は黙り込んだまま。

「ヒルメス殿下、一つお願いがあります」

「なんだ……」

「この戦いが終わったら、私の名前をお呼びください。お姉様の名前ではなく、私の」

「……それが、なんだというのだ」

「私がヒルメス殿下にそう呼ばれたいからです」

 そう微笑めば、彼は仮面からでもわかるように大きく目を見開いた。その姿がなんだかおかしくて、可愛いと思ってしまう。

「勝利の報をお待ちしております」

 一礼をして踵を返す。背中に痛いほど視線を受けながら、レイシーは小さく笑い、そして何かを思い出したように空を見上げた。

 そういえば、どこかで誰かに同じことを言った気がする……。


『いつかきっと、おぬしを迎えに行く』

 前に見た夢の中でそう言われ、レイシーは応えたのだ。確か−−『待っています』と。

 その時と似た雲が大空の中たゆたっている。あと少しで思い出しそうなのに、思い出せない。
 欠けたピースを思い出そうとして、騎馬が駆けて行く音に振り返る。映え渡る青空の中、ヒルメス達はエクバターナを発った。


 * * *


「え、ギスカール公爵様が私を?」

 ヒルメス達が出立してから数日、静かに書物を開いて眺めていたレイシーは召使いの言葉に顔を上げた。召使いが言うには王宮にてギスカールがレイシーを呼んでいるという。
 二度目の招きに困惑するが、こちらに拒否権はない。ヒルメスがいない時に何故と思ってしまうが、仕方がなく身支度の準備をする。

 玄関先に行くと、馬を待たせていたルシタニア兵が礼をした。差し出された馬に近寄ってまたがると、兵士に先導されて王宮へと馬を進める。


 王宮に到着すると、案内されたのは庭園ではなく王弟の私室だった。
 部屋に入るとゆったりと長椅子に座ったギスカールがいる。ルシタニア王家の者に相応しく豪奢な衣服を纏っている王弟に、レイシーは失礼のないように目を伏せて深く礼を取った。

「お初にお目にかかります。パルス国前宰相リンドバーグの娘、レイシーと申します。恐れ多くも王弟殿下にお招きいただき、まことに光栄でございます」

「よい、顔をあげよ」

 ゆっくり顔をあげると、こちらを値踏みするようにギスカールの視線が上から下に移動する。長椅子に座るように促され、テーブルを挟んだ向かいに座ると宮女がルシタニアの紅茶を運んできた。

 その宮女がタハミーネ王妃付きの者だと気がつき、互いに安堵するように微笑み合う。共に王妃に仕えていた人の無事の姿を見て、心から安心するがここはルシタニアに占拠された王宮だ。ギスカールに向き直ると、彼はゆっくりと長椅子から体を起こした。

「少しおぬしと話がしたくてな。銀仮面卿がルシタニア側の都合で急に出撃となり、心細くしているのではないか」

「……はい。仰せの通りでございます」

 ヘタに否定せずに頷く。急に一人となってしまい心細く思っていたのは間違いが、何故ルシタニアの王弟がそんなことを気にしているのか。すると茶器を手に取ったギスカールが思いもよらないことを言った。

「うむ、聖堂騎士団の討伐が終わるまでかの者は帰ってこぬだろう。一人で心細くする女性にょしょうを放ってはおけん、おぬしがよければこの王宮で暮らしてはどうか?」

「そ、れは……とても身に余る光栄ですが……何故パルス人の私にそこまで……」

「前にタハミーネ王妃からおぬしを預けたいと言われたのを思い出してな。あの時は銀仮面卿に断られたが、今はあの者もいない。心細くしているのなら、銀仮面卿が戻ってくるまで王妃の話し相手になってもらうのも良いと思ったのだ」

「王妃様の……」

「おぬしが以前使っていた部屋も元どおりにしてあるが、さてどうする?」

 王妃の話し相手と言われて断れるはずがなかった。前回自分から王妃に断ってしまったという負い目からレイシーは頷いてしまい、こうしてまた王宮へと戻ってくることになった。



「…………静か」

 王宮に戻ってきたレイシーは王妃の話し相手をしながら静かに暮らしていた。
 足繁く王妃の元に通うイノケンティス王とタハミーネ王妃の会話を聞いたり、時折王妃に請われて王の前で歌ったりと、とても静かで安らかな生活だ。侵掠したもの、された者同士とはとても思えないほどの。

「でも、やっぱり寂しい……」

 薔薇園で静かに歩く。
 何故寂しいと思うかなど分かりきっている。あの人がいないのだ。
 自分の中で徐々に大きくなっていく存在に苦笑いが浮かぶ。もう逃げないと決めたのに、どうしてこう離れてしまうのか。

「待っています……」

 美しい真紅の薔薇を指でなぞりそう呟く。
 早く帰ってきてほしい、あの銀の仮面を見て安心したい。少しでもいいから言葉を交わしたい。

「いたっ」

 物思いに更けていたせいで、指を薔薇の棘で刺してしまった。ぷっくりと溢れた真っ赤な血を拭おうとしてふと目を見開く。

「……ぁ……」

 そういえば、似たようなことがあった気がする。何かで指を怪我して、誰かがそれを……。

「あれは、確か……」

 ふと、右目に布をあてた男を思い出す。
 昔自分を助けてくれた人、確か旅をしていたという−ー。

「旅人……さん……」

 濁流に呑まれるように記憶が頭の中を駆け巡る。あれは、あれはレイシーが母と姉と共にマルヤムに行った時の出来事。

「思い出したっ」

 夢に見ていた場面の続きを鮮明に思い出す。この記憶が間違いなければ、あの人はきっと−−。

 慌てて薔薇園から駆け出す。
 やっと待ち人を思い出してレイシーは無我夢中で走るのだった。


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