36.不機嫌な君が可愛くて



 パルス歴三二一年四月、ペシャワール城塞にて王太子アルスラーンの名で発せられた檄文に応えるように、パルス各国の諸侯や領主達がペシャワールへ駆けつけた。

 レイの領主ルーシャン、オクサスの領主の息子ザラーヴァント、万騎長シャプールの弟イスファーン、ザラの守備隊の長トゥース、以下数多の武将達が集い、驚くほど早く兵の増強がかなった。

 そしてアルスラーンより中書令の地位を任じられていたナルサスはあっさりとルーシャン卿に譲り、軍務卿の地位に就いた。
 アトロパテネ以来アルスラーンに仕えている者と、新たに加わった者達の間で派閥が起きないように、政と軍の組織を再編成したのだ。
 つい最近にもジャスワントとザラーヴァントとの間に諍いが起こったばかりである。慎重に王太子軍の陣容を形成させようとしていたナルサスはギーヴを自室に呼び出し、ある相談事をした。

 そんな時であった、ペシャワール城内で火事が起こり、謎の黒ずくめの男をイスファーンとギーヴが倒した後。ナルサスに兄譲りの剣を褒められたイスファーンは、ギーヴ本人の口から敬愛する兄を射殺したのは自分だと聞かされたのだ。
 激昂したイスファーンと決闘することとなったギーヴは駆けつけたファランギースに制され剣を納めるも、彼は自らの意思でアルスラーンの前から一人出奔することとなった。

「ダリューン、酷いじゃない」

「その、レイン」

「アルスラーン殿下に秘密にするのは理解できるけれど、私にまで秘密にするなんて」

 王太子の自室前、ギーヴが旅立ち意気消沈していたアルスラーンを送っていたレインは、ダリューンの口から語られた真実にきゅっと口を結んだ。

 ナルサスは信頼のできる者に王都やルシタニア軍の内情を探らせる為に、ギーヴに一芝居うたせて軍から出奔させ、独立して行動を行えるようにしたのである。
 そして、イスファーンとギーヴの確執を誰の異議の唱えさせない形で修復させたいと思っているのだった。

「二人の決闘中、私がどうやって彼らを諌めようと慌ててたか……ダリューンにはこの気持ち、わからないでしょ」

 まさか軍の内部で同士討ちが始まるのかと慌てたレインが必死に二人を説得しようとしていたのだ。キッとダリューンを睨み付けると、レインはふんと踵を返した。

「レイン、本当にすまなかった! ナルサスから殿下に言わぬよう口止めをされていて、殿下に近しいレインにも言うなと念押しされていたのだ」

「私がぽろっと殿下に言うと思っていたの?」

 そう言うダリューンが殿下に言っていたけれど? と振り返ったレインの目が据わっている。

「そうではない! 真実を知らないレインの姿に殿下も演技だと気づかれぬだろうと、そういうことだ!」

「…………ふーん」

「レイン、機嫌を直してくれ」

「別に怒ってないけど?」

 微笑むレインだが、目が笑っていない。
 そういえば彼女の妹も怒った時は似たような笑みを浮かべていて、その状態だと何を言っても駄目だったなと思い出しながら、ダリューンは乾いた笑いをもらす。

「レイン」

「…………」

「レイン」

 これは完全に機嫌を損ねたようだ。
 怒った顔も可愛いなと思うと、急にダリューンはレインに触れたくなった。
 絹のような髪に触れようと手を伸ばそうとするが、ふんと一歩後ろに退かれて指が空を切る。

 無言で手を見つめると、今度は柔らかな肢体を抱きしめたくなってくる。
 これ以上無視を決め込まれると何かが爆発しそうで限界だった。本気を出したダリューンがレインの腕を掴み、強引に引っ張って行く。

「ちょ、ダリューン!?」

 怒ったレインが抵抗するが、腕力で敵うわけもなく、ダリューンの自室に連れ込まれたと思った瞬間に閉められた扉を背に、ダリューンが覆いかぶさってきた。

「なにを――んっ……」

 大きな体が屈んで唇に温かいものが押し付けられる。
 扉に両手をついたまま深く唇を合わせ、噛み付くように舌を追いかけられる。

「んっ、ふ……っ、んんっ!」

 攻め立てられるような口付けにレインが広い胸板を叩くが、ダリューンは気にせずに唇を貪っていく。

(っ、頭がくらくらする)

 舌に唇に歯にと全てを蹂躙していくダリューンに息もつげぬまま翻弄されて、やっと唇が離れた時は崩れるように抱きとめられた。

「はっ……はぁっ……っっ……」

 のぼせたように赤く上気させた顔にダリューンが意地悪く笑う。

「さっきから、そうそそる顔をしないでくれ。意地悪したくなる」

「っ、ダリューン……」

 シンドゥラで想いを通わせてからダリューンはレインに遠慮をしなくなった。
 距離感も近くなり、ずっと守るように触れていなかった体にも遠慮なく触れるようになった。

 レインも嫌ではないし、逆に嬉しく思うこともあるが、時折現れる獣のような瞳のダリューンに襲われると、嬉しさと恥ずかしさがないまぜになったように心臓の鼓動がうるさいほど高鳴る。

(いつか私の心臓が止まりそう)

 そう本気で思いながら、レインはたくましい胸に顔を埋めて息をつく。多分これ以上さっきのように無視を決め込んだら、もっとひどく意地悪されるだろう。

「……隠し事」

「ん?」

「隠し事はしないでね」

「ああ、次に同じようなことがあっても、おぬしに隠し事はしないと誓おう」

「……ん」

 それが仲直りの合図で、笑んだダリューンが嬉しそうに抱きしめる。


 そんな痴話喧嘩がダリューンとレインの中でありながら、パルス歴三二一年五月、アルスラーン軍は王都エクバターナを目指してペシャワール城から進軍した。

 第一陣の一万騎にトゥース、ザラーヴァント、イスファーンが指揮を執り前進する。

 そしてチャスーム城塞にさしかかると、ナルサスは城を放って進軍すると決めた。
 それに不満を持ったイスファーンとザラーヴァントは互いに張り合いながら前進し続け、第二陣を引き離す距離まで来てしまい、先んじてルシタニア軍と交戦することとなってしまった。

 第一陣だけてルシタニア軍を相手取り、さらに土塁を巧みに使う敵軍に押し負け、孤立しながら後退していく。
 自らの手で武功を挙げると息巻いていたイスファーン、ザラーヴァント両名が焦り始めた時、チャスーム城が陥落寸前だとの急報がルシタニア軍に届き、軍を引き返していった。

 なんとか兵をまとめたトゥースがルシタニア軍を追尾すると、別働隊で動いていたパルス兵がチャスーム城に向かうルシタニア軍を急襲し、黒衣の騎士が指揮官を討っていた。

 こうしてチャスーム城を無力化したパルス軍は西進し、シャフリスターンの野に布陣、広大な大地で狩猟祭が開かれることとなった。


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