22.幼い彼と私



 ペシャワールの城壁の上から濠へ落ちようとした時、空気に身を任せようとした私を大きな体が包み込むように抱きしめてくれた。
 濠へ落ちる一瞬の出来事だったけれど、私の傷を気遣ってくれたのが嬉しくて、その後必死に私の名を呼ぶあの人の声が頭から離れない。

 うわずった、懇願するような呼び声。
 あの人にとって私を亡くすのは惜しいと思ってくれたのが何よりも嬉しい。
 ああ、いつからだろう、私の中であの人という存在が大きくなっていったのは。守りたいと、傍にいたいと思うようになったのは……。

 また、あの人に名前を呼ばれたい。そうしたらきっと、私は笑顔であの人の隣に駆けていけるから。


「…………ヒル……メス…………」


 暗闇の中であの人を探すようにそう呟くと、遠くから声が聞こえた気がした。

『レイン……レイン……大馬鹿者、いい加減起きぬか……』

 声がした方から光が溢れてくる。
 眩しい光に手を伸ばして掴もうとした瞬間、幼い声が私を現実へと浮上させた。

「ん? ……おぬし、気がついたのか!?」

「…………へ?」

 瞼を開ければ、必死に宙に手を伸ばそうとしている私と、それを見つめて目を丸くしている少年の姿。少年と目が合うと、彼は驚いた後に背後の開け放たれた扉から声を張り上げた。

「バフマン! バフマン!! 目を覚ましたぞ!!」

「……ここ、どこ……?」

 少年の嬉しそうな声を聞きながら体を起こす。
 ふかふかのベッドに寝かされていた私の体は丁寧に手当てされていて、パルスの衣に身を包んでいた。部屋を見渡せばパルス式の内装に装飾品と、きっとパルスのどこかとは分かるけれど部屋自体は見慣れない。

「……というか、バフマンって、確か……あの時私を助けてくれた……」

 ペシャワールの地下牢で私を助けてくれた老将を思い出す。あの人が助けてくれたのかと思案していると、部屋に男性が入ってきてとんでもない名前を呼んだ。

「ヒルメス殿下! またこちらにいらしたのですか!? あれほど近寄ってはならぬと仰ったではないですか!」

「むう、この館に忍びで来るのは慣れているのだ。怪我人の看病ぐらい良いではないか」

「よくありませんっ! だいたいお忍びで我が館に来ては行けませぬと何度も言っておりますのに、最近は素性の知れぬ行き倒れの看病など――」

「! そうだ、その者が目を覚ましたのだ!!」

 ばっと言い争いをしていた二人がこちらに振り返る。

「……あの、ヒルメス殿下とは……まさ、か……」

 バフマンと呼ばれた人は、私が知っている老将より少し若い。そしてそのバフマンにヒルメス殿下と呼ばれた人は……。

「うむ、私はこのパルス国の王子、ヒルメスである」

「な……ななな……」

(なんでちっちゃくなってるのーー!?)

 声なき叫びをあげながら、事態の整理をしようとして頭が混乱する。

 いつからヒルメスは小さくなったのでしょうか!
 というか今まで私が知っていた銀仮面卿もとい、ヒルメスはいったいなんなのか!?

 ぐるぐると頭が回り、もう無理と思った瞬間くらりとベッドに倒れこんだ。


 ほんとうに、意味がわからないですけどヒルメスさん!!



 * * *


「アリサ! 早く着いて参れ!」

「ちょっ、殿下お待ちください走るの早いですー!!」

 バタバタと王宮のいっかくを走る少年王子の後ろを宮女の身となった私が追いかける。
 私の格好は真っ白な衣で全身を隠し、顔も目から下の口元は隠されていて見えない。
 裾の長い着慣れない服に足を取られそうになりながらも、転ばずに王子を追いかけながら長い溜息をついた。


 ペシャワールで黒ずくめに襲われ、川に落ちた私は過去の世界にきていた。
 時はパルス歴三〇三年、冬。ヒルメスがまだ王子だった頃の世界。
 行き倒れていた私をヒルメス王子と万騎長バフマンに助けられ、丸5日も眠っていたという。そして幸運にもヒルメス王子は行き場のない私を側仕えとして雇ってくれると言った。

 こんなどこの馬の骨とも分からない女を側仕えにするなんてと、バフマンさんが必死に止めていたけれど、王子はこの国の次期王として当然のことをしたまでと頑固として引かなかった。
 最終的に王子の熱意に折れたバフマンさんの遠い親戚として、私は王子付きの側仕えとして王宮で暮らすこととなったのである。


「ふふん、今日も私が一番乗りであったな!」

「はあ、はあ……そうですね……」

 今日はヒルメス王子が剣の稽古をする日。稽古場の庭にどちらが一番早くつくかで勝負を挑まれた私は慣れない衣服に苦戦して毎回負けている。

「バフマンはまだ来ていないようだな」

「そうみたいですね」

「アリサ、喉が渇いた。果実水が飲みたい」

「はい、かしこまりました」

 準備運動している王子を横目に四阿あずまやで飲み物の用意をする。

(アリサ、か。まだ言われ慣れないなぁ)

 ヒルメス王子の側仕えとなった日、彼に名前を聞かれた時咄嗟についた名前。
 未来のヒルメスを知る身として、過去の王子に自分の名前を名乗って良いのか分からずに、思わず元の世界の友人の名前を名乗ってしまった。

(ごめん、アリサ)

 果実水を作って、王子に手渡すと嬉しそうに飲み干している。

「アリサ、ありがとう」

「いえ」

「そういえばアリサは生き倒れる前は旅をしていたのだったか」

「え、あ、ああ。はい」

主人と旅をしていたが、離れ離れになって生き倒れてしまった、ここでの行き場はないと説明したら王子は疑わずに信じてくれた。

「今度アリサの旅を聞きたいのだが、良いか?」

「い、いいですよ」

「約束だぞ」

 笑顔の王子をぼうっと見つめる。
 年若い王子の顔は火傷痕もなく、成長したらさぞ精悍な青年に育つだろうなと思うほど整っている。

 少し遅れて来たバフマンと剣の稽古を開始するのを四阿で眺めながら、二度目の溜息をつく。


「……私、ここにいてもいいのかな……」

 未来を知る私がこの場所に居てはいけない気がする。
 急にあの人の元に戻りたくなって、いつ戻れるのか分からない不安が胸を燻った。

 武芸に励む王子を見ながら、私は自分を抱きしめてくれたあの人の背中を脳裏に思い描いた。


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