2.緑溢れる世界
カーラーンの領地を目指して馬を進めていたヒルメスは、長い溜息を吐いていた。
目の前には高く結わえた銀髪を揺らしながら、女が目を輝かせて辺りを見ている。
天から降ってきた女を拾ったはいいが、馬にも乗れないという体たらく。歩けと言ったはいいが物珍しそうに辺りをウロつく姿に、業を煮やし、思わず自分の馬に乗せていた。
何故こんな小娘を拾ったのか自分でも解せない。使えるものはとことん利用してやろうと思ったが、話を聞いた限りでは周辺国の知識は皆無に等しく、更に字すら読めない有様だった。
「ねぇ、ヒルメスって身分が高い人だったりするの?」
「……何故そう思う」
「部下の所に行くって言ってたし、なんとなく細かい所作が綺麗だから」
なかなかに鋭い指摘に少しだけ関心する。
「貴様に喋った所でどうせ理解できないだろう」
「う、そうだけど……」
何が不満なのか女はむうと唸ってこちらに顔を向けてくる。
「そもそも、貴様じゃなくて名前で呼んでよ。私にはレインって名前があるんだから」
燃える炎のような真紅の瞳と真っ向から視線が合い、反射的に目をそらす。話をそらそうと目の前を見ると、目的地は目の前だった。
「それよりも、そろそろつくぞ」
「え?」
顔を戻したレインが明らかに目を輝かせている。眼前にはカーラーンが治める街が広がっていた。
「うわああっ、凄い」
どこが珍しいのか、忙しなく首を動かして街の人々や物を見ている。そのうち落ちるのではないかと考えていると、女が物売りの店を指差した。
「ね、ヒルメス。あれってなに?」
指した先はパルスではありきたりな、パンを売っている店だった。
「あれはナーンと言って……」
薄く丸い形をしたパンを見てなにを思ったのか、レインが勢いよくこちらに振り向く。
「食べてみたい!」
「…………」
キラキラしたレイン目に思わず黙り込む。なんとなく眉間に力が入るのが自分でもわかるがレインは気づいていなかった。
「駄目だ」
「えー、一枚ぐらいいいでしょー!?」
ぶー、と口を尖らせて抗議するレインにうるさい、と切り捨て馬を進める。
店が遠のくのを、レインが情けない声を出して見つめていた。
「ヒルメスのケチ」
「ほう、誰がケチだと?」
「あ、聞こえてた?」
あいたっ!と馬から小さな悲鳴が聞こえた数分後、馬上には一枚のナーンをもって満面の笑みを浮かべている小娘の姿と、ため息をついた俺がいた。
「はむっ……なんかパサパサしてるね」
「通常ナーンは蜂蜜やジャムをかけて食するものだ」
「あ、なるほどー」
もしゃもしゃとパンを食べるレインを見ていると、また溜息が出る。呆れてなにも言えないが、それさえもお構いなしに食べているレインはパンを完食して満足そうに笑った。
「美味しかった、ありがとうねヒルメス」
「…………」
「なんか久しぶりにまとな食事したかも」
ポツリと発したレインの言葉にちらりと目だけを向ける。その視線に気がついて、レインはあははと笑った。
「私がいた所はあんな簡単に食事が取れなくて……ここ数年は改善されてきたけど、ままならなくてさ。ここは恵まれていていいね」
確か歳は二十一と言っていたか、奴隷でも今の世なら主人から衣食住を与えられる。それなのに食すら簡単に取れないとはどういうことか、そしてそれを平然と受け入れて笑っていられるレインに、初めて興味をもった。
少しして目の前に城が見えてきた。
「うわー、中々に古いお城だね」
「そうか?」
どこもこんなものだろうと考えながら、カーラーンの居城に馬を進める。裏門から入って我が物顔で城の中に入ると、慌てたように中年の男が走ってきた。
「殿下! わざわざご足労いただき大変申し訳ーー」
「あまり大きな声で殿下と呼ぶな、まだ身分を隠している身だぞ、カーラーン」
鋭い視線を向ければ、カーラーンがはっといずまいを正して礼を取る。傍らのレインは何が起きたのかわからないというように俺とカーラーンを見ていた。
「失礼いたしました。さ、案内いたしますのでこちらへ……む、そちらの女性は」
レインに気がついたカーラーンがまじまじと値踏みするように視線を向けてくる。初めてみる男にレインがびくりと俺の後ろに隠れた。
さて、なんと説明したものか。
「…………森で拾ってきた。俺の召使として使う」
「は、かしこまりました」
「え、召使い?」
「なんでもやると言っただろう」
「そうでした……いやでも召使いって……」
俺の召使いという言葉にレインが不満そうに何か言っている。無視をする俺をカーラーンが意外そうな顔をするが、すぐに表情を戻して俺たちを奥へと案内した。
* * *
ヒルメスにここで待っていろ、と言われると私を残してカーラーンさんとヒルメスが更に奥の部屋に進んで行いった。
一人取り残された私は、手持ち無沙汰にキョロキョロと辺りを見渡す。
石造りの壁に、落ち着いた調度品の数々が物珍しくていろんな物を見てまわると、バルコニーが目についた。
そろりとバルコニーに足を向ける。
そよ風が頬を撫でて、太陽の光に一瞬目が眩む。少しずつ瞼を上げると、視界いっぱいに緑が映った。
「……凄い……」
緑溢れる豊かな土地を食い入るように見つめる。
元の世界の荒廃した街や大地とは違う、辺り一面の緑に、本当にここはもとの世界とは違うということを実感して、急に恐怖が込み上がってきた。
広い世界に一人取り残されたような感覚。
周りは誰一人知らない人間で、風習も気候も全然違う。
自分は極東に帰れるのだろうか……そんな不安が胸に広がっていった。
どれぐらい待っただろうか、石の柵に寄りかかり街を眺めていると、低い声が私の名前を呼んだ。
「ヒルメス、話は終わったの?」
「ああ。俺はこれから城を発つ」
「もう行くの? わかったじゃあ私も――」
「貴様はここに置いていく」
「え?」
突然の言葉に目を見開くと、ヒルメスは腕を組んでジロリと見た。
「いく場所が無いのは知っているが、このまま俺についてくるにはあまりにも無能すぎる。せめてパルスと周辺諸国の知識と言語を習得しろ、でなければ使えん」
「…………ごもっともです」
こればかりは何も言い返せない。
意気消沈としていると、ヒルメスは後ろに控えるカーラーンさんに声をかけた。
「礼儀作法を叩き込んでおけ」
「ははっ」
「え、ということは」
「今日からこのカーラーンが貴様の面倒を見る」
「お、お手柔らかに……」
「情けなどくれてやるなよ」
「ですよねー」
そのまま背を向けて旅立とうとするヒルメスに思わず腕を掴んでしまう。
「…………あの、ヒルメス」
「なんだ」
「ヒルメスを見返すために、全部習得したら飛んでいくからね!」
一人取り残されて寂しいとは言えずに、逆に笑顔でそう言うと、ヒルメスはふっと笑って腕を振り払った。
「寝言は馬に乗れるようになってから言え」
こうして、私はヒルメスの召使いになるべく、カーラーンさんの城で教育を受けることとなった。
行く宛の無い私の、唯一の寄る辺となったその存在は今後大きな存在へと変わり、そして私自身もまた、大きな荒波に飲みこまれることとなる。
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