8.炎のような人
アトロパテネの平原に濃い霧が立ち込めている。
ルシタニア軍の陣に身を置いていた私とヒルメスは、別働隊を率いてある場所へと向かっていた。
パルス歴三二十年、後にアトロパテネの戦いと呼ばれるこの戦は、まともに戦えばルシタニア軍に勝ち目はないと思われる布陣であった。
だが、ヒルメスがアトロパテネに起こる霧を予測し、カーラーンさんによって地形の違った情報を報告することによって、パルス軍の先陣は崩れることとなった。
濃霧の中、平原を駆ける騎兵が情報にない断崖に落ち、そこにルシタニア兵が火矢を打ち込む。あらかじめまかれていた油に引火した炎がパルス兵を呑み込んだ。
先陣が混乱すれば、自然と周りの側近が王を戦場から退却させようとする。そこに、カーラーンさんの部下が『王が逃げた』という流言をパルス兵全てに流した。
遠くに見える炎から逃げるように、ある一団がこちらに向かってくる。川に沿った細い道の岩陰に隠れた私達別働隊は、逃げようとする王を待ち構えていた。
「あれが、パルスの王様……?」
親衛隊なのだろうか、周りに屈強な兵士を連れて馬で駆ける大柄の男。ヒルメスにとっては叔父であり、自分を亡き者にしようとした復讐相手。
隣のヒルメスを見れば、待ちに待った相手をひたと見据え、その銀仮面の奥に復讐の炎を燃やしていた。
ヒルメスの合図に、伏兵が矢を射かける。突然の矢の雨を受け、王を守っていた兵士達は総崩れとなった。
降り続く矢が止み、ヒルメスが馬を進める。後に私も続くと、地面に倒れる兵士の死体と直面することとなった。
「カーラーンめがうまくやってくれたわ」
たかぶる憎悪を抑え込むように、冷然な声が響く。
王と、今は唯一彼を守る老将が呆然とヒルメスを見つめている。
「恥知らずにも、部下を見捨てて逃げおったか、アンドラゴラス。貴様のやりそうなことよな」
「王よ、お逃げくだされ。ここはこの老骨が防ぎますれば……」
自身も矢を受けながら、老将が鞘から剣を抜き放つ。その体にどんな力があるのか、六十ちかく見える老将が周りのルシタニア兵を斬り倒していく。
「銀仮面卿!」
鬼気迫る老将がヒルメスに向かってくるのを阻もうと、剣の柄を握りしめる。抜こうとした瞬間、ヒルメスが私を制した。
「敗残の老ぼれが、出過ぎた真似をするな!!」
雷が落ちたような怒声に思わず立ちすくむ。一瞬で抜かれた剣が、老将を頭から斬り殺すのを、私は見ているしかできなかった。
「お前は……何者だ……」
目の前で将を殺され、王は自身も剣を抜こうとするが、射掛けられられた矢が利き腕に刺さって動かすことが出来ない。ふと、視線がこちらに移って私を見た王が大きく目を見開いた。
「……これほどの憎しみを受けながら、相手が誰かもわからぬほど悪業を重ねてきたか……」
震える声が次第に、抑え込もうとしていた激情の波へと変わる。
「この日が来るのを十六年間待ち続けたぞ、アンドラゴラス!!」
銀色に光る長剣が振り上げられる。
まるでその場の時がゆっくりになったかのような錯覚に陥る。振り下ろされた剣を私は直視できずに、強く目を瞑った。
* * *
ああ、血の臭いが煩わしい。
どこかから聞こえてくる叫び声に耳を塞ぐ。人よりも嗅覚と聴覚が優れた私にとって、戦場は地獄でしかなかった。
「……気持ち悪い」
私達に与えられた天幕の隅で膝を抱えていると、出入り口の布が開かれた。
「おお、レイン、おぬし無事だったか」
「っ、カーラーン、さん」
久しぶりの知り合いに思わず安堵する。
張り詰めていた糸が切れたのか、一気に力が抜けた。
「カーラーンさんこそ、無事で良かった!」
「ああ、無事の再会を祝いたいが、銀仮面卿はどちらにいらっしゃる?」
「……あの人は、ギスカール公に報告を……」
「そうか……顔色が優れないが、どうかしたのか?」
「……ちょっと、血の臭いに酔っちゃって」
苦笑いを浮かべば、カーラーンさんは心配したように眉を寄せている。
「アトロパテネで勝利はしたが、次は王都を陥さねばならぬ。すぐ出立はせぬと思うが、今のうちに体を休めたほうがいい」
「……ありがとうございます」
優しく頭を撫でて、カーラーンさんが背を向ける。多分ヒルメスのところに行くのだろう。出て行く背中を見つめながら、私は地面に敷かれた絨毯にこつんと寝そべった。
「…………全部、夢だったらいいのに」
ヒルメスがあの老将を斬り殺し、アンドラゴラス王を捕まえた時の情景が頭から離れない。
カーラーンさんにヒルメスの生い立ちを聞き、歴史を学び、あの人の長年の憎悪を理解してはいたのに、いざ復讐を遂げようとする姿を見て怖くなった。拾われた時のような、険がありながも私を見捨てなかったヒルメスではない、燃え盛る炎のように感情を露わにする姿に。
誰よりも炎を嫌っていて、誰よりも炎らしい人。
「どっちもヒルメスの本質なのは分かってる。でも私は……拾ってくれた時のあの人の方が、好きだな……」
カーラーンさんの館にいて、ザンデやカーラーンさんと楽しくしていた時に戻りたい。そこにいつものヒルメスがいれば、もっと幸せなのに。
「……分かってるよ、無理だってことは」
私の中で囁かれた言葉にかえして、瞼を閉じる。思った以上に疲労が黙っていたのか、すぐに眠気が襲ってきた。
「…………」
この後、眠り込んでいた私は気がつかなかった。なにもかけてなかった私の体に、外套がかけられたことを。
そして暫くずっと傍にいて、私の頭を撫でていた存在のことを……。
大きな手が、絨毯に流れる銀の髪をすくった。
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