桎梏の蝶



 パルス歴三二十年、アトロパテネの野に陣を引いたパスル兵はいよいよ出陣の号令を上げる所だった。

 王太子アルスラーンの護衛として付き従ったレインは女の身である為、大人しく天幕の中で待っている。手持ち無沙汰に絨毯に座って愛剣の手入れをしていると、急な眠気に欠伸が洩れた。

 徐々に四肢に力が入らなくなり思わず剣を取り落とすと、視界に紫色の煙が見えた。思考を巡らすすよりも早く、頭が重くなって瞼が落ちる。

 その場に倒れたレインを確認するように、ゆらりゆらりと黒い影が彼女の周りを徘徊していた。


 * * *


 どこかが、燃えている……。
 火事を止めようと誰かが水桶を探して、また誰かはその場から逃げようとしている。

 確か私は、幼馴染のダリューン殿と一緒にいて、駆けつけた時は全てが終わっていた。

 誰かの叫び声が聞こえた気がする。
 本当は聞こえてはいないけれど、誰かの心が叫んでいて、同時に何かが壊れたような気がした。

 私が守らなければいけなかったのに、全てをあの子に負わせてしまった。

 最後に炎の中できこえたのは、私を呼ぶ……。


 夢から醒めたように、重たい瞼を起こす。
 いつの間にか眠ってしまっていたのか、鈍い体を起こして天幕の柔らかい布を掴んだ。

 くらりと眩暈がして思わず膝から落ちそうになると、力強い腕に体を支えられた。

「……ダリューン殿……?」

 まさかここに居るはずがないのに、夢の所為なのか黒衣の青年の名を呟いていた。


「…………会いたかったぞ、レイン」

 だけど、降ってきた声は彼では無く、知らない声に顔を上げると、銀の仮面と目があった。

「誰……?」

 身に覚えの無い仮面に訝しんでいると、後ろから支えていた腕が力を込めるように抱きしめ、想いを噛みしめるように呟いた。

「俺とこい、レイン」

 目を見開く私に男が顔を近づけてくる。
 目を逸らそうとする私の顎を掴まえて逃げられなくすると、熱い唇に口を塞がれた。


 その口付けは長年渇望していた熱を貪るように、深く深く繋がっていく。
 自由に空を舞う蝶を繋ぎ止めるかのように。

 銀仮面の狭い視界に紫色の煙がくゆるのが見える。それに引き摺られるように、愛しい女が瞼を落とした。


 * * *


 突如現れてレインを攫った銀仮面は、彼女を壊れもののように大事に扱い、自分の陣営へ置いた。

 魔道士の手によって深い眠りについたレインは、アトロパテネの敗戦とエクバターナ攻防戦を見ることなく、陥落した王宮の一室で目を覚ました。

「ここは……」

 見渡す部屋は見知った王宮の調度品で飾られ、部屋の中央にある長椅子に壮年の男性が座っていた。

「カーラーン様!?」

 何故、アトロパテネで戦っているはずの万騎長が長椅子などに座っているのか。急いで身を起こすと、こちらに気がついたカーラーンが慌てて立ち上がった。

「レイン殿、無理に起き上がっては危ない」

「それよりもアトロパテネの戦いはどうなったのですか!? アルスラーン殿下はーー」

「アトロパテネはルシタニアが勝ち、パルスが敗れた。……我らの手によって」

「どう、いう……」

「この王宮もルシタニア軍により占拠され、パスルは滅びたのだ。正統の王を掲げるために」

「意味がわからない。正統の王を掲げるのに何故パスルを滅ぼしたのですか!?」

「全ては銀仮面卿が語ってくださる」

「……あの、銀仮面……」

「あの方は迷いなくおぬしを攫ったが、手に入れた瞬間にどういう顔をして合えばいいのかわからぬようになった。今も部屋の前で彷徨いておられる。どうか、そんなあの方を受け入れてほしい」

「…………」

 受け入れろと言われても、攫われるような心当たりがどこにもないし、あの銀仮面も知らない。
 レインが俯いていると、カーラーンは優しい顔をして頭を撫でて離れて行く。どこに行くのですかと聞くと、たった一言「おぬしには言えぬ」と言って部屋から出て行ってしまう。

 静寂が部屋に満ちて一人で寝台の上で膝を抱える。頭を整理していると扉が開く音がした。

「……気分はどうだ」

 黒い外套に銀の仮面。
 攫われたのは夢ではないと自覚すると、最後の口付けを思い出して思わず唇を指で触る。

 答えないレインに銀仮面が寝台に近づいてシーツに手をつく。顔を伺おうと近寄ってくるので目をそらすと、頬に手を添えられた。
 びくつくレインに構わず、指が頬から首筋、鎖骨へと滑り最後に唇をなぞる。
 こわいほど優しい手つきに鎖で拘束されたような錯覚に陥ってしまう。

「だいぶ待たせてしまったが、六年前の約束を果たす時がきた」

「え……」

「俺の名はヒルメス。先王オスロエスの嫡子で、正統の王になる者だ」

「……!」

 息を飲むレインに銀仮面ヒルメスは凪いだような瞳をして両手を頬に添える。

「レイン、そなたは俺の唯一の妃だ。もう手放したりなどしない」

 誓うように口付けられ、離れた唇が今度は胸に降りる。

 六年前という言葉に記憶の蓋が開かれる。
 伝えたい言葉があるのに喉に力が入らず喋ることが出来ない。

 部屋の隅に目が行くと、黒い影が滑って芥子の香りが漂ったような気がしたーー。


 蝶がゆらゆらと飛んでいる。
 何か花を探していた筈なのに、気がついた時には蜘蛛の銀の糸に絡まるように、堕ちていった。

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