ただ、あなたと幸せになりたかっただけ



 アルスラーン王太子達がペシャワール城へ入城したという報を聞いた時、ヒルメスは面倒なことになったと歯噛みをした。
 自分が指揮を執っていれば易々とペシャワールへと逃げ込ませなかったものをと独りごちり、彼は城内を撹乱しようと一人でペシャワール城塞に侵入することにした。


(ああ……レイン……)

 胸にくすぶるのは未だ会えぬ想い人。
 アトロパテネで取り逃がし、ペシャワールへの道中も会うことかなわず、後ろ姿すら追えずにいる。

(レイン……早く見つけねば、俺の記憶からおぬしの微笑みが奪われてしまう)

 忘れたくなどないのに、六年という歳月が否応にも人の記憶を消そうとする。さらに王宮の地下水道で出会った女があまりにも記憶の中の少女に瓜二つで、一目見たときに彼女なのかと錯覚してしまった。
 あの時カーラーンがレイシーという名を呼ばなければ、衝動で傍の男から女を奪っていただろう。それ程にも、ヒルメスは想い人を渇望せずにはいられなかった。

「……レイシー……か」

 そう呟きながらペシャワールの城壁をゆっくりと進む。見張りの兵に見つからないように歩を進めると、どこからか歌が聞こえてきた。

「こ、これは……」

 風にのって聞こえてくるのは懐かしい歌。ヒルメスの想い人がよく歌っていた歌だった。
 駆け出したい衝動をこらえながら歌が聞こえてきた方へと赴くと、風に揺れる白いドレスが視界に入った。

「っ……」

 美しく編み込まれた金の髪が夕陽に照らされ輝く。
 閉じられた瞼から見える長い睫毛に、薄く色づいた唇へと目線を移す。その唇から紡がれる歌は間違いなく、想い出の少女の歌で、それを歌うのは地下水路で出会った女だった。

「レイン……ではない、だと……」

 歌い手がレインではなくその姉妹とはどういうことか。
 必死に過去の記憶を遡り、ふと想い出の少女から直に名前を聞いていないことに気がついた。

「まさか……姉妹を取り違えていたのか」

 頭を殴られたかのような衝撃にヒルメスが絶句する。
 思わずレイシーに手を伸ばそうとすると、彼女は歌うのをやめてヒルメスのいる反対側に顔を向けた。

「また盗み聞きですか?」

 女の声に反応するように、赤紫色の髪をした男が現れる。それが女とともに地下水路にいた男だと気がついたヒルメスは気づかれる前に城壁の陰に隠れた。

「おや、気づかれていましたか」

「ええ、二度目ですから」

「これもアシ女神の導きか、美しい歌声に吸い寄せられましてね。あの時の鎮魂歌ともまた違った歌に聞き入ってしまった」

 親しげに話しを続ける二人の姿にヒルメスの胸がざわめく。
 男がゆっくりと、確実にレイシーとの距離を縮ませて顔を近づけとここからでもわかるほど彼女の耳が赤くなっているのが見える。
 そしてレイシーが何かを呟くと、男が我慢できないと言わんばかりに彼女の細い体を抱きしめた。

「な、なななななにをするのですかギーヴさん!?」

 離れようともがくレイシーをギーヴと呼ばれた男は離そうとしない。

「ううむ、これは本気でレイシー殿に惚れたかもしれん」

 ヒルメスの耳にもしっかりと聞こえたその言葉にレイシーがうろたえる。
 見つめ合いながら何かを囁き合っている二人を黙って見ていると、ギーヴが抱きしめていた腕を離して彼女の額に唇を落とした。


「この恋がまやかしなのだと貴女が言うのなら、レイシー殿、貴女を俺という恋に落としてみせましょう」

 そう言ってレイシーの手をとり指に口づけをする。

 ゆっくりと手を離したギーヴがうやうやしく礼をとって名残惜しげに去っていく。
 そのままレイシーを連れて行かず、余韻を残すように去るギーヴの姿はキザったらしく憎らしい。

「…………」

 レイシーはぼうっとギーヴのいた場所を見つめて物思いに耽っている。
 完全にギーヴの気配が消えたことを確認して、ヒルメスはゆっくりとレイシーに近づいた。

「ギーヴさ――んんっ!?」

 後ろから羽交い締めに抱きしめて、右手で口元を押さえる。そのまま引きづりこむように物陰に隠れてレイシーの耳元に囁く。

「騒ぐな、叫んだら殺す」

 殺す気は無かったが暴れたりしたら彼女を傷つけなければいけなくなる。その前にヒルメスは何としても真実が知りたかった。

「六年前にマルヤムに行ったことを覚えているか」

 ヒルメスの言葉にレイシーは震えながら頷く。

「なら……その時、賊に襲われて川に落ちだのは誰だか知っているか」

 口元の押さえを少し緩めて喋るように促すと、彼女は怯えながら唇を動かした。

「わ……私、です……」

「!!」

 やはり、とヒルメスの疑問が確信に変わった。あの時に迎えに行くと約束した少女はレインではなく、レイシーだったのだ。

「……レイシー……おぬしが……」

 口を押さえていた手を離して真正面から抱きしめる。驚く彼女が声を発する前に唇を奪った。

「んっ……」

 触れるだけの口づけにタガが外れそうになる。さらに深く唇を合わせようとするが、拒むように上がったレイシーの手が銀の仮面を叩いた。

「おやめ、くださいっ。貴方は何者ですか!?」

 震えながらも気丈に振る舞う姿にヒルメスの口に笑みが浮かぶ。
 やっと名乗る時がきたのだ。

「俺の名はヒルメス。おぬしを迎えにきた旅人だ」

「え……」

 今度はレイシーが目を見開く番だった。
 突然の銀仮面の告白に六年前の約束が思い出される。ずっと待っていると誓った相手……。

「まさか……あの旅人さんが……ヒルメス……さま……」

 そしてそれはパルスを裏切りルシタニアに与した銀仮面がヒルメス王子だということ。

「ど……して……どうして、パルスと戦を……」

「どうしてとは、俺とおぬしのためだ」

「え……」

「俺を裏切り、見捨てたパルスに復讐を。正統の王として俺が即位し、おぬしを王妃に迎えるためだ」

「っ……」

 ぽろぽろとレイシーの瞳から涙が零れる。あまりの嬉しさに声も出ないのだろうか、俯く彼女の頬に指を這わせて涙を拭う。今度こそ心を通わせ、自分のものになったと思った瞬間、レイシーが大粒の涙を流しながらヒルメスに縋り付いた。

「お願いです、ヒルメス様。もうこのようなことおやめください」

「……なに?」

 ヒヤリと氷の刃を飲み込んだように心が凍りつく。

「ルシタニアの侵掠で多くのパルスの民が殺されました。文明、文化の破壊に信じる神すら異教と否定されたのです。貴方が王になられたとしても、民は自分達を売った貴方を決して王に戴きはしません」

「……俺は、王になるはずだった者だ。その道を絶ったのはアンドラゴラスとパルスの者ではないか、復讐をしてなにが悪い!」

「だとしても! 貴方は一番やってはいけないやり方で復讐をしてしまった! もしも貴方が即位した後に復讐が露呈すれば、王の座を追われ命まで奪われてしまいます!」

「そうなる前に全てを知るルシタニアを王となった俺が滅ぼす。そしてこの仮面を知る者は一人残らず殺す」

「アルスラーン殿下達をですか」

「ああ」

「……私は、そこまでしてなる王妃の座など、ほしくありません……」

 止めどなく流れる涙が頬を伝う。

「ヒルメスさ――」

「もうよい」

 自分の腕を掴んでいた細い手を剥がして、ヒルメスがレイシーのおとがいを掴む。

「……ギーヴという、あの者がいるからか」

「ヒルメスさま…?」

「アルスラーンの小倅が、その周りがいるからおぬしは俺の手を取れぬのか」

「違っ!!」

「ならばアルスラーンの小倅を殺し、その周りの全てを殺せば否が応にもおぬしは俺の手を取れるな」

 恐ろしい言葉を艶のある声でそう囁く。
 鎖に繋がれたかのように動けないレイシーはただ彼の目を見つめるしか出来なかった。

「おぬしは俺の王妃だ。それをおぬしが拒絶しようと、俺の王妃はただ一人」

 熱い唇が降ってくる。
 先程の口づけとは違う、荒々しく深い口づけ。
 ひとしきりレイシーの甘い唇を貪っていたヒルメスは、首筋に顔を埋めて柔らかい肌に吸い付いた。

「おぬしが独りきりになったらまた迎えにくる」

 首筋に赤い花びらを残して、ヒルメスは満足そうに笑った。

「愛している、俺のレイシー」

 荒々しかった手が優しく髪を撫で、ゆっくりと離れていく。

「っ、ヒルメス様! 行かないでください、ヒルメス様!!」

 レイシーが手を伸ばしても、ヒルメスがその手を取ることはなく、深い色の外套を翻して城壁を歩いていく。

「……私は……ただ、貴方と幸せになれたら、それで良かったのに……なぜ、茨の道を歩むのですか……」

 冷たい石畳に膝をついてレイシーが泣き崩れる。


 ただ、おぬしと幸せになりたかった。
 ただ、貴方と幸せになりたかった。

 いつからこの道行が分かたれたのか、レイシーは運命を嘆きながらヒルメスの後ろ姿を見つめるしかなかった。


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