愛という名の



 ずっと幼いころから、透き通るような歌が、花のような微笑みが忘れられなかった。
 俺はあの美しい金の姫に、恋をしていた……。


 パルス歴三二十年、この日王都エクバターナはルシタニアによって陥落した。
 王宮内はパルス人の血で彩られ、王のいない玉座にはルシタニアの王がかわりにその座についていた。

 パルス人でありながらルシタニアにくみした客将銀仮面卿は、王宮の庭園に足を踏み入れていた。
 血の臭いがいまだ色濃く残るそこには、赤く咲き誇る薔薇が朝露に濡れている。まるで血に染まって咲いたような真っ赤な花に吸い寄せられるように、銀仮面卿は手を伸ばした。

「…….ここは、あまり変わらぬな」

 パルス随一と言われる薔薇園を久しぶりに見た銀仮面卿は、昔の記憶の蓋をあけてあの美しい旋律を想い描く。
 昔、まだ彼がヒルメス王子と王宮で呼ばれていた頃、彼はある少女とこの薔薇園で出会った。
 高く澄んだ声で聞きなれない歌を歌っていたその少女に、一目で心を奪われてしまった少年はその日から淡い恋を秘めていた。

 だが、彼が恋を実らすことはなく、アンドラゴラス王によって命を狙われたヒルメスは火事で全てを失い、少女と離れ離れとなった。

「くそっ……」

 この手からこぼれ落ちた光に恋い焦がれ、いくとし日々を過ごしてきたか。六年前に再開した時彼は必ず迎えにいくと彼女に約束していた。
 そして運命の日、アトロパテネの戦いで思い出の中の少女を手に入れることはできず、王宮で一人の女を見つけた。

 記憶の中の想い人と瓜二つの女に、ヒルメスは心をかきむしられるような抗いがたい衝動に悩まされた。
 あの柔らかい髪に顔をうずめ抱きしめたい。
 ひたと自分に向けられる紅い瞳を、他の者にそらされたくない。
 そんな欲求は女が彼女に似ているだけだからなのか、それとも本当に女を欲しているのか、ヒルメスにはもうそれすら分からなくなっていった。

「……レイン……」

 少女の名前を呟けば、心に刻みつけた歌が聞こえる。過去を思い起こすように瞼を閉じると、記憶の中の不完全な歌が鮮明に耳朶に聞こえてくる。

「……っ! この、歌は!」

 顔を上げれば、ヒルメスが自分で思い起こしていた幻想の歌ではない。風に乗って上階の部屋の窓辺から聞こえてきた本物の歌だった。

「レイン!!」

 急いで庭園を出て上階に向かう。
 うるさいほど鳴り響く心臓の音を抑えるように息を整え、目的の部屋の前につく。蹴破るように部屋に入れば金糸の髪が視界に入った。

「っ……」

 こちらに背を向けて窓辺に立っている女に息をのむ。
 その唇から紡がれる歌はまぎれもない、思い出の歌。あの少女の歌だった。

「何故……貴様が……」

「え……?」

 振り返った女の髪が揺れる。
 衝動的に女の腕を掴んで腰を引き寄せれば、驚いたように体をこわばらせた。

「何故、何故この歌を知っている」

「これは、母から教えられた歌で……」

「貴様以外に歌える者は……レインは!」

「……いいえ。お姉様は知ってはいますが歌うことはありません。お父様から剣を教わっていたから……」

 金槌で殴られたような衝撃に二の句が告げなくなる。
 この言葉が正しければ、ヒルメスの初恋の人物が目の前の人物になる。ずっと彼は双子の姉妹を取り違えていたのだ。

「…………」

 あまりの真実に腕を掴んでいた手が震える。それに気がついた女が、躊躇いながら銀色の仮面に触れた。

「……どうして、貴方が泣いているのですか」

「泣いて、いるだと」

 女の白く細い指が、仮面の下でつたう涙を拭う。

「貴方は私の歌を知っているのですね」

「ああ」

「……この歌を知っている人はもう一人だけ、います……」

 女の手がゆっくりと仮面をとる。
 外気にさらされた彼の姿を真正面から見上げて、唇を開く。

「迎えに来ると約束してくれた旅人さん」

「……ああ、約束した」

 頬を流れる涙が床に落ちる。

「貴方の名前を、教えてください……」

「俺の名前はヒルメス」

 迎えに行く時に必ず名乗ると約束した。
 あの時と同じように、女は微笑んで頷く。瞳に涙を浮かべて。

「……私の名前はレイシーです。ずっと、ずっと待っていました」

 欲しかった言葉を告げられ、今まで満たされなかった感情が溢れてくる。
 やっと手に入れたこの幸福をこぼさないように、華奢な体を優しく抱きしめた。

「もう手放したりなどしない」

「引き離されても、私は貴方を追いかけます」

 レイシーが自分からヒルメスの胸に顔を寄せる。柔らかい金の髪に顔をうずめれば、心が落ち着いていく。

「レイシー……そなたを愛している」

 凍てついた氷が溶けるように、心からの笑みを浮かべた。

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