05.貴方と私の名前



 あの見合いから二日後、レイシーはスマホのメッセージに映された文章を見て息をついた。

『今から夕食でも一緒にどうですか?』

 それは降谷からのメールで、一瞬だけ逡巡しながらも彼女はyesと返信する。するとすぐに車で迎えに行くと連絡がきた。
 簡潔に今いる場所をスマホに打ち込んで送る。契約してしまったのだから会うのは仕方がないと心の中で呟いて、近くの化粧室に向かった。
 今日はプライベートで外出していたから髪は纏めている。三つ編みシニヨンの下に結わえた赤いリボンが揺れた。

 しっかりと化粧を直して駅前で待っていると、しばらくして白の車が目の前に止まった。

「お待たせしました」

 助手席のドアが開いて降谷が微笑む。
 中に乗り込むと、ハンドルを握った降谷が車を動かした。

「スーツ姿ということは公安の仕事終わり?」

 バーボンの時には見られなかったスーツ姿の降谷を眺める。

「ええ、そうですよ。少し溜まっていた仕事を片付けてきました」

 そう言う降谷の顔は少しも疲れていないかのように微笑みを浮かべている。公安の仕事をして組織の仕事をして、あまつさえ探偵で喫茶店のアルバイトをしている風には見えない。

「……貴方、澄ました顔しているけど休んでいるの?」

「仕事に支障がない程度には休んでいますよ」

「そう……ならいいけど」

「おや、心配してくれているんですか?」

 意外そうにそうのたまう降谷の口元は笑っている。レイシーはムッとしながら反論した。

「別に心配はしてないわ。ミスをして組織にスパイだとバレなければね」

「手厳しいですね。まあ僕に限ってそんなミスはしませんよ」

「どうかしら。人間は休みなしで働けるほどそんなに強くないわよ」

「ということは、やはり心配してくれているんですね」

「だから違うと言っているでしょうっ」

 ニコニコ笑う降谷に調子が狂う。
 組織でバーボンとして彼と組んでいた時もそうだったが、彼はどこか掴み所がないとレイシーは思った。

 そんなやりとりとしていると、車が駐車場で止まる。先に車から降りた降谷が助手席のドアを開いて手を差し伸べた。

「どうぞ」

「ありがとう」

 ゆっくりと手を取って車から降りる。
 そのまま手を引かれると、落ち着いた雰囲気のレストランの中に入った。

「ここのワインが美味しいんですよ。僕は運転があるので飲めませんが、是非貴女に飲んでもらいたくて」

 レイシーに会う前に予約していたのか、すぐにウェイターが現れて席に案内される。

「好き嫌いはありますか?」

「いえ、ないわ」

「じゃあ僕のおススメを注文させてもらいますね」

 メニューを見ながらすらすらとウェイターに注文する。注文を受けたウェイターが一礼して去ると、降谷の瞳がこちらに向いた。

「今日はどちらにお出かけしていたんですか?」

「姉と久しぶりに会っていたの。ショッピングした後に喫茶店でお茶をしていたわ」

「へぇ、お姉さんがいらっしゃるんですね」

「ええ、唯一の肉親よ」

「今度是非紹介してください。ああ、あと喫茶店は是非ポアロをよろしくお願いします」

「……考えておくわ」

 笑顔の降谷に顔をそむける。まだ姉のこもは喋りたくないレイシーが別の話題を話そうとした時、ワインを持ったウェイターが現れてグラスを置いた。
 流れるように真紅色のワインがグラスに注がれる。
 真っ赤なワインを見つめていると、降谷のグラスにはノンアルコールのワインが注がれていた。

 二人がグラスを持って軽く掲げる。
 小さくグラスのぶつかる音が鳴り、同時に口をつけた。

「……貴方の言う通り、とても美味しいわ」

 レイシーが味わうようにワインを飲んで、香りを楽しむ。その花開いたような表情に、降谷は満足そうに頷いた。

「気に入っていただけたようで良かった」

 ところで、と降谷が言葉を続ける。

「いい加減お互いに貴方と呼び合うのもおかしいので、これから名前を呼び会ってみませんか?」

 一応恋人同士ですしと笑う降谷に、グラスを傾けていたレイシーの手が止まる。
 そう、あまりそういう雰囲気ではないが確かに"恋人同士"なのだ。でもまだ距離があるのか、まだ名前を呼んだことがない。

「……降谷さん」

「それは他人行儀ではありませんか?」

「零さん」

「うーん、今までバーボンと呼ばれていたからか、さん付けは違和感ありますね」

「じゃあ……零……」

「ああ、それがいいですね。一番しっくりくる」

 急に名前で呼ぶというのは慣れないな、とレイシーが照れたように目をそらす。
 するとそれを見た零はいじわるそうに笑った。

「レイシー」

 微笑む零にレイシーは顔を真っ赤にさせて何も言えない。
 なんでだろう、とても恥ずかしいと思ってしまう。

「顔が赤いですよ? レイシー」

「っ、気のせいよ」

「そうですか?」

「ええ、ワインに酔っただけ」

「酒には強い人だと思っていましたが、意外ですね」

 ただの言い訳だとバレている。
 今度は何も反論せずに黙ってワインを飲んでいると、面白そうに笑っていた零がスマホを取り出した。

「すみません、電話です」

「どうぞ」

 頷くと、零はスマホをタップして耳に当てた。

「なんだ、風見」

 電話に出た零の声の調子が変わる。
 今までの温厚で意地悪そうな声付きから一変して、冷たい刃物のような低い声になっている。

 この感じだと公安の部下なのだろうか、バーボンの時とは違う雰囲気にレイシーは息を飲んだ。

「ああ……そうか……わかった、すぐ向かう」

 そう言って零が電話を切って懐に戻す。
 レイシーと目が合うと、すまなそうに表情を曇らせた。

「申し訳ないのですが、急に仕事が舞い込んで来てーー」

「公安の仕事なのでしょう。私の事は気にしないで行ってきて」

「レイシー……」

 怒ると思っていたのか、零は驚いたように瞳を大きくさせる。

「仕事でいなくなるのは伯母夫婦で慣れているわ。それよりも、急ぎなのでしょう? 早くしなければ」

「ではお言葉に甘えて……。すまない、ありがとう」

 最後の言葉は部下と会話していた時のように低く発せられた。

 素早く立ち上がり、レストランを後にする零の後ろ姿を見つめて、レイシーがぽつりとこぼす。

「それが素なら、そっちの方がいいのに……」

 近くにいるのに距離が掴めない。
 今までバーボンとミスティの時はそんな事を思ったこともなかったのに、レイシーは微かに感じる互いの距離を考えながらワインを手にする。

 一人取り残さる中、静かにウェイターが現れて一人分の食事を並べていくのを目にして、レイシーは心の中で溜息を吐いた。

「……あとで誰か迎えに来てもらいましょうか……」

 美味しそうな料理を前に「いただきます」と呟いてフォークを手にした。


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