空の水槽

「今まで本当にお世話になりました」

「今日で喜八郎ともお別れか
長いようで短かったねぇ」

「寂しいですか?」

「そういう質問はやめなさい」

「はーい」


タイミングが悪いんだか良いんだか
帰る方法が発覚したのがちょうど来月のシフトが決まる前

少し急ではあったが季節柄店もあまり忙しくないし
手間はかからなかった

雑渡さんは親戚が急に倒れて、といった理由にしたのだが
雑渡さんの親戚が大変、その雑渡さんの親戚という事になってる喜八郎も大変
という事で納得された


「これ、雑渡さんに会う機会があったら渡しておいて」


袋の中は軟膏と包帯
それと僅かばかりの雑渡さんの荷物に
一通の手紙だった


「雑渡さんずるーい」

「あのねぇ…雑渡さんは喜八郎と違ってさよなら出来なかったんだから
手紙位良いだろ」

「僕も何か欲しいなぁ」


こいつ上目遣いを使うようになったか
そんなもので絆される程私も子供ではないが


「喜八郎」

「なんですか?」

「君は私に、この世界に縛られちゃいけないんだ
思い出だけに留めておきなさい」

「…はい」


正直、本当は色々考えた
写真だって簡単に用意出来る

けれど用意しなかったのは
しない方が良いと思ったからだ

もしかしたら心の支えになるかもしれない
けれどそれが彼を縛り付ける可能性だってあった

だからこそ何も残さなかったのだ


「それに雑渡さんへの手紙は最後に燃やせって書いてあるしね」

「僕なら燃やさないなぁ」


ちなみに文面も大した事は書いていない


「喜八郎は子供だから」


そう皮肉を言うと
喜八郎は少しばつの悪そうな顔をした


「ほら、お菓子ならあげるから
皆が不味い忍者食とやらを食べてるのを横目にでも食べなさい」

「なまえさんって意外に良い性格してますよね」


忍者食よりカロ●ー●イトの方が保存もきくし味も良いだろう

一度忍者食も作って貰ったがつくづく平成の時代に生きていて良かったと再認識する不味さだった


「なまえさん、雪が溶けたら僕の事思い出して下さいね」

「何を言うんだ、雪なんて関係なしに思い出すよ
ほら、それじゃあね
しっかりやるんだよ
喜八郎は出来る子なんだから、幸せになりなさい」


この日の為に喜八郎はいつも以上に気合いを入れて穴を掘ったのだ

しかし、これで戻れなかったらどうしよう
喜八郎はここに来てから穴は掘りに掘ったが
一度掘った穴に再び身を落とした事は一度も無いとの事だったから大丈夫だとは思うのだが

戻れなかったらどう責任をとろう…

そんな不穏な思いを巡らせていた私を見つめる喜八郎はまだ何か言いたそうだ


「なまえさん」

「なんだい?」

「僕、なまえさんの事大好きです
たぶん、初恋だと思います」


大好きだなんて
告白されるなんて久しぶりだ


「そうか、ありがとう
叶わない初恋をさせて悪かったね」


喜八郎の年代の言う好きなんて
たかが知れてる

恋に恋する年頃で
私たち大人にと違いその言葉を発する事によって生まれる責任や意味

そんな事をまだ理解していない

けれどそれが故のただまっすぐな感情


「いえ、なまえさんで良かったです
早く嫁に行けると良いですね
あと仕事もしてください」

「はははー余計な心配しなくて良いぞー!」


こんなにも好きになって貰えて
私は嬉しい


「それじゃあ」

「うん。達者でね」


背筋をのばし
綺麗に私に一度礼をした喜八郎は自ら掘った穴に
その身を投げた

不思議な事に
その穴に人が落ちたにも関わらず

音は聞こえなかった


「…行ったか」


私の言葉に返事はなく

綺麗に掘られた穴だけがそこに残っていた