月と魚の涙

何時だったか
雑渡さんは言っていた

楽しい夢を見ていたと

この時代に戻って
なまえさんがやって来てからは

僕も同じだったんだ


「雑渡さん、何を言って…」

「わかっているだろう?
なまえちゃんを未来に返すんだ」

「そんな…、出来る訳…」


そうだ
出来る訳がないんだ

五百年もの時間を飛び越えるなんて奇跡が

そう何度も起きる筈がない


「このままではなまえちゃんは死ぬよ
彼女が助かるには未来の医学に賭けるしかないんだ」

「そんな事したら…なまえさんにはもう…」

「会えないね
そしてこのまま私たちに見守られて息を引き取る事になる
彼女のご両親や、従業員達は彼女の遺体を見ぬまま彼女を失う」


雑渡さんの言葉で

思わずあの時お世話になった人達の顔が浮かんだ

仕事の勝手も分からない子供の僕を受け入れ

一緒に働いてくれた人達
どの人の口からもなまえさんの話しは聞いた


知っている
なまえさんの身に何か起きた時に悲しむ人達がいる事を


「君も分かっているだろう?
あの時代の医療を」

「でも…戻らなかったら」


けれど
僕は決断は出来ない

だって、まだ分からないじゃないですか


五百年なんて時間を飛び越える奇跡と比べたなら

きっとなまえさんが助かる奇跡の方がずっと安いに決まっている


あんな奇跡が僕と雑渡さんに二回、なまえさんに一回も起きたのだ

平等になまえさんにもう一度奇跡が訪れるなら助かってもおかしくない筈だ

そうすればもう少しだけ
また一緒に過ごせるかもしれない



「喜八郎君、君は気付いていたんじゃないのかい?」



まだ、一緒にいられるかもしれないんだ



「彼女がここにやって来たのは
君の穴に落ちたからだけど、それは一回目ではなかった」



だから僕は

その規則性を口にはしなかった



「二回目の落とし穴で彼女はここにやってきた
そして君はなまえちゃんがこちらに来て落とし穴に落ちたのを見てから
落とし穴は掘らなくなったそうだね」

「それは…」


確証などは無かった

けれど、一度目がそうだったのだから
二度目もあるのではないかと思った

だから僕は

なまえさんが穴に落ちたその日から

落とし穴を掘る事を止めていた


「塹壕や蛸壺なら彼女も落ちる事はないからね
違うかい?」

「…」

「悪いけど、首を横に振ったとしても私は君に穴を掘らせるよ
今すぐ部下をここに呼び出して力付くでもね」


低い声が医務室に響く

とんだ職権乱用だ
けれどこの人は本気だし
この人の部下もそんな命令に従うだろう

目の前の現実に
突きつけられた事実に

僕の心臓は更に動きを早めたかのように思えた

なのにどうして
どうしてこの人はこんなにも冷静なのだ


「…何故、貴方は躊躇いもなく決断出来るんですか?
雑渡さんは、僕よりもなまえさんを慕っているでしょう?
お二人は、お互い離ればなれになる事を望んでいる訳ではないのに!」


僕は好きだった

雑渡さんといる時のなまえさんの表情が

同じように、雑渡さんがなまえさんにだけ向ける空気も

三人でいられる空間も心地よかった


だから僕は
なまえさんと離れるのが嫌だった

だからずっと黙っていた

だから穴も掘らなかった



僕の張り上げた声を聞いて

雑渡さんは目を細め

先ほどよりもずっと冷たく

低い声で言葉を続けた


「君は本当に子供だね
私達はお互いが大切だからこそ別れを受け入れるんだよ
君のようなガキの独りよがりの意見何てどうでも良いんだ

さて、時間がない
もしこのまま彼女が死んだら私は喜八郎君と言えど殺すよ
今この部屋にいる者が束になってかかってきた所で私には敵わないと分かっているだろう?」


殺す


その物騒な言葉に医務室の空気は更に張りつめ
立花先輩に至っては武器に手をかけた

けれど無意味だろう

雑渡さんにかかれば
この部屋の人間を全員殺す事すらたやすい

選択肢は

なまえさんが死に僕も殺されるか

なまえさんと別れるかだった


消去法で選ばれた答えは

どちらにしろ、受け入れたくない答えだ


「…僕、掘ります」

「良い目だね
私を殺す事すら躊躇わないような目だ
やはり君は良い忍びになるよ
ガキという言葉は撤回してあげよう」


強く歯を噛みしめ
僕は返事をした


愛用の鍬を握りしめ

医務室の前の敷地に穴を掘る

速度を優先した結果出来たその穴は
まるで墓穴のようだった


深さはある程度あるが狭いその穴に雑渡さんはゆっくりとなまえさんを沈め

穴から身を出すと俯いた僕に一言、お疲れさまと声をかけた

反射的に

思わず鍬を投げだし
握りしめた右手で雑渡さんを殴った


雑渡さんは吹き飛ぶわけでもなく
その場から微動だにもしなかったが

それでも鈍い音が響いた



あの雑渡昆奈門に僕の拳が入るなんて思わなかった

今思えばきっと雑渡さんはわざと避けなかったのだと思う

殴った拳が
目の奥が熱くて

糸が切れたかのように泣き出した僕を見て

気が済むまで泣くと良いと一声かけた雑渡さんは

僕が泣きやむまで僕の側で


僕の掘った穴をただ見つめていた