ユクの中

『尾形百之助!貴様のせいでなまえまで逃げ回る羽目になっただろう!』
『おや、鯉登少尉殿はうちのじゃじゃ馬とお知り合いで?』
『手を差し伸べるなら最後まで責任を持て!!』

気球の上での鯉登が俺に叫んだ言葉、まさかなまえと鯉登の間に交流があったとは思わなかった。
そういえば鯉登少尉の小樽任務の時期と俺の入院の時期が被っていた事を思い出す。
何処かで俺の上官に会うかもしれないとは脅していたが本当に出会っていたのか。

「お前、鯉登と知り合いだったのか?」
「…どなたの事ですか?」

気球の操縦を出来る奴がいないのだから当然だが俺達は網走に着く前に地上に戻ってきた。
あんな目立つ物で移動したのだから大体の位置は把握され、第七師団から逃げる為には大雪山を越えるしかない。
途中悪天候に見舞われ、低体温症を避ける為に撃ったエゾシカの中で俺達は天気が落ち着くのを待っている。

狭い空間で今は二人だ。
意外になまえと二人きりになれる時間は少なく、他の連中に気付かれずに鯉登の話しを聞くなら今しか無いだろう。

「とぼけるな、気球の上であいつはお前の事を俺に聞いてきたぞ」
「うわあ…これだから鯉登くんは…」
「くん付けとは随分親しげじゃねえか」
「…別に良いじゃないですか」

俺はこいつに住む所は与えていたがそれ以外の金銭的な援助は一切していない。
それどころかロシア語の勉強にも励み、あの会得具合から山へ行く回数は減っていたのが目に見えているのに退院後に会ったこいつは肉付きだけでなく肌艶も良くなっていた。
当時は良い男でも見つけたのかとからかったがまさかそれがあのボンボンだったとは。

そしてあの鯉登の気迫から察するに、二人は俺が思っているよりも親しくなっているのかもしれない。

「お前鯉登と寝たのか?」
「それをここで聞きます〜?」
「どうなんだ?」
「寝てたら何なんです?」
「幾らで抱かせたんだ?」
「…そこですか。貰ってませんよ、タダです」

まさか同衾まではしてないだろうと思ったがそのまさかだった。
上流階級の旗手様とて所詮は人の子だったか。

「どうしてまたそんな事をした?大した得にもならんだろ」
「…いやあ、鯉登くんがあまりに育ちの良いお坊ちゃんな事に苛立っちゃって思わず…」

その言葉に思わず口角が上がる。
聞けば恵まれた環境にずっと身を置いた鯉登少尉はなまえのような出自は想像がつかず、度重なる言動の数々に何度も苛立ちを覚えたらしい。

「ははっ、尾形って名乗ってるうちに俺に似てきたか?
あのボンボンは旗手だってのによくやったな」
「旗手って何ですか?」
「花沢勇作と同じだ。旗を持って部隊の先陣を切る、それが故に最も死亡率が高い。
品行方正、眉目秀麗、上背もあって穢れの無い…童貞が好ましいとされている」
「えっ」
「俺も花沢勇作殿の童貞を捨てさせようとした事があったが失敗に終わった。
お前は鯉登の童貞を奪ったんだから大したもんだな。負けたよ」
「いや、何で花沢さんの童貞を捨てさせようとしたんですか?」

やはり血に高貴もクソも無い。
一皮剥けば皆同じだ。
鯉登がそうだったんだ、きっと実の所は花沢勇作だって同じだったに違いない。


「はぁー…お腹空きましたねえ。内臓も良いですけど天気が落ち着いたらシカ食べられるかなあ。
尾形さんは何食べたいです?そういえば尾形さんって好きな食べ物とかあるんですか?」
「俺を何だと思ってるんだ。好物くらいあるに決まってるだろ」
「椎茸が嫌いな事は知ってるけど好物は知りませんよ。何が好きなんですか?」
「…あんこう鍋」

鯉登の話しはこれ以上は嫌だったのか、話題を変えられた。
そういえば最後にあんこう鍋を食べたのは何時だったろうか。

「あんこう!あんこうって確か捨てる場所が無いって言いますよね。
美味しいんですか?」
「西のふぐに東のあんこうって言ってな、俺の地元はあんこうが安く手に入った。
あんこう鍋は庶民的な食い方で俺も好きだったんだ」
「へえ、尾形さんの好きな物って初めて聞きました。
さぞ美味しいんでしょうね、私も食べてみたいな」
「そうだな、その内食いに行くか」
「どこで食べられるんだろ、北海道であんこうって獲れるんですかね?」
「どうせ食うなら俺の地元で食うか」
「茨城ですか?私いよいよ本当に尾形になっちゃいません?」
「それも良いかもな」

次にあんこう鍋が食べられるのは何時だろう。
その時はなまえもいるのだろうか。

子は親を選べない。
愛情のない親から生まれた俺達は何かが欠けているのだろうか。

祝福された道は俺には無かった。
だがなまえはどうなのだろうか。

まだなまえの親が何処かで生きていたら確かめられるだろうか。

もしもなまえが祝福された子であったら
俺は変わらずこいつの隣にいる事は出来るのだろうか。