鯉登の憂鬱

「…はぁ」
「鶴見中尉殿に叱れるのがそんなに怖いですか」

白石を逃してしまった事を鯉登少尉殿はえらく気にしていた。
刺青の写しはあるとは言え囚人の1人だ、あの鶴見中尉から何もお咎めが無いという事は無いだろう。
この人は若さ故か感情の起伏が激しく、いちいち宥めるのも面倒くさいがそれも仕事の内なので仕方がない。

「それもあるが…あの気球、恐らくなまえも乗っていた」
「そうですね。アシリパと共にいる所を目撃されています」

そしてその鯉登少尉の情緒を乱す人物の内の1人、なまえが先日の騒動の中目撃された。
小樽任務の際に少尉が惚れ、旭川に戻る前に告白まで漕ぎつけたものの結果は振るわなかったらしい(らしい、というのはあくまで本人から結果は聞いていないからだ。
だがその日の落ち込みっぷりから結果は予想出来たのであえて深入りしていない)

小樽から旭川に移動したのをきっかけにそのまま会わなければ良かったのに、再び彼女の存在に気付いてしまった。
この人は我が儘だ。欲しいと一度おもったものをそう簡単には諦めないだろう。

「なまえは何故尾形なんかと一緒におるのだ…」
「同じ尾形だからじゃないですか?」
「そんな簡単な話しであってたまるか!」

尾形が脱走した時、各所に調査が入った。

なまえは両親を亡くし、家を借りるにも信用や保証が足りないという事で路頭に迷っていた所を遠縁とは言え親戚である尾形が手を貸したらしい。

実際に家に住むのはなまえだが契約は尾形百之助の名でされていた。
仮にも陸軍所属の上等兵だ、社会的信用は十分でありなまえは無事に路頭に迷う生活から抜け出せた。

というのが本人から聞き、尾形の周りも聞かされていた話しだ。

だが尾形が脱走した事により、なまえの家も調べたがそこは既にもぬけの殻であり
周囲にも聞き込みを行なったが不審な点が幾つもある。

そもそも、なまえの両親など見た事のある人物が居ないのだ。
両親は人間関係が希薄だったのかもしれないが、なまえの話しを聞ける人物は小樽には少なからずいた。
娘の話しだけが回り、その親の話しが出ない事などあるのだろうか。

彼女自身も人付き合いは皆無であり、動物の毛皮や角、内臓などの取引程度にしか関わった人間は見つからなかった上に皆口を揃えて彼女の名前すら知らないと言うのだ。

「…なまえは尾形に騙されていたりしないだろうか…」
「たとえ騙されていたとしても彼女はしたたかですから大丈夫でしょう」
「月島になまえの何が分かると言うのだ!」
「話しを聞けば大体察しはつきますよ。それに尾形の者なら、したたかでしょう」

本当に彼女が尾形なのか、そもそもなまえという名前すらも真実かは怪しいが
彼女を知れば知る程、摘みどころがなく尾形百之助によく似ていると思った。