秘めたるは

 千早は走っていた。
 背にしているのは燃える隠れ里。熱気に当てられながらも、泣きじゃくる幼い双子の手を引き必死に足を動かしていた。
 幼子たちは時折後ろを振り返っては、顔を歪ませて正面へと向き直る。千早もまた後ろ髪を引かれる思いだった。あの火群の中には双子の、そして彼女の大切な人がいる。今すぐにでも踵を返しその炎の渦へと飛び込みたいくらいだ。
 それでも一刻も早くこの場を離れなくては。

 するりと手をすり抜ける感覚に、慌てて振り返る。そこには見知らぬ男に腕を捕まれた少女がいた。少女は振り解こうと腕を振るが、幼い彼女が大人の腕力に敵うはずもない。

 少女の元へ駆けようとする双子の片割れに鋭く言葉を投げると、千早はその子を背に隠すように前に立った。
 男は薄っすらと笑みを浮かべながらこちらへとにじり寄る。

「こんな所に逃げているとは、逃げ足の早い餓鬼共だ。……悪いなぁ、一人も逃がすなとの命なんだ。鬼子とて例外ではない」

 このままではだめだ。皆殺しにされてしまう。それでは逃してくれた里の者達に顔向けできない。


ー千早……あなたは生きるの。今すぐここから離れて
ーこれをお前に託す。この子たちと逃げるんだ


 そうだ、生きなければならない。
 私も、この子たちも。

 千早は腰に差した刀を抜いた。年端も行かぬ彼女にはいささか不釣り合いな刀だ。いつもとは違う柄の感触に、強く握り直す。
 目の前の男は刀を抜く千早を見ても表情を変えなかった。女が、しかも成年にも満たない子どもが刀を抜いたところで敵いはしないと思っているのだ。

 千早は油断する男へと間合いを詰めると、その左手首へと刀を振り下ろす。
 突如肉薄した千早に反応が遅れた男はその剣戟を避けることができなかった。

 少女は怯む男の腕から逃れると千早の陰へと姿を隠す。泣きじゃくりながら少年と固く手を繋ぐと、不安そうに千早の方を見上げた。

「薫。千鶴と一緒に先に行って」
「そんな、千早姉さん!?」
「大丈夫!」
「でも」
「っこの餓鬼が!!」

 短く荒い声に振り返る。男は片腕で刀を振り上げていた。

 殺意のこもった視線にぞくりと背筋が震える。
 このままではきっと殺されてしまう。自分も、この子たちも。それだけはだめだ。


(私が、鬼にならなければ)


 男の瞳が驚愕に揺れている。
 気づけば未熟な殺意の宿る白刃は、男の胸に深々と刺さっていたのだ。
 千早自身もまた自分の身に起こったことに驚きを隠せなかった。男が斬りかかるよりも速く、彼女の刃は心の臓に迫っていたのだ。

 ぐたりと千早に伸し掛かる重く大きな体。力の抜けた指先。刀を伝い手に流れ落ちる生暖かい血。生気を失った全てが恐ろしく感じて、千早は男の体を突き放そうと押し上げる。
 驚愕に見開かれた男の目は、急速に光を失うところだった。

(殺したんだ、私が)

 虚ろになりゆく瞳から、目をそらすことができなかった。
 ただひたすらに恐ろしかったのだ。死というものが。自らの起こしたことが。

 男の瞳に映る千早は血を浴び赤く染まっている。
 額にある見慣れない二本の角が、爛々と輝く金色の瞳が、彼女の存在を物語っていた。




 はっと布団を押しのけて飛び起きれば、部屋にはおぼろげな月明かりがさしていた。
 焼け落ちる里も、血を流す人影も、涙を流す子どももいない。あるのはただ穏やかな少女の寝息と、底冷えする冬の空気だけだ。
 それでも千早の胸は早鐘を打っている。

(……久々に見たな)

 パタリと倒れ込むと、吹き抜ける隙間風の寒さに布団を引き上げる。
 目を瞑ると、瞼の裏には赤が焼き付いている。久しく見ていなかった夢だが、その鮮明さは相変わらずだ。

 十年前、ある里が焼き払われた。陸奥の山奥にひっそりと暮らしていた里の者たちはみな、無残な最期を遂げた。思い出したくもないほどのむせ返る血の匂いと、それを覆うように立ち込める煙。そこから命からがら逃げ出したのが、千早たちだった。
 彼女たちは人ならざるもの、"鬼"として生を受けた。人間と相容れぬ事を理解していた鬼たちは隠れるように暮らしていたが、人間はそうはいかなかった。力を恐れた人間は、千早たちの暮らすかくれ里を根絶やしにせんと暴いたのだ。

(……眠れるわけないか)

 焼き付いた赤を引き剥がすように瞼を上げると、ごそごそと寝返りを打つ。目に入ったのは千鶴の穏やかな寝顔だ。
 千鶴は里から逃げおおせた後、何もかもを忘れた。里のことも、家族のことも、鬼のことも。彼女は分家の生き残りである綱道を父だと信じ、十年を穏やかに生きてきたのだ。

 千早はそっと手を伸ばすと千鶴の頬に触れる。ほんのりと伝わる熱に一人安堵していると、少女は身動ぎして薄っすらと目を開いた。

「んん……千早さん……?」
「ごめん、冷たかったかな」
「う……」

 千鶴はごそごそと動き千早に手を重ねる。そしてそのまま再び目を閉じると寝息を立て始めた。

(私が守らないと)

 この無垢な少女は何も知らない。
 全てを忘れてしまうほど、心に負荷がかかったのだ。そんなことは思い出さずに済むのならその方が良い。

 千早は一人意を固くすると、目を閉じ静かな夜に身を任せた。




「荷物、全て戻ってきたんですね」

 翌朝、目を覚ました千早たちは身支度を整えると部屋の隅に置かれている荷物を改めた。
 彼女たちにはこの屋敷の一室があてがわれ、そこから出ないようにと言い渡された。女を置いていると分かれば外聞も悪く、綱道と関わりのある人物だとバレれば狙われる可能性すらある。それ故に彼女たちは男装を続けたまま、幹部以外の隊士に知られぬよう引き籠もることになっていた。
 殺されるのに比べれば遥かに良い処遇だ。彼女たちは新選組の決断に首を縦に振るしかなかった。

「みたいだね。……まさか、これも返してくれるなんて」

 千早は荷物の横に置かれていた刀を手に取る。隣にいた千鶴も小太刀にそっと触れていた。
 この刀は、彼女たちが肌身離さず持っていたものだ。千鶴の小太刀は雪村家に、千早の打刀は初霜家に、それぞれ代々受け継がれてきた大切な代物だった。記憶のない千鶴にも、それだけは伝えてある。

「相変わらず刀は苦手?」

 神妙な面持ちの千鶴に言葉を投げると、彼女は苦い笑みを浮かべた。
 鬼は人並みならざる治癒能力を持つ。それは千早も、千鶴も同様だ。人とは違うその体質を、綱道は「天からの授かり物だから、三人だけの秘密だ」と教えていた。
 千鶴は秘密を守ろうと、怪我を避けるようになった。その結果、傷を負うことに繋がる刃物に苦手意識を持つようになっていたのだ。

「それでも……小太刀が戻ってきてよかった。大切なものですから」
「……そうだね。大切なものだ」

 鞘をそっと撫でると、立てかけるように刀を置いた。殺風景な部屋の中、僅かな荷物だけが彼女たちの頼りだった。

Hocus Pocus