鬼滅の刃 - 春風


《これから》

 煉獄槇寿郎は、我が目を疑った。目の前に広がるその悍ましい光景に戦慄した。

──辺りに漂う異臭。噎せ返る程に生臭く鉄臭い、鼻が曲がる強烈な刺激臭。幾度嗅いでも嗅ぎ慣れぬ、独特の死の匂いだ。

 炎柱・煉獄槇寿郎は、とある異能の鬼を追っていた。夏真っ盛りの蒸し暑い汗ばむ夜のことである。人を五十人以上も喰ったという報告がある厄介な血鬼術を駆使する鬼であった。一般人のみならず、討伐の為に派遣された一般隊士や隠の先遣部隊までもが手酷くやられ、その中には死傷者が出ている程の状況である。その鬼が血鬼術だけではなく、その山間部の地形の仔細に詳しく、その身を隠すことに長けていたことが、一般隊士による鬼殺が難航した理由であった。お館様の命で、一般隊士の生き残りが最後に鬼を目撃したという深い山に、鬼殺隊最強戦力の柱である槇寿郎が向かわされたのである。

「……!!」

 山の奥深く、そこだけがやけに開けた場所で槇寿郎が目の当たりにしたのは、到底信じ難く受け入れ難い凄惨な光景であった。見開かれた双眸に、その惨劇がありありと鮮明に映される。視界いっぱいに広がる、赤。すっかり色の変わった地面から、未だに濃い錆鉄の匂いがしている。そして、それが鬼の仕業ではないことに気が付いた槇寿郎の口が、顎が外れんばかりに唖然と開かれた。その血溜まりに、件の鬼と思わしき物と──妙齢の少女の姿があったのだ。鬼の身体は斧に縫い止められ、地面の上でピクリとも動かなくなっている。どうやら鬼は昏睡しているようだ。

「…これは、真の出来事か」

 槇寿郎は日輪刀の鯉口を切り、昏睡状態の鬼が目覚めていつ少女へと攻撃をしても応えられるように、完全に気配を消して臨戦態勢を取った。大して走ってもおらぬというのに、動悸が激しい。背筋に滴る粘りのある汗は、この記録的な猛暑のせいであると自身に暗示の如く言い聞かせた。
 鬼は、日輪刀という特殊な刀でなくては、その致命傷すら与えることが出来ない。日輪刀とは、太陽に一番近く一年中陽の射すという陽光山で採れる猩々緋砂鉄と猩々緋鉱石から打たれた日本刀であり、日光を浴びる事以外は基本的に不死身である鬼に対して、その頚を斬る事で殺すことができる唯一の武器である。そして、その得物を持っている者は当然鬼殺隊隊員だけである。つまり、俄かには信じられないことに──この少女は今の今までずっと、日輪刀でも何でもないただの斧で、鬼が身動きすることが出来ないように押さえ付けていたのだ。

「や、止めててくれ…!もう、止めてくれぇ…!!いっそ殺してくれ!!」

 漸く意識を取り戻したのであろう鬼が、少女へと懇願する。人間というご馳走を目の前にしたであろうはずの鬼が全身を小刻みに震わせながら後退するその目には、言葉にしようもない恐怖が確かに植え付けられていた。ガチガチと歯の根が合っていないが、口元からちらりと見えるのは確かに鬼特有の鋭利な犬歯だ。少女はその鬼の言葉になど耳も傾けず、哀願する鬼に対して容赦なく斧を振るった。一閃。鬼の首が宙を舞い飛ぶ。その切り口は粗雑で、斧の切れ味が相当に劣悪であることが見て取れる。

 朝日が昇り、鬼が塵屑となり消滅する。天敵であるはずの日が昇る様を幸甚だと心の底から歓喜する鬼らしからぬ姿は、鬼が元々は人間であったことを如実に表すかのようで、今まで数多の鬼を葬り去って来た槇寿郎の心に深い[[rb:歪 > ひずみ]]を残した。
 射し込む眩い光の方へ顔を向け、少女が目を細める。その顔立ちや体躯から、槇寿郎の長男・杏寿郎とそう変わらぬ年頃であることが伺えた。尤も、裕福な家庭に生まれ育ち体格の良い杏寿郎と、見るからに薄幸な痩せこけた少女とを比較することは、この上ない良心の呵責に苛まれた。

「──鬼殺隊に、入らないか」
 槇寿郎はそう口にしてから、自分自身の口から出た直前の言動に驚愕した。槇寿郎とて、一般人に鬼殺隊への勧誘を行うなどという意に反することはしたことがない。確かにこの瞬間までは、これから先も勧誘などすることはないだろうとも思っていたし、金輪際そのようなことは決してしないと言い切れる。それは、鬼殺の道がどれだけ険しいものであるかを知り過ぎている故である。炎柱たる地位に就く者、一般人や隊士を守る責務故に、明日の命の保証すらない。はたまた一般隊士であっても、その実力不足故に鬼に敗北し死にゆく者など星の数ほどにあるのだ。そんな茨の道にこのような子供の手を引き死地へ導くつもりなど、槇寿郎はにはなかった。しかし、目の前の少女には、そんな思考などの全て吹き飛ばしてしまうくらいの才が存在したのだ。
 槇寿郎へと向けられたその一対の大きな瞳は、混沌と濁った生気のない翡翠をしていた。この世ならざる者を目の前にしているような不気味な感覚に、槇寿郎は内心冷や汗を垂らす。そしてその少女は、自身を咎人だと呼称して槇寿郎の勧誘を一刀両断に拒否した。何と、今から海に身を投げるのだと言う。しかし、この年端も行かぬ子供は、ただの手斧一つで異能の鬼を葬ったのだ。この少女には紛れも無く、天賦の鬼殺の才がある。

 何よりもまず、ここで幼い少女が自害する様を、いち大人として当然見過ごせるはずもない。時には人の心を削ぎ落とさなければいけないような環境ではあるが、そんな人でなしにまでは堕ちていないと槇寿郎自身は自負している。だが、こんな少女を目の前にして、その姿形が崩れ落ちてしまいそうになっていることも事実である。槇寿郎は少女の首元に手刀を入れて、その意識を根こそぎ刈り取ったのであった。


[newpage]


 ぼんやりとした白光が視界を覆った。目から入る急激な刺激に頭頂部が縄で縛り付けられたかのように痛むが、次第に慣れて視界が徐々に明瞭になる。この白が待ち望んだ地獄のものではなく、この世の現実の太陽の光であることが分かる。私は、まだ死ねていないのか。

「……」
 木で組まれた見慣れぬ天井。次に、素朴だが細密な装飾で、空間を緩やかに仕切る造形の欄間が目に入った。
 まるで鉛のように重たく、節々のあちこちが絡繰りの如く軋む身体を、腹の底に力を込めて無理矢理に起こす。身体中が鈍く痛み、上手く動かすことができない。自分の身体だというのにまるで他人のもののようである。何とか上半身を起こし、寝かされていた滑らかで柔らかく質の良い、太陽の匂いがする布団をそっと撫でる。そして、ぐるりと部屋を首で見回した。

「…ここ、は」
 六畳一間の格式高く落ち着きのある真の客間。華美ではないものの、その調度品のどれもが高級であることは一目見て直ぐに分かった。書院の小窓からは、隅々まで手入れの行き届いた見立ての素晴らしい枯山水の庭園が見える。海洋風景を水を使わずに石と砂のみで見事に表現されていて、さざ波の波紋が心の中に沁み渡っていくような妙な気分になり、思わず目を逸らした。

「…ッ!」

 私は、普段から気配を消して行動している。家事をする為に家の中をあちこちに移動する時も家を出る時も、はたまた荷運びの仕事をする時も。無論それは、父と祖母となるべく顔を合わせないようにする為に自然に習慣付いたものであった。自分から敢えて気配を出す時など、あの魚屋の前を通る時くらいなもので、ほぼ零に等しい。だからこそ、私は気配に敏感であった。障子戸越しの縁側から、こちらへと小さな気配が近付いてくる。足音の重量感と歩幅から察するに、恐らく私とそう変わらぬ年齢の男子であろう。

「失礼するぞ…君、起きたのか!!」

 耳に勢い良く飛び込んできたとてつもなく大きな声に、思わず目を瞬いた。
──猛炎を思わせる特徴的な金と赤の髪色と、双眸が見開かれた強靭な眼力を持つ男子。予想通りであったようだ。膝を付いて障子戸を開け放った少年は、私を見るなりそのまだあどけなさが残る端正な顔を明るく破顔させて、いそいそと部屋へ入って来た。

「あなた、は…」
「すまない、申し遅れた!俺は煉獄杏寿郎という!」
「…嘴平、泉です。あの、私は何故ここに?」
「俺の父上が君をここへ運び込んで来たんだ!!君は怪我こそ大したことなかったが、この五日間ずっと寝込んでいたんだ!!」
 この少年が言う父上とは、恐らく私が異形を抹殺する姿を目撃した男性を指すのであろう。この少年とあの男性の容姿は、父子だということを疑いようがない程に酷似している。金と赤の髪など、そうそう見られたものではない。

 少年から話を聞いたところによると、私はどうやら五日間意識不明のままであったらしい。傷こそ大小こさえてはいたがそれ自体は大したことはなく、飢餓状態と睡眠不足が人間の身体の限度を越えていると医者が言っていたと、少年は何でもないことのように私へと告げた。施術が終わって損傷が回復を始めても、私が目覚めない分には食事も与えられない。状態に似合わず意識を取り戻さない私に少年は首を捻って手をこまねきつつも、辛抱強く日中介抱してくれていたようであった。

「わざわざお医者様など……本当に、ご迷惑をお掛け致しました。これ以上お手間をお掛けする訳にはいきません、今すぐにでも出て行きます」
「む!つい今しがた父上を呼んだ、せめてそれまでは待ってくれ!」
「ですが…」
「待ってくれないと言うのであれば、君を気絶させねばなるまい!俺はそうはしたくない!」
「……」

 少年の膝に添えられた手を、視線だけを下げて見やる。年齢の割に妙に分厚い掌だと思ってはいたが、やはりこの少年も剣士を志しているのであろう。その童顔に似合わぬ節くれ立った男子の指が、それを如実に示していた。

「そうだ、腹が減っているだろう!重湯を用意してもらったから、食べられる分だけ食べるといい」
 ずい、と小脇に置かれていた盆が差し出された。そこには匙と椀、湯呑とが行儀良く並んでいる。ふんわりと米の香りが、鼻腔を擽る。その幸せな匂いが、一週間前に自身の犯した咎を鮮明に甦らせた。

「よもや!手が動かないか?」
「…いえ、動かせます」
 匙と椀を見つめたまま硬直した私に、杏寿郎と名乗った目の前の少年がコテンと首を傾げる。金と赤の癖の強い髪がふわりと揺れる。そのきらめきが、どうしようもなく眩しかった。

「……私などに、このようなことをして頂く価値などありません」
「何故そう思う?俺はそうは思わないが」
 本当に疑問なのであろう。心底訳が分からないといった戸惑った顔をする少年に、思わず私の眉根が寄った。

 きっとこの少年は、弱き者を助けることは世の当然であると、幼少期からご両親にきちんと教えられ、ここまで立派に育て上げられたのであろう。この世の薄暗いものを知らずに育ったのであろう。私とは、対極の位置にいるような人間。本来であれば、関わりようのあるはずもない人間。私の胸中に蠢いてしまったのは、煤のように薄墨色で仄暗い炎。捨て置いたはずの心の一部が焼け焦げ、苦々しいえぐみが滲み出て臓物に浸透してゆく。どうしようもない羨望と嫉妬の感情が、足元に絡み付いて離れようとしない。眩し過ぎる日の光は、時に無性に腹が立つのだ。そんなどうしようもない自分に気が付いて、自分はやはり生きていてはいけない碌でなしなのだと再確認する。生き延ばされてしまった己に対する嫌悪と否定とが、頭を締め付けて視界が狭まる。

「あの……私など、こんなに良くしてもらえるような人間では、ないので」
「……」
 私をジッと見つめて黙り込んだ少年との沈黙に、もうとっくに心の奥底に仕舞い込んだはずの罪悪感が湧き上がってくる。しかし、そんな私の思考など露知らず、少年は直ぐに口を開いた。

「君がどのような人間であろうが、弱っている君を助けない理由にはならない!さあ、重湯を食べてくれ!冷めてしまう!…それとも、俺が食べさせてやろうか?」

 にっこりと快活に笑って匙と椀をぐいぐいと私の頬へ押し付けんばかりに差し出す彼に、一気に毒気が抜かれる。素直な感情を表に出してくる少年の笑みは、正直苦手だ。
──善い人なのだ。私などとは決して比べてはならない、比べるまでもない、善い人。本来であれば、同じ空間にいてはならないくらい、いるはずもない、善い人。

「食事の世話は、弟の千寿郎の世話で慣れているから心配しなくてもいいぞ!君は、口を開けて嚥下するだけでいい!」
「……。自分で、食べられます」
「うむ!それならば良かった!」
 少年の強引さに押し負け、私は両手を上げて降参した。どろりとした重湯をほんの少し匙に掬い上げ、ゆっくりと口に運び入れる。その私の一挙一動を、少年は瞬きもせずにじっと穴が開くほどに見つめていた。寝起きの舌には丁度良い塩梅の薄い塩加減に、ポツリと「…美味しい」と告げる。すると、少年はにっこりと満面の笑みで「それは良かった!!」と鼓膜に悪いくらいの大声で叫んだのであった。



 それから私は、少年の父であるという煉獄槇寿郎さんをただ[[rb:只管 > ひたすら]]に待ち続けた。しかし、重大任務の為に中々帰って来ることが出来ないのだと、心なしか眉の下がって元気のない杏寿郎さんが私へと告げた。

「だが、君は何も心配せずとも良い!君の体調が良くなるまで、俺に面倒を見させてくれ!」
 ふんす!と鼻を鳴らしてそう意気込んだ杏寿郎さんの世話の甲斐あって、更には元より人間離れした丈夫な身体でもあったからか、私の体調は驚異的な回復力でみるみるうちに良好になった。父にやられた青痣も、かなり薄い麦藁色に変化し消えつつあった。しかし、この表情は相変わらずごっそりと削ぎ落とされていて、表情筋はピクリとも動きやしなかった。一度も笑うことがない日本人形のような女など、傍から見ればさぞ不気味であっただろうが、そんな無愛想の一言では片付けられない程に無表情を貫く私に、杏寿郎さんは根気良く世話を焼いた。
 槇寿郎さんが屋敷に帰って来たのは、私が全快したその日の晩であった。行灯を点けず真っ暗闇の客間の隅で膝を抱えて座り込んでいると、パタパタという二人分の足音が屋敷に響き渡った。

「父上、お帰りなさいませ!」
「ちちうえ!ちちうえ!」
 その人となりを表すかのような明朗快活な声と、まだ舌足らずなあどけない声が母屋の玄関口から聞こえて来る。

「……」

 私は、気配に敏感である。そして私の感覚は、何故かあの鬼とやらという異形と遭遇した時からさらに過敏になっていた。それ故に、この煉獄家の武家屋敷全体の気配を探ることが出来るのである。煉獄家の家族構成は、一家の主である煉獄槇寿郎さん、長男の杏寿郎さんと次男の千寿郎さん、そして──その母君である。私は身を寄せさせて頂いている離れの客間からは、縁側も含めて一歩も外へ出ていない為、勿論その母君とも顔を合わせてはいない。湯汲を勧められもしたが、杏寿郎さんに無理を言って桶の湯と手拭いを用意して貰い、軽く身体を拭うだけに留めさせて貰っている。それには私なりの理由があったが、あの心の清らかな優しい少年だけには決して何があっても気取られないようにと、細心の注意を払っていた。

 屋敷には、家の家事を取り仕切る二人の女中さん以外に、気配の希薄な妙な人物が度々出入りを繰り返していた。しかし、母君であろう女性が母屋を歩き回る気配を、この数日間で一度たりとも感じ取ることは出来なかった。私のような身柄の人間であればまだしも、屋敷の主人の細君が部屋に籠っているとなれば、ある一定の理由を除いた他は存在し得ない。
 つまり、恐らくではあるが、母君は──病床に臥せているのであろう。そうでなければ、主人が帰宅したというのに出迎えぬ妻という家庭構造が成り立つ訳がない。出迎えないのではなく、出迎えられないのである。

「……」
 それから子の刻になっても全く寝付くことが出来ない私に近付く気配が、障子戸越しに、一つ。湯汲をした直後の人間は、総じて爽快な香りを纏っているものである。

「煉獄、槇寿郎様」
「ッ!!」
 縁側に向かって声を掛けると、ハッと息を呑んだ音が聞こえた。恐らくではあるが、息を潜めて私の様子をわざわざ見に来て下さったのだろうと思う。

「……お話したいことがございます」
「…私も、ちょうどそう思っていたところだ」
 善い人なのだ。皆が皆、本当に善い人なのだ。だからこそ、真実を伝えなければならない。私は、こんな所にいて良いような人間ではないのだと。


[newpage]


「…どこぞの馬の骨とも知れぬ私を、このように手厚く介抱して頂きまして、本当にありがとうございます」
 三つ指を付いて深々と頭を下げた目の前の少女の所作は、その見てくれに似合わず洗練されていて完璧であった。着る物が違っていれば、どこかの名家の御令嬢だと言われてもおかしくない程である──いや、御令嬢にしては肉付きが悪過ぎるか。

「……自死をするなどと自暴自棄になった子供などを、見過ごせるはずがないだろう」
 槇寿郎は敢えて憮然としてそう言い放った。しかし、泉が沈黙する。槇寿郎は黙り込んだ泉に一体[[rb:如何 > どう]]したのかと目を向けた。


「私は…私は──自身の父と祖母に、手を掛けました」
「ッ!!」
「…それを聞いても、あなたはそう思われますか」

 槇寿郎は──目の前の少女の吐露に、愕然と恐怖した。背筋がぞわりと粟立ち、思考が真っ白になる。普通よりも見窄らしい痩せこけた見てくれのただの少女が、鬼殺だけには留まらないことに手を掛けていた危険人物であるなどとは、流石の槇寿郎とて気が付くことが出来なかった。擦り切れた着物に付着していた血液が鬼のものだけでなく、少女が殺人を犯した際のものだということなど、一体誰が想像することが出来ようか。
 孤児、窃盗、咎人。先入観とは時に真実へ辿り着く道を妨げるのである。槇寿郎の頭の中でグワングワンと警鐘が鳴り響く。ぐるぐると眩暈が襲い掛かって来る。まさか、こんな少女を保護した上に、実の息子に面倒を見させていたなどとは。紛れも無い咎人を、この家に置いていたなどとは。槇寿郎は自分自身を殴り飛ばしたいまでの後悔に襲われた。

 しかし、そんな狼狽する槇寿郎を目の前にしても、槇寿郎からの闘気を一身に向けられても──泉は瞬きの一つもせず、石膏像のようにじっと身動ぎもせず、真正面から槇寿郎の炎を思わせる光彩を射抜いた。

「…お伝えするのが遅くなり、誠に申し訳ありません」
 深々と首を垂れる。少女は確かに学こそないのだろうが、どうしようもなく聡明であった。泉は槇寿郎の心の奥の自責の念を読み取り、自分に出来得る限りの丁寧な謝罪をしたのだ。

──だからこそ、槇寿郎は分かってしまった。正座姿の美しいこの少女は、教養の有無などは関係なく、馬鹿ではない。そんなものは目を見れば分かる。何かとてつもない理由があったのだろうということが、分かってしまった。しかし、聡明であろうからこそ、糾弾しない訳にはいかなかった。

「ッ、何故!!何故そのようなことをしたのだ!!お前のような者が、何故だ!!」
「…死ぬ覚悟なら、とうの昔にできてます。咎を犯した者は、死を賭して償うべきだと思っています」
 怒鳴る槇寿郎に対して、少女は微塵たりとも怯えることもなく淡々として答えた。

「…私は、これを望んだのです」

 少女の瞳に槇寿郎を映す。混濁とした翡翠。そんな希望も何もないような瞳で、この世の全ての地獄を知ったる瞳で、一体何てことを言うのだ。


──この娘は、最初から生を諦めている。少女が見据えている先は、今も昔も“死”だけであったのだ。

 こういう目をした人間を、槇寿郎は幾人も目の当たりにしてきた。許容量を越えた辛苦を身に積もらされた人間の中には、極稀にこうなる者がいる。見てくれを保ったまま精神が徐々に摩耗していく。死ぬのでも、壊れるのでもない。人間らしさを取り繕い装ったまま、音もなく人間性を喪失していく。自分を守る為に、心を削ぎ落とす。壊れない為に、感受性を自切していく。この少女はそうして辛うじて残された理性で、自分自身の死を最善だとして選んだのだ。

「…君は何故、あの鬼を斬っていたのだ」
「あの時の私は、正気ではなかったと思います。…いつでも死ねると思えると、私は何でもできる気がしたのです」

 俯きながらポツリと、泉が言う。これがこの少女の紛れもない本音なのであろう。槇寿郎は、自分の視界が僅かに潤んでいることに気が付き、慌ててぐっと眉間に皺を寄せて天を仰いだ。こんな少女にこんな残酷なことを淡々と言わせる状況に陥らせた彼女の父母、祖父母に対して、理不尽ながらも怒りが湧き上がってくる。そして、目の前の少女に対しても、他にやり方があったのではないかと追及してやりたくなる。

「しかし、斬っても斬っても死なぬ異形を前にして、私は我を忘れてしまっていました。本来の目的である身投げすらも、その時は頭から抜け落ちていました。これでは、殺人鬼と相違ありません」
「……」
「私は、本当に碌でもない人間なのです。出会ってしまったあなたには、何と謝罪すれば良いのか分かりません。…どのような罰であってもお受け致します。しかし、私は、私などという人間がこの世に存在していることが、もう許せないのです」

 あの時、この少女を素直に死なせていてやれば良かったのであろうか。それが、この少女への最期の救いであったのだろうか。もしもそうだとするのであれば、人間とは何という空虚で寂寥な生き物なのであろうか。助けたはずの命でさえ、この手から零れ落ちてゆく。
 槇寿郎は湧き出る無数の感情を、奥歯でギリリと噛み締めた。

「…君の処遇を、私たちの長によって決めさせてもらえないだろうか」
「何を今更、元々もう存在し得ない命です。構いません」

──こんな[[rb:事案 > もの]]、自分一人では判断し得ない。判断など出来てたまるものか。
 槇寿郎は、お館様の指示を仰ぐことに決めたのである。鎹烏を飛ばすと、程無くしてお館様からの返事が到着した。こうして泉の身柄は、翌週の柱合会議の最後に詮議に掛けられることが決定したのである。



「少しの間だけ、この少女をこの家で預かることになった」
 ぐったりと父の腕に全身を預けている少女は、酷く血と汚泥に[[rb:塗 > まみ]]れていた。血でどす黒く変色し、最早その面影を残さぬくらいにただの布切れと化している擦り切れた着物。痩せこけた身体、げっそりと落ち窪んだ瞼、血液が付着し凝固したことにより束になった髪。乾き切ってひび割れて血が滲む唇から漏れる微かな吐息。

──煉獄杏寿郎の父である槇寿郎がその少女を連れて来たのは、つい一週間程前のことであった。父の決定に対して杏寿郎は概ね歓迎の心持ちであったが、同時に疑問を抱かざるを得ないことがあった。煉獄家は戦国時代から続く由緒正しい鬼殺を志す家系である。その屋敷に怪我人が運び込まれることなど、日常茶飯事であった。しかし、袖口から見えた少女の青白い肌には、誰かに殴られたような青痣と、刃物による深い切り傷が刻まれていた。そして、何か熱された物を押し付けられたような、年季の入った火傷の痕のようなものも。それらの傷が鬼によるものでは無いということは、鬼殺隊を志す杏寿郎からしてみれば一目瞭然であった。
 ある日、杏寿郎はそのことについて病床の母に尋ねた。母は終始無言で哀しげに眉を寄せていたが、杏寿郎を強く抱き締めて静かに言った。

「その子は…泉さんは、きっと今迄にたくさん傷付いてきたのです。杏寿郎、これから少しの間かもしれませんが、あなたがしっかりと支えてあげるのですよ」
「はい、母上!」

 杏寿郎はその時、泉を全力で介抱すると母に誓った。泉の打撲による青痣は煉獄家に来てから暫く経つと次第に薄くなったが、火傷痕は完全には消えなかった。泉の右手首にありありと残る[[rb:蚯蚓 > みみず]]腫れの傷を見る度、杏寿郎はその傷を付けた者に対して腹の奥底に沸々と怒りが湧くのを感じた。


──だからこそ。その突然の別れに、杏寿郎は茫然とした。

「……父上。今、何と仰いましたか」
「何度も言わすな。泉は、もう既に出て行った」
 カランカランと音を立てて、杏寿郎の手から盆が零れ落ちる。槇寿郎は眉間に渓谷を掘り、むっつりと黙り込んでしまっている。
 泉が煉獄家に連れてこられて、ちょうど二週間経った早朝あった。いつものように杏寿郎が泉の暮らす離れへと足を運ぶと、何故かその部屋の真ん中に、父である槇寿郎が胡座で座していたのだ。

──全く笑わない少女であった。酷く痩せた少女であった。頑なな少女であった。何かを抱え込んでいることには、気が付いていた。
 親愛か、はたまた恋慕か。今となってはもうそれすらも推し量ることはできない。それでも、杏寿郎は確かに泉を大切に思っていた。二つ歳下だという少女に、まるで妹のような感情を抱いていた。自分が守ってやらねばと、そう思っていた。思っていたのに。

「…お前に、礼を伝えてくれと言っていた。直接礼を言えない不義理を、どうか許してくれとも」

 茫然と黙り込んだ杏寿郎に、槇寿郎が付け加えるようにポツリと言伝を告げる。何故何も言ってくれなかったのか。少し顔を合わせる時くらいを、設けてくれても良かったはずだ。杏寿郎はそう思ったが、何かに耐えるような父の顔を見てしまったのに、そんなことを言えるはずがなかった。

「…泉は、幸せになれるでしょうか」
「……私には、分からない」
 まるで唸るような父の声に、杏寿郎は唇をグッと噛み締めた。両拳を固く握り締める。目頭がじくじくと熱を持ち、視界が潤む。しかし、父の前では決して零すまいと、杏寿郎は必死で堪えたのであった。


[newpage]


──鬼殺隊とは、人喰い鬼を狩る実力を有した剣士とその剣士をあらゆる分野で支える者が集められた、政府非公認の大規模組織である。その根源は千年以上も前にまで遡り、現在の構成人員は計数百名を超えるという。

 泉が“隠”なる人物に耳栓と目隠しをされて抱え上げられて連れて来られた場所は、紛れも無くその鬼殺隊総本部であった。煉獄家に出入りしていた気配の希薄な人物は、きっとこの人たちであったのだろう。二人の隠に両脇を固められたまま、泉はその庭の一角に待機させられていた。気配で探るまでもなく、泉は自分が今いる場所が非常に広大で荘厳な屋敷であることが分かった。空気が非常に澄み渡っている。何かの花の香りであろうか、嗅ぎ慣れぬ芳醇な[[rb:馥郁 > ふくいく]]たる香りが鼻腔を擽った。

「柱合会議を終える前に、少しいいかな」
 その声を聞くなり両隣の隠が立ち上がって、泉にも視線で起立を促す。

「槇寿郎が保護してきた子なんだ。…彼女の処遇について、少し皆の意見を聞きたくてね」
「それは、一体…?」
「泉、こちらにおいで」

 名を呼ばれる声に泉は立ち上がり、二人の隠に両隣を固められたまま、ゆっくりと歩を進める。まるで死刑台に赴くような気持ちになったが、泉は恐怖を感じなかった。訝しげな視線を一身に浴びながらお館様の真正面まで来ると、その地面に座した。隠の二人がそれぞれの方向に礼をして、その場から素早く立ち去る。泉は目の前の人物を見上げた。

──産屋敷耀哉。鬼殺隊の最高責任者であり、組織の全てを纏め上げる長たる頂点。この産屋敷家一族の九十七代目当主。鬼殺隊の隊士達面々からはお館様と呼ばれている人物。

「……嘴平泉と申します」

 正座のまま、名乗って頭を下げる。殺気を隠そうともしない八対の鋭い視線が、泉の丸められた背中を射抜いた。それぞれが少女を注意深く観察する。背丈こそそれなりに高いが、お世辞にも肉付きが良いとは言えない、骨にほんの少しの筋肉を貼り付けて皮を纏ったかのような、痩せこけた見窄らしい体型だ。身長に比例するように手足はすらりと長く、野生の獣のような雰囲気をしている。

「初めまして。私は産屋敷耀哉といいます、よろしくね」
「こ、ちら…こそ」
 思い掛けぬ友好的な挨拶に、泉は僅かばかりか当惑した。しかし、八対の槍は尚もそのままである。半年に一度のみしか行われぬ神聖で貴重な柱合会議に突如乱入して来た邪魔者に対して、柱の面々から抗議の声が上がるのは当然のことであった。

「お館様!お言葉ではございますが、鬼により父母を亡くして親族へと預けられた幼子は、今までにも数え切れぬくらいおりましょう。それが何故、今更この少女のことが議題に上がるのでしょうか?」
「それも、この半年に一度の貴重な柱合会議の場、ここは鬼殺隊の本部です。余程の事情がない限り、このような少女を連れて来るべきではないと考えます」
「…煉獄。まさか、お前の判断か?一体どういうつもりだ」

 柱。鬼殺隊においてのその地位について、泉は事前に槇寿郎から説明を受けていた。鬼殺隊最上位の実力者。一般隊士とは隔絶した強さを持っており、文字通り鬼殺隊を支える柱となっている。その九人の中の、炎柱という地位に槇寿郎自身が就いているとも聞かされていた。

「……それについては、彼女自身の口から話した方が良い。お館様、宜しいでしょうか」
「ああ、構わないよ」

 お館様は槇寿郎の申し出に頷き、泉へとその柔和な瞳を向けた。顔を上げた泉は、改めてその人物の顔をまじまじと見つめた。髪は肩上で切り揃えられており、切れ長の澄み渡った目に弧を描く薄い唇、眉目秀麗な顔立ちをしていた。しかし、顔の左目の周辺が、焼け爛れたような痕に覆われている。その左後ろには、細君であろうこれまた佳人が控えていた。
 背中の八人の圧力から口を開くよう促され、泉は咎を告白した。


「私は、毎日暴力を振るい酒を呑んだくれる父と、家事を全て完璧に熟し外で働けと命令して散財する祖母を……この手で、殺しました」
「ッ!!?」

──その場にいた皆が、総じて息を飲んだ。瞬時に刀剣を手に掛け鯉口を切り、今にも首を落とさんばかりの殺気を飛ばす者もいた。
 既に事情を知っている耀哉と槇寿郎だけが、神妙な顔をして泉の言葉に耳を傾けている。常人であれば今にも気を失わんばかりの殺気の中、泉は続けた。

「…つい一月程前のことです、私を買いたいという遊郭の遣手婆が家にやって来ました。父と祖母は、その提示された金額を見て、そして私が働いた給金を家に送ると取り付けて、諸手を挙げて大いに賛成しました。遣手婆が帰ったその晩、遊郭へ売り飛ばす前に身体を暴いておいてやろうと下品に嗤い、夕食を作っていた私の服に手を掛けた父の顔を見て──私は、全てが切れたような気がしました」

 抑揚無く平坦に続ける。その場にいた全員の柱の顔が、嫌悪のあまり忌々し気に歪められた。お館様は表情こそ崩しはしないが、薄く形の良い唇は硬く引き結ばれている。皆が口を噤み、その身の上話を誰も遮ろうとはしない。泉はそんな様子も気にすることなく、淡々と自身の咎を白日の下に晒していった。

「私は、鍋に煮え滾る熱湯を父の顔に浴びせ、鍋で何度も頭部と腹部を殴り付け、それでも抵抗してくる父の四肢を捥ぎ取り、八つ裂きにしました。祖母は、そんな私を見て何か気が狂ったかのように喚き叫んでいましたが、土間に立て掛けてあった斧で首を落としました」

──こうも言葉に出すと、否が応でもあの惨状の全てを鮮明に思い出す。土石流のように流れ出した光景が、泉の頭の中で轟々と溢れ返る。

「そんなことをしても尚……私には、罪悪感が湧かないのです」
 そうだ。咎を働いたという自覚は、泉の中に確かに存在している。親殺しというとんでもない咎を犯したということを、泉は紛れもなく理解している、自覚している。そうであるはずなのに、泉には後悔の念が微塵も湧き上がって来ないのだ。


「…君の母親は?」
「同じく家庭内暴力を振るわれていた母は、赤子であった弟を抱いて、山奥の新興宗教へと逃げ込んだそうです」
「ま、さか、君は」
「…私は、母と共には行けませんでした」
 未だ胸の内にこびり付く苦々しい記憶。泉はこれまでの十年間の人生において、たったそれだけについては確かに後悔していた。泉はついぞ母へ手紙を一度も送ることが出来なかったのだ。

「ッ、待て!!お前は何故、そこへ行かなかった。お前も母の元へ行けば、その父と祖母から逃れられたはずであろう!!」

 当惑しつつも流石は鬼殺隊の礎を担う手練れである。咎める鋭い視線が泉を射抜いた。皆が皆それぞれ、泉の本心を見抜こうとしている。少しでも不審な言動をするものならば今にも斬り掛からんと、懐疑心が前面に押し出された表情で詰め寄る者。少女に憐憫の情を抱きながらも、それに惑わされまいと心の目を凝らす者。じっとその場で身を殺すように息を顰めて、冷静に事の全貌を客観視しようとする者。

「……人を救う宗教だなんてもの、腐りに腐った人間を目の前に、信じられるわけがありません。救いなど求めたとて、現状が何も変わらないと分かっていました。今でも私は特に救いなどは求めてはいません。後悔はしていないし、海にでも身を投げて死のうと思っています」
「……」
 それを聞いた九人の柱皆の顔が、揃って苦虫を噛み潰したように顰められる。泉の話は、少なくとも大人には覚えのある話だ。

「……君の母上は、ご健在なのか」
 声を絞り出すようにして、柱の誰かが泉へと尋ねた。

「分かりません。ただ、母は…幸せになれる新興宗教とやらに入教したようなので、きっと幸せな人生を送っているのではないでしょうか」
「…君は、幸せになりたいとは思わなかったのか」
「まさか。私のような咎人が、幸せなど望めるはずがありません。ましてや望んで良いはずもない。それに、私は──幸せという感情など、とうに思い描けません」

 そこで泉は、終始俯いていた顔を緩慢に上げた。
 そうだ。彼女の意思は、いくらこんな所で懺悔をしたところで、変わり得ないのだ。


「…死にたいと思いながら、毎日を生きてきました。病気にでも罹れば良いと思い、感染症の蔓延る廃墟と化した農村地帯に足を運んだりもしました。しかし、私の体は微熱すら出しませんでした」

 続きを促す優しく穏やかな目だけを、じっと真正面から見つめた。目の前の鬼殺隊の長の衆目美麗な顔立ちが悲壮さに満ちていることに、泉はそこでやっと気が付いた。それでも、泉の口は堰を切ったように止まらない。

「ただ、私は生きていてはいけない人間なのだということだけは、未だ辛うじて分かります」
「……」
「それが今こうして分かるうちに、私は死にたいのです」

 すると泉は徐に振り返り、そっと眉だけを僅かに下げた。槇寿郎を含めた柱が、それぞれの面持ちで泉を見つめていた。既に皆、刀に手を掛けてはいない。
「…言ったでしょう?私は咎人です。あなた方が罪悪感を抱く必要は全くない。情など、感じなくて良いのです。私を、死なせて下さい」
「……」
 いくら鬼殺隊の頂点たる実力者であるとしても、自身の過去を聞いて顔を歪めてしまうようなそれぞれが情に厚い人々であると見抜いていた。

「奉行所へ連絡して下さっても結構ですが、私はその前に海へ身投げをします。今の話を役人へ話して下さっても構いません。…親殺しの咎から逃れるつもりはありません。ただ、自分のことは自分で落とし前を付けたいだけなのです」
「……自分でカタを付けるったって、一体何をするつもりだ」
「手と足の爪を全て剥いだ上で、斧で腹を殴り割いて身投げでもしようと考えていますが…」
「──もうお止め下さい!!」

 声の源を皆が一斉に見る。そこではお館様の細君が、元より白い肌を青くさせていた。美しい真白の髪が揺らめいている。その華奢な身体を震わせて、さらに叫んだ。

「お願いッ!お願いです!!もうそんなこと、お願いですから、仰らないで下さい…!」
「……申し訳、ありません。口が過ぎました」
 泉は再び頭を垂れた。柱の女性一人が奥に走り寄り、その背中をさすってこちらに咎める視線を向けている。もうこれ以上は話すなということであろう、泉は口を噤んだ。


 すると、今の今まで沈黙を守っていたお館様が、ゆっくりとその口を開いた。

「──その命、私に預けてくれないかい」


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「──その命、私に預けてくれないかい」

 柱達は、再び片膝をついた。お館様は、その不思議な声と仕草で、人を高揚させることすら可能とする。この為に如何なる剣士も、最上級の敬意と共に[[rb:頭 > こうべ]]を垂れるのだ。

「今この瞬間から、君の中にいる君は消えて無くなったと思えばいい。…急なことだ、もちろん今はそうは思えないだろう」
「……」
「泉、顔を上げてくれるかい」
 泉は伏せていた顔を上げ、お館様を見て──その両目を唖然と見開いた。

「大丈夫、君は何も悪くないよ。悪いのは、君をそうさせてしまった大人たちなんだ」

 陶器のように滑らかなその頬には、音もなく静かに光る筋がツツ…と伝っている。

「君の咎を、私にも背負わせてくれないかい」

 聴いた者に安らぎを与える、心が落ち着くと共に不思議な高揚感が与えられる荘厳な声。涙袋に溜まった透明な[[rb:玻璃 > はり]]の粒が、瞬きと共にきらりと光って空気の中に弾き出される。

──耀哉は、見抜いていたのだ。泉がこの世界に生きる己の命に、価値を見出せないことを。


「……。何故、あなたのような他人が謝るんですか。何故、あなたのような善人が、泣くんですか」
「……」
「悪いに、決まっているではありませんか。実の父を、祖母を、この手で殺したのです。その上、咎の意識を抱けないような私が、悪くないはずがありません」
 泉の掠れ声が僅かに震える。理不尽な物言いをする耀哉に対しての怒りでもあり、死なせて貰えないことに対する怯えでもあった。

「あなたがこんなどろどろとしたものを背負う必要など、微塵もありません。私は、私自身の咎くらいは背負って、堂々とその足で地獄へ行きたいのです」
「お、お館様、この話はもう止めましょう。この少女は…」
「いいや、駄目だ。泉、続けていいよ」
「死ぬことは逃げかもしれません。逃げだとも思います。それでも、私はもう…これ以上、生きていたくない」
「例えそうだとしても、死んではいけない」

 キッパリと言い切ったお館様に些か不審に思ったのか、懐疑的な目をした泉が口を閉じる。

「私はね、まだそう長くは生きてはいないけれど…人は人である限り、咎を償うことができると思うんだ」
「……咎を、償う?」
「そう。君は、これからの人生を賭して贖罪することができる。自分自身の咎を真正面から受け止めて、自死を選んだ君の選択も、間違いではないのかもしれない。けれどね、泉…君にはまだ、生きることでその咎を償う道が残されているんだよ」
「……まさか、あなたは、私にまだ死んではならぬと、仰るのですか」
「そうだよ」
 酷なことだと、槇寿郎は思った。槇寿郎だけではなく、その場にいた全員の柱も同じ気持ちであった。事実、泉は死ぬことが許されないということに茫然自失と目を見開いている。

「確かに、君の咎を背負うことは私にはできない。でもね、君を支えて共に歩むことはできる」
「…そんなもの必要ありません。私を、死なせて下さい!!」
「誰であっても、この世に生を受けたのであれば、その命を粗末にしてはいけない」
「それが何故あなたに分かるのです!」

 泉も頑なとして譲らない。しかし、先見の明を以てして鬼殺隊を若くして纏め上げる長たる耀哉も、また誰よりも頑なであった。二人のやり取りを、柱と奥であるあまねもはらはらとした面持ちで見守った。


「聞きなさい、泉」私のこの両の目は、もうすぐに呪いによって見えなくなくなる。この焼けただれたような痕が両眼を覆い、数年もすれば全身を覆い尽くす。…私の一族はね、代々咎を背負って生きているんだ」
「ッ、お館様ッ!?お待ち下さい!」
「この少女は部外者です!!その話をする必要はないかと!!」
「いいや、この子は大丈夫だよ」
 一斉にいきり立つ柱に、お館様が片手でそっと静止する。その一挙一動で、一癖も二癖もありそうな実力者達を自在に操っている。その卓越した人心掌握術を改めて目の当たりにした泉は、臓物の内側を引っ掻かれたような不快感に、眉を顰めた。

──呪い。何とも現実味のない言葉である。
 しかし、この人物を目の前にした泉が、それを信じられないはずがなかった。何か言葉では言い表せぬ[[rb:気配 > もの]]が、確かにその身体を蝕んでいるということが分かるのだ。

「槇寿郎から説明は受けたかな?君が出会ったのは、鬼という生き物だ」
「……鬼?」
「そう、人ならざるものにして人を蹂躙する、元は人であった異形の生き物。鬼は人を喰らって成長する。日光以外では死なない不老不死の身体と、超人的な身体能力や怪力を合わせ持っている。人をより喰らった鬼の中には、妖術のような特異な能力を使える者もいるんだ。そして、その全ての元凶は──鬼舞辻無惨、鬼の始祖は、私たち産屋敷家の遠い祖先にあたるんだ」
「……」
 

「それにね、泉。私はこの鬼殺隊を指揮し、毎日毎週、毎月…毎年、何百何千もの隊士を死なせているんだ。それを言うなら、こうして生きている私とて咎人だよ」
「…それこそ、あなた自身の咎ではないでしょう。全てはその無惨とやらが悪い」
 決して同情でも何でもなく、泉の本心であった。まず、この鬼殺隊の長と泉とでは、根本的なものが違っている。泉はあくまでも自身の為に、父と祖母に手を掛けたのだ。

「どうやら、君は気配に敏感なようだね?」
「…はい」
「やはりそうなんだね。見ての通り、私は命がそう長くはないんだ。私だけではない、産屋敷家の家系の人間は皆短命だ。…つい数ヶ月前に生まれた私の子達も、生まれながらにして、その咎を背負わされている」
 それを聞いても、泉は大して驚きはしなかった。何となく、そのように感じ取っていた。この荘厳な人からは、生命力が非常に希薄なものしか感じ取ることが出来ないのである。

「……あなたのような善人へ、私の命が譲れたら良いのに」
「ッ、テメェ!!もう我慢ならねぇ!!お館様にそんな物言いするなんざ、一体どういうつもりだ!!」
「いいえ、これは私の本心です。きっと、私のような碌でもない人間は、碌でもない人間を見て育つんです。それなら、その輪廻を私は今この瞬間にも終わらせてしまいたい。だから、死なせて下さい」
 

「…君には、私がこの先を生きるべき人間に見えるのかい?」
「無論です。少なくとも、私以上には」
 泉には、お館様の目が僅かに潤んでいるように見えた。しかし、その頬には何も伝ってはいない。
 立ち上がったお館様が数歩前へと出て──日の下へ出る。その歩み止めようと柱達は慌てて騒めくが、そこを動くなと言わんばかりの耀哉の圧が伸し掛けられる。

 耀哉が、泉の目の前に跪く。泉は、至近距離で自分と目を合わせた人物のことが、お館様ではなく、ただの父親なのだと思えてならなかった。

「私に残されている時間は、非常に少ない」
「……」
「そう。だから、酷いことを言っているのは承知の上で、君に懇願する──君の命を、私へ預けてくれ。君の命を、私に使わせてくれ」
 

[newpage]


──悲鳴嶼行冥は、元来、優しい男である。

「……」

 お館様の懇願に、白玉砂利の地べたに正座をしたまま、少女は押し黙った。しんと水を打ったような静寂。動揺しても良いはずであるが、少女は身動ぎすらしようとしない。拳は膝の上で固く握り締められ、僅かな呼吸の音すら消している。その体躯は痩せ細ってはいるが、声の響き方や聞こえる位置、心臓音などから、少女の身長が同年代の女子と比べて高いことが伺えた。悲鳴嶼は目が見えない分、己の感覚に絶対の自信を持っている。
 自身の親殺しの咎を自覚し、死なせてくれと哀願する少女。しかしお館様は、その自ら消え行く火種を拾い上げようと試みている。炎柱は厄介な広いものをしたとさえ思えた。

 そして悲鳴嶼の盲の目は、その少女の中に果て知れぬ修羅を見た。

「……掃除炊事洗濯は一通り熟せます。体は何故か幼い頃から丈夫です。毎日荷を担がされていたので力はあります。字は読めますし書けますが、学はありません。自分の食事は家の裏山に生えている雑草や木の実、野生動物を狩って食べていましたし、これからもそれで構いません。寝床は地面が落ち着きます。薪割りは毎日しておりましたが、刀を振るったことはありません」

──悲鳴嶼行冥は、とある理由により子供が苦手である。
 かつては古寺で身寄りのない子供達を育て、貧しいながらも幸せに暮らしていた。自分は碌に食べずとも子供達に食べさせて、毎日毎日、身を粉にして働いていた。人を殴ったことはおろか、声を上げて子供を叱責することもなかった。繊細で馬鹿正直で、優し過ぎる程優しい、平凡な男であった。しかしそれは、あの悪夢のような夜までの話である。


「私などが、あなたのお役に立つか否かは分かり兼ねますが──どうぞ、お好きにお使い下さい」
 深々と下げられた綺麗な丸みを帯びた後頭部は、悲鳴嶼の掌に収まりそうな程に小さくて、頼り無い。

「…ありがとう」
「ですが、一つお約束させて下さい。いずれその鬼とやらを全て滅した時に、その時が来たらば──私を、死なせて」
 

「ごめんね、その約束は私にはできないよ。けれど──その時の君の心に、私は必ず従うとここに誓うよ。ここにいる柱全員とあまねが証人だ」

 泉は、こくりと頷いた。一粒だけ、ぽろりと涙の玉が零れ落ちる。

 晩夏の日、異例の柱合会議は解散となった。



──嘴平泉。その少女を育手の元へと送るか否か。慎重な議論の末に、まずは三月程は育手へは送らず、鬼殺隊にて様子を伺うことに決定が下された。そして、柱の元でその言動を監査すべきという結論に至った。
 そして議題は専ら、少女をこの九人の中の誰の元へ身柄預かりとするのかという話で持ち切りであった。

「私の屋敷で受け入れても良いが…正直、恐らく水の呼吸はあの少女には合わない。あの華奢な見た目を裏切るかの如く、脚力や腕力が非常に強靭なようだ」
「確かに、年の割にかなり上背はあったな」
「痩せ細ってはいたが、あれは鍛え上げれば良い筋肉が付きそうですね」
 その剛力で知られる炎柱は、既に息子の鍛錬に力を注いでいる。悲鳴嶼は一息を吐くと、その重たい口を開いた。

「…私が見ましょう」
「!!」

 皆が一斉に悲鳴嶼を見遣る。

「岩柱殿、大丈夫か?これから任務が重なっていただろう。それに…あんまりこうは言いたかないが、あの生い立ちだぞ」
「構わない。彼女には課題を与えておくし、それに…」
 
「──恐らく、中々手に負えないだろう」
 
「だが、貴殿程の人物が見てくれるのであれば安心だ」
「…直近の遠出の任務について、俺と変われないかどうか、俺の方からお館様に打診しておこう」
「助かります」


「──あの少女は、強い」
 炎柱・煉獄槇寿郎に他の柱の視線が集まる。

「厄介な血鬼術を使う鬼を、ただの木斧で圧倒していた。全集中の呼吸は既に扱えており、完璧に物にしている」
「な、何だと!?」
「…普段から、腹に渦巻く憎悪をどうにか抑え込む為に、深呼吸をしていたと言っていた。それが鬼を目の前にしたことによって、自ずと全集中の呼吸に繋がったのであろう」
 

「私の岩の呼吸は、あの体格の彼女には合わないかもしれないが…その派生ができるやもしれない」

 こうして──鬼殺隊随一の訳有り問題児、嘴平泉の引き取り先が決まったのである。




「私は悲鳴嶼行冥という。…君の身柄は、私の屋敷で預かることとなった」
「……嘴平泉と申します。ご迷惑をお掛け致します」
 泉は身体を折って頭を下げた。悲鳴嶼は、身長が八尺以上もある巨躯に、。

「私の岩屋敷は山の奥にある。少し遠いが…歩けるか」
「はい、大丈夫です」
「ついて来なさい」

 屋敷へ向かう道中、二人は一言たりとも何も話をしなかった。しかし、お互いがお互いのことを観察し合っていた。泉から警戒心をそのまま詰め込んだような視線を向けられても、悲鳴嶼は何も言わなかった。町の喧騒、遥か彼方まで広がる田畑、橋の掛かっていない巨大な河川、情景が次々と変化する。このような速度で走ったことは一度もなかったが、泉は改めて自分の体の軽さを実感した。
 一方、悲鳴嶼は泉の身体能力の高さに内心驚愕していた。生茂る木々の隙間を走り抜けても、足を掛ける[[rb:歪 > ひずみ]]すら無い険しい岩山を越えても、泉は悲鳴嶼の後を決して二馬身以上離れることなく付いて行ったのだ。泉に合わせて少し速度を落としていたとは言えども、加えて雨降りという悪条件の中であった為、悲鳴嶼は泉の身体能力は高く評価せざるを得ないと頭に刻んだ。つまり──問題は、精神面だ。

「……!!」

 雰囲気が変わったと、泉は直感した。そして、同時に雨が上がった。
 鼻腔に流れ込んでくる澄んだ空気。巨大な苔生した樹林が互いに折り重なり、鬱蒼と生い茂っている。樹皮や木の芽がむんむんと香る。同時に、突風に吹かれて落ち葉が湿ったようなツンと鼻に沁みる、濃密な雨を纏う草木の匂い。そして、青々とした草原の匂いと、気持ちを落ち着かせるようなふんわりとした花の匂い。
 雨に洗われた芝生が、降り注ぐ日差しの中で目が覚めるように鮮やかに光る。一陣の風に雑草がいっせいに葉裏を見せ、濃い緑一色の草の海が一斉に鈍く銀色に輝く。広い湖の縁には緑色の雑草が生い茂り、周囲には立派な樹木が数多く囲い込むようにして生えている。

 湖の辺りに沿って、歩く。音がどんどんと近付いてくる。木々が開けた場所で、ピタリとその足を止めた。

「──滝」
 轟々と唸る。岩場から滝壺に落下した大量の水が、純白の水煙を巻き上げている。

「…鬼を狩る技術を身に付ける為、君はこれから修行を行う。滝行も、その一貫になる」
「滝、行?」
「この滝から落ちる水に打たれて精神統一をするのだ」

 大地の力を全身に感じる。その美しさに、泉は呆然と見惚れた。

「…気に入ったのか」
「……はい」
 この剛の水の中で、塵屑となって消え失せてしまいたい。

「来なさい。屋敷の中の説明と、君の部屋へ案内する」
「…私の、部屋ですか?」
「ああ」
「……」
 悲鳴嶼が非常に強者であるということに、泉は気が付いていた。そして、その強者が自分の身柄預かりを引き受けた理由が──自分をいつでも殺すことが出来る為であるということも。

「君は何故、この話を受けたのだ」
「?」

 
「鬼なんぞよりも、私は──生きている人間の方が恐ろしく思えてならないのです」
 そういう泉の心情を、悲鳴嶼は恐ろしい程に理解できた。鬼とてそうではあるが、時に最も剛なるものは人間である。

「海に身を投げる他にも、選択肢はあったはずであろう」
「…死ぬこと以外は、頭にはありませんでした」

「……私は、元死刑囚だ」
「!!」

 何故、この少女に打ち明けたのだろう。悲鳴嶼は自分自身でも分からなかった。

「ですが、あなたからはそのような気配はしませんが」
「……そうだろうか。私はこの命、とうの昔にお館様に預けた」

 悲鳴嶼は見抜いていた。泉が、この世界に生きる己の命に、既に価値を見出せないということを。耀哉に預けたとは言えども、泉はその命などどうにでも扱えるのだ。そこまでの忠誠心は、未だ泉の中で育まれるには至っていない。

「……あなたは、死に場所を探しているのですか」
「いや、私は既に探し当てたのだ。私は──鬼舞辻無惨と相打ちになって死なねばならぬ」
 その盲の目に、この人の確かな覚悟を見た。

「鬼舞辻は強い。私たち鬼殺隊の柱が束になっても、敵うか否かは分からない」
「…確か、鬼の首魁の名ですか」
「そうだ。私たち鬼殺隊は、鬼舞辻を倒して鬼を根絶する為に日々を生かされている」

──生かされている。その独特の言い回しに、泉はゆっくりと瞬きをした。
 悲鳴嶼は、泉に生きることを決して強要しない。それは、悲鳴嶼自身も生に執着していない所以である。自分の命など惜しくはない。かたや男性と少女、かたや柱と問題児、二人の立場や状況こそ全く違うものの、悲鳴嶼は泉の心の内を非常に理解していた。

「君がお館様へ預けたその命…その中で君がどう生きたいのかを、ここで静かにゆっくりと探すと良い。私は盲の身だ、不便を掛けることもあろうと思うが」
「…こちらこそ、これからお世話になります」
 畳に三つ指を付き深々と頭を下げる泉を、悲鳴嶼はその胸中を推し量らんとばかりに、その白豪でジッと見つめた。
──こうして、鬼殺隊最強戦力岩柱と訳有り問題児との、奇妙な共同生活の幕が開けた。


- 続 -


嘴平 泉
死んだ魚の目の少女。口癖「死なせて下さい」それが一体どう変化していくか、乞うご期待。お気に入りの場所が出来た=滝

悲鳴嶼行冥
岩柱就任直後。主人公に憐憫の情を抱いている。全てはこの方の手腕に掛かっている。柱就任直後にとてつもない胃痛ポジだがそこは岩柱様様です。

産屋敷耀哉

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春風