鬼滅の刃 - 春風
悪夢

──私は、碌でもない人間だ。

母は、温和な優しい女であった。楚々とした可憐な顔立ちに烏の濡れ羽色の滑らかな黒髪、嫋やかな曲線を描く身体、はっと目を惹く美人であったと身内ながら贔屓目無しに思う。のんびりとした話し口調も、穏やかで女性らしい。しかし、非常に気が弱くて、頭の回転がさして良くない女でもあった。

「泉は可愛いねぇ、賢いねぇ」

母は、私を愛してくれた。
満面の笑みで幼い私を胸に抱いて、私によく頬擦りをした。私はそんな母の真似をして、次第に言葉を覚えた。歩くことを覚えた。母はそんな私の成長を何よりも嬉しそうに見守り、凄いねぇ!と手を叩いて喜んで頬擦りをし、そうして次新しいことが出来ればやはり、いい子だねぇ!と大袈裟なくらい褒め称えてまた頬擦りをした。そうして私は、物心が付いた頃には母の家事を自ら手伝いもするようになり、多くのことを母から学んだ。


しかし、その母は──幸せとは到底言い難い生活を、家庭の中で送っていた。

「テメェ、出来損ないの癖に俺に口答えする気かァ!!この役立たずが!!」
「キャアアア!!止めてッ、止めてぇ!!ごめんなさい、ごめんなさいぃ…!!」
硬く握られた父の拳が、母の頬に勢い良く打ち当たる。そのまま母の射干玉ぬばたまの髪がぐしゃりと乱暴に鷲掴みにされ、畳の上を引き摺り回される。そんな暴虐の限りを尽くす父に、母はその華奢な体で歯を懸命に食いしばって必死に堪えていた。

「全く、鈍臭い嫁だねぇ。さっさと夕餉の支度をし!!味付けも教えた通りにやるんだよ!!」
「も、申し訳ありません…!」
そんな母を横目に、祖母は唇を歪めて意地悪く嘲笑う。母はそんな祖母の嫁いびりにも、目にグッと力を入れて、今にも零れ落ちそうになる涙を堪えていた。

男子ではなく女子──つまり私を産んだことで、父と姑は母のことを随分と詰ったらしい。母の腕に抱かれた生まれたばかりの私を見るなり、父は苛立たしげに舌打ちをしたのだと、口元を歪に捻り上げながら嬉々とした祖母がご丁寧なことに態々私へと耳打ちしたのだ。現に、私の名前は母一人から名付けられたものである。凍て付く冷気が、鋭利な針の切っ先となって着物の掛襟や裾から柔肌に突き刺さる、そんな大寒の日であったらしい。母は、必死で私を守り、育ててくれた。

未だ男尊女卑が根強く残るこの大正時代、女子を産んだ母が疎まれることは良くあることであった。それでも、母の置かれた状況はどの家庭と比較しても芳しいものではなかった。
毎日浴びるように酒を呑み、何かしら気に食わないことがあれば家庭内暴力を振るう父と、四六時中陰湿な嫁いびりをする祖母。母は体のあちこちに切り傷や青痣をこさえ、手のあかぎれがどんどんと酷くなった。目元には目立つクマが出来て、元より色の白い肌は病的なまでに青白くなり、肉体的にも精神的にも見るからに憔悴していった。
私は、それを見ても何もすることができなかった。この時の私は、何の力も持たない、社会的弱者でしかなかったのだ。


「ほら、動いたでしょう?泉はお姉ちゃんになるのよ」
「……お姉、ちゃん」
「そう、お姉ちゃん。嬉しいねぇ」
そんな中、母の腹が再び大きくなり──穏やかな春の陽気に包まれた日、私に弟が産まれた。遅咲きの山桜が、雲ひとつなく晴れ上がった天高い青空を背景に、時折風に巻き上げられて花弁を散らせていた。弟は伊之助と名付けられた。
男子が産まれたことで、母と父と姑の仲は改善されるかと思ったが、そう上手くはいかなかった。父は相変わらず酒浸りで母に暴力の限りを尽くし、祖母は気に食わないことがあれば気が狂ったかのように怒鳴り散らす。茶碗や湯呑みなどの陶器が部屋の中を縦横無尽に飛び交い、飛び散った破片が私たちの柔らかい肌に突き刺さる。私はその度に泣き喚く伊之助を抱き上げて腕の中へ庇い、家の外へ逃げなければならなかった。

「伊之助、大丈夫だからね。私が守ってあげるからね」
わんわんと声を上げて泣く伊之助の背中をぽんぽんと軽く叩いて左右にゆっくりと揺らす。伊之助は次第に長い睫毛を伏せ、口の端から私の胸へ涎を垂れ流し、くうくうと寝息を立て始めた。伊之助が完全に寝付いた頃、家の中の喧騒が収まり、頬を腫らして唇を切らした母が裏口から出て来た。

「泉、伊之助、ごめんね…」
「…ねぇ、母さん。母さんは何でここから逃げないの?」

そんな私の疑問に、母はその弓なりの眉を下げて、弟の伊之助をあやしつつ私の頭をそっと撫でた。その手が震えていたことに、幼い私は気が付くことができなかったのである。
──今思えば、それはとんでもなく残酷な問いであった。母は、私たちを生かす為に、そこに留まるしかなかったのだから。

*****
しかし、そんな母にとうとう転機が訪れた。
私が、隣町へ祖母の使いで出掛けていて、帰宅した時のことである。
──目の前に広がる惨状に、私は思わず言葉を失った。

「……父さん。母さんは、どうしたの?」
陶器の破片が散らばった土間。火鉢と行灯が倒れて畳を焦がしている。畳に這い蹲った状態で呻き声を上げる父は、右手から血を流していた。目を凝らして見てみると、そこには歯型がくっきりと付いていた。何かの動物に噛まれたのかとも思ったが、そうではないことが直ぐに分かった。
母が、いない。

「ッ、あのクソ女!!伊之助を連れて出て行きやがった!!アイツ、俺の手に噛み付きやがって…碌でもねぇ女だ!!」

──母さんが、出て行った。

私は、瞠目した。目の前が真っ暗になる。
遂に母は、父と祖母の二人の悪意に晒され続けた末に、外の世界へと救いを求め、まだ赤子である弟の伊之助を抱えて命からがらに逃げて行ったのだ。後に近所の人の噂を耳にしたところによると、その時の母の頬は、見るに耐えない程に赤く腫れ上がっていたという。

この時の私は、齢にして四歳である。自分がこの劣悪な環境の中に置いていかれたという状況には当然気が付いていたが、それに対して私は何も感じなかった。ただ、私は母に置いていかれたのだという事実だけが、重く肩にのしかかって来る。心の中の何処かに、ぽっかりと大きな穴が開いたような気がした。

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春風