とある訓練兵Aについての周囲の考察 - 春風
要警戒対象人物

「貴様は何者だ!」


通過儀礼と称されるそれは、元調査兵団長であるキース教官に出身地と名前、何をしに此処へやって来たのかを一人一人に向かってそれぞれ怒鳴られながら質問がなされ、言葉による挫折を味わわせられるものである。後で知った話だと、教官は兵士一人一人の面構えを見て判断をしているらしい。
凡そ200人にも及ぶ訓練兵の殆どがその洗礼を受ける為に、通過儀礼はかなり長時間に渡る。最初の1列目の際には緊張をしていたとしても、時間が経つにつれて集中力が落ちて来るのが必然的であり、既に通過儀礼を終えた兵士は安心感から、未だ終えていない兵士は緊張感から、要するに訓練兵等の殆どが他人の通過儀礼の内容にまで耳を傾けていられなくなるのだ。

しかし。


「何故貴様は心臓を捧げない!貴様、心臓を捧げよ!捧げよと言っているのが聞こえんのか!」
「………」


列の中央程でありそれぞれが集中力が切れ掛けているにも関わらず、その女は注目を集めた。
その女は、ゴロツキも真っ青になる程に険悪な顔をした教官を目の前にして、右手の拳で左胸を叩くという公に心臓を捧げる意味を持つ敬礼をしなかったのだった。更に、教官の怒鳴り声を無視するというオプション付きで。教官はその兵士の態度に、ピキリと額に青筋を浮かべた。


「貴様…良い度胸をしているな……。オイ!貴様は何者だ!」


その女は口を開かないかと思われた。しかしである。


「……トロスト区出身、ラン・シノノメです」
「…ッ!?」


決してその名前を聞いて驚いた訳ではない。ただその声に、背筋にゾクリと寒気が走ったのだ。
…何なんだ、この感覚は。その声はただ名前を言っただけだと言うのに、何故。化け物を目の前にしたかのような、本能的に背筋に走るこの緊張感は、一体何なんだ。

皆が一斉に、その声のした方向へと意識を集中させる。決して大きくはない筈のその女の声は、まるで土へと浴びせられた水のように訓練場全体に浸透したのだった。
皆の視線の先、俺の位置から言うと左斜め前には、教官と対峙している分厚い眼鏡を掛けた長い黒髪の女がいた。どうやらあの女が、その声の主らしい。


「…ラン・シノノメ、貴様は何をしに此処へ来た」
「………」


教官が、心なしか動揺したように、ゆっくりと静かに声を紡ぐ。
その直後、その女の返答に対し、俺達皆は絶句することとなったのだ。


「…生きる意味を、見付ける為です。私は自分の心臓を公へと捧げるつもりは、毛頭ありません」
「「「………」」」

淡々とした口調でそう告げるその女に、周囲に戦慄が走る。その姿は、まるで感情を持たない人形のように、酷く無機質なものであったのだ。自分背筋を冷や汗が一筋伝うのが分かった。


「…貴様、ふざけているのか」
「……いいえ」
「であれば、今すぐにその生温い考えを改めろ。でなければ、貴様は兵士になどなれやしない」
「………」


静かにそう言った教官は、ラン・シノノメの前を立ち去ったのだった。

その後にサシャの例の芋事件があってその印象が強過ぎたからか、大抵の奴等はラン・シノノメの通過儀礼でのことを覚えていない。だが俺は、あの時の様子と自身に与えられた衝撃とを、今でも鮮明に覚えている。忘れることなんて、出来やしない。
ラン・シノノメは、いずれ俺達の敵になる。漠然とではあるが、そう感じた。

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春風