王様と猫 - 春風
慮外千万な逢着

鍵を差し込んで玄関の扉を開くとそこには、いつもの今朝のままの光景が広がっていた。少し前までは見慣れないと思っていたはずの、かなり狭くて簡素な家具しかない部屋だけど、住めば都だなんて昔の故人は上手いことを言うものだと思う。

適当に洋服を洗濯機に放り込んで鞄を引っ掛けると、着古し過ぎてかなり草臥れたTシャツとハーフパンツに着替える。そしていつもの回転式の椅子と言う名の定位置に座ってパソコンを起動させ、迷わずにチャットを操作して開いた。


『…お、帰ったんや。おかえり』
「ただいま。光、遅くなってごめん」

パソコンの画面には、音楽の趣味で意気投合した大阪に住む光が映っていた。神奈川と大阪と距離的には遠くて、まだ一度も面と向かって顔を合わせたことはないけれど、画面越しに見える首に掛けられた大きな黒いヘッドホンも、これまた随分と見慣れたものだ。


『予約してたCD取りに行ってたんやっけ。どないやったん?』
「うん、今日は…」

何を話すべきか、何から話すべきか。先程受け取ったCDをリリースした自分の推しの海外アーティストの話をすべきか。
けれどやはり今日はまず、この話しをすべきだろう。


「──電車に乗れない似非外人高飛車男に遭遇した」
『何やソレ詳しく』

思いの外食い付きが良いことにちょっと嬉しくなって、自分の口の端が少しだけ上がるのが分かった。


**********

今朝の出来事の一部始終を事細か説明すると、光はゲラゲラと大爆笑をした。普段素でクールを貫き通す、大阪人の割に冷めきっている彼にしては、随分と珍しい。


『あー…久々にめっちゃ笑った…。今どきそんな都会にそんな人間おるとか、ホンマウケる』
「まぁ都会って言っても、私の家の最寄りはかなり田舎だけどね」
『でも地区的には湘南やねんから、それなりにちゃんとしたとこやん』
「湘南って言ったってピンキリだよ。私のアパートだって、駅近なのはいいけどかなりオンボロだし…。まぁ、お陰で家賃が安くて助かってるけど」

そう言うなり、ぐるりと部屋全体を見渡した。何の変哲もない、1LDKの六畳一間。風呂トイレは一応完備。最初こそ色々と慣れないことが多々あったけれど、一人で暮らす分には特に不便を感じたことはない。


『…にしても、蘭の部屋って無機質すぎへん?こっちから白い壁しか見えへんのやけど』
「特に飾り立てる必要性を感じないんだよね。誰が見るわけでもないし」
『ふーん。俺の姉貴の部屋とはえらい違いやわ』
「普通の女の人はもっときちんとしてるんだと思うよ」
『ま、蘭は蘭やし、自分がそれでええんならこのままでええってことやろ』
「…ありがとうね」

時々光は、サラリとこうも優しいことを言ってくれる。変に肩に力を入れないで過ごすことができるから、彼との会話はとても居心地が良いのだ。


「そっちは相変わらず?」
『おん、相変わらずやわ。先輩らが毎日ホンマうるさい』
「昨日もブログ見たよ。光にそこまで言わせる人たちなんて、私としてはちょっと気になるけどね」
『気にせんでええ、あんな人らただの騒音や』
「せめて有機物に例えなよ」


お互いにクスクスと笑い合い、それからは身の回りの下らない話や、とあるインディーズバンドの新曲や動画サイトの話で盛り上がる。気が付けば、時間は既に夜の11時を回ろうとしていた。


「わ、もうこんな時間だ」
『今日もあっとゆう間やったな。ほな、また明日。おやすみ』
「うん、また明日ね。おやすみ」

こうした光とのチャットは、週に数回のペースでかなり頻繁に行われている。
学校生活においても、大した刺激のない毎日を過ごす私にとっては、彼との会話は今や生活の一部になっている。


「……」

あの似非外人な高飛車男とはもう会うこともないだろう。一応連絡先の強制的交換はされたけれど、正直、これから連絡を取るなんて面倒なことはしたくない。それに、あの男だって、私のことなんかきっとそのうち忘れるだろう。


「…テニス、か」

──あの高飛車男も、確か大きなテニスバックを背負っていた。


そう言えば光もテニス部に所属しているようだし、何だかんだ不思議な縁があるのかもしれない。

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春風