Agapanthus
彼女に溶け込むチョコレートに
「バレンタインネイル?」
「うん。バレンタインをイメージしてネイルアートをするんだよ」
雑誌でバレンタインネイルの特集が組まれていて、彼が私の隣で興味深そうにそれを読んでいた。
「……これはチョコレート?」
「そう! チョコレートのパーツもあるみたい。可愛いよね」
彼の大好きなチョコレート。彼の好きなものが私の一部になったら彼は喜ぶだろうか。よく男性は女性がするネイルの良さがわからないと言うが、彼は興味津々だ。
彼の職業柄、曲のコンセプトやライブによってはネイルをするだろう。しかし、彼がよくするのはワンカラーだったり細かいラメだったり、至ってシンプルなものだ。ネイルにもこんなものがあると心の底から関心を持っているようだった。
「……バレンタインネイルがあるってことは、チョコレートのネイルもあるってこと?」
「あ、そうだね? さっきみたいなチョコレートのパーツを使うとか、ブラウンで統一するとかじゃないかな?」
「ふぅん。美味しそうだね」
「たしかに」
美味しそうと率直な感想を呟く彼が可愛らしくて、笑みが溢れる。
彼の好きなチョコレートを指につければ、彼に喜んでもらえるかもしれない。そんな軽い気持ちだった。
「みて、凪砂くん。この間話してたチョコレートネイルだよ。このチョコレートをイメージして仕上げてもらったの」
実際には食べれないということもあり、がっかりさせてしまうのではないかと思った私は、せめて本物のチョコレートを、と渡すことにした。
私が渡したチョコレートよりも興味深そうにネイルをじっと見つめる彼が可笑しくて吹き出してしまう。
「そんなにすごい?」
「……うん。とても」
シンプルなネイルしか知らない彼にはただでさえ物珍しいだろう。さらには好きなチョコレートが乗っているんだからここまで関心を示すのも仕方ない。
「触ってもいい?」
「もちろん」
私の指に触れて、不思議そうにその形を象るように指先でネイルを撫でてた。その様子が可愛らしくて心の中は温かいもので満たされる。彼のためにネイルをしてよかった。
「かわいいね」
「でしょう?」
へらっと笑う私を他所に、未だ私のネイルを見る彼がパッと顔を上げた。不意に視線が合って緊張感が走る。彼の怖くも綺麗な顔が近づいて、私の耳元に顔を寄せた。どうしたんだろうと思う暇もなく、彼が囁いた。
「……ナマエちゃんを食べてしまいたいくらいに」
ボンっと音を立てて顔が赤くなるのがわかる。目を見開いて固まっている私の頭の中は真っ白だ。
「な、凪砂、くん?」
「チョコレートの装飾が施されているネイルはとても綺麗だけど、食べれないのはもったいないね。私が君ごと食べてしまえばいいのかな?」
驚く私を置いて淡々とそう言いながら納得する彼に何も言い返せない。彼の飛躍した発想はさすがと言うべきか、それでも彼は真剣に話しているので大真面目に語っているのだろう。彼なら本当に指をパクりと咥えかねない。
ふっと耳元で微笑んだ彼が離れて再びネイルへと視線を落とす。ネイルに優しくキスを落として、私を見上げる彼。今から食べると言っているように何度も唇で催促される。
「な、凪砂くん。食べちゃダメ。絶対に。チョコレートを、食べて」
「……どうして?」
「そ、そんな顔してもだめ!」
眉を下げて懇願する表情をしてくる。私がその表情に弱いことを彼は知っているので、恐らくわざとだろう。負けじと引き下がらないでいると、諦めたのか、触れていた唇が離れた。
「じゃあ――。こっちはどう?」
「――ッッ!」
『こっち』と言って指を滑らせたのは私の唇だった。それはつまり、私の唇に触れたいということ。
「だ、だめじゃ……ないけど」
徐々に弱々しくなる私の声に反して、彼の表情は明るくなっていく。口角を上げて微笑んだ彼は、いつもの柔らかい表情とは違う、熱を帯びた表情だ。獲物を決して逃さないような。
彼の表情のせいで心臓はうるさく響いて仕方なかった。ドンドンと近づくその音はまさしく私が出している。彼に聴こえているんじゃないか、聴こえても不都合はないけれど、気づかれていては恥ずかしくてどうにかなりそうだ。
チュッと口付けた彼が「もう一回」と言わんばかりに何度もキスを落とす。せがむような唇に、どうすれば正解なのかわからない。
息苦しさを抑えられずに酸素を求めて口を開ける。と、同時に待っていたかのように彼が激しく私にキスをする。いや、これはまさに食べられている。何度も角度を変えてキスの雨が降る。
キスをするたびに私の首元を滑る彼の指のせいで全身が泡立ちそうになる。それでもこの感覚がどうしても好きだ。
彼が満足したのか、私が息苦しさを訴えたのが伝わったのか。名残惜しそうに唇は離れる。チョコレートのように溶け合いそうな熱い視線。彼の恍惚とした表情を見ると、私の熱もまだあがっていくようだった。彼にもっとキスをされたい。
「……これは味見だよ。まだ食べていないから」
これで味見なんて、これ以上のキスをされてしまったら私は本当に食べられてしまうのかもしれない。そんな頭の中では警報が激しく鳴っていても、どう足掻いても彼を求めていた。