スンっと嗅ぐと恍惚とするような甘美な香りが鼻に抜ける。
それはまるで彼女のようで、私を狂わせる。
「……ねえ。君は好き? 薔薇の花」
「うーん。そうだね。特に赤い薔薇は凪砂くんみたいで」
「私?」
「うん。花びらが重なり合っている気高さとか印象的な赤い色は印象的で、何だか凪砂くんを表してるみたいじゃない?」
「……そう」
その言葉から、彼女の思う私へのイメージがわかる気がした。私に対して熱烈な印象を抱いてくれているようだ。素直に嬉しい、と思うのは彼女の口から出てくる言葉だからだろう。
私は彼女は薔薇の花のようだと思っているのだから、『似た者同士』というのはこういうことを言うのだろうか。
彼女への愛は行動で伝えることができていても、言葉にすることが大切なことは自らの体験からもわかる。彼女から貰う愛の言葉は私の心を溶かしてくれるから。
そうわかってはいるものの、彼女への愛を囁こうとすれど、どんな言葉が最適かが今の私にはまだわからない。ただ愛を言葉で表現しても彼女へ伝わるかが不安で、それが彼女にとって十分な愛なのかが明確ではないことが不安だ。
それに、彼女への愛は溢れて止まらず、加速するばかりだ。彼女への膨らむ温かい気持ちは『愛してる』という一言だけでは片づけることができない気がするから。
自宅へと帰る途中、街道を歩いていると見慣れない光景が目に入った。春は花が咲く季節のようで、街全体を色彩豊かにしつらえていた。『フラワーフェス』と呼ばれる街の行事が行われているようで、いつもより空気が軽く、街全体の雰囲気も明るいような気がした。
華やかな町並みは街のひとを咲かせるような笑顔にしているようだった。
その雰囲気に当てられた私は、彼女にもこの光景を見せたいと思い、いくつか写真を撮った。
花に囲まれる道を歩いていると、無意識に花屋の前で足を止めていた。ふと、今の感動を共有したいと思った私は彼女に花を贈ろうと思い立った。
店の中は鼻に抜けるような花の香りが充満していた。そんな色とりどりの花の中で目に留まったのは一輪の立派な薔薇。細くも力強い茎から咲く色鮮やかな深紅。その情熱的な色はまるで彼女のようで胸が熱くなるのを感じた。
「どなたかへのプレゼントですか?」
店主らしき女性が私に声をかけた。私が真剣な眼差しで薔薇を見ているのが気になった様子だ。
「……彼女への」
そう呟くと、感嘆の声を上げていた。
「素敵ですね。薔薇は愛に関係する花言葉がたくさんあるんです。想いを伝えるのに薔薇を贈るひとも少なくないんですよ」
「『想い』……」
彼女への想い。長い間引っかかっていた私の疑問が解かれるようだった。花言葉に乗せて彼女への愛を贈るのもいい。
「――本だと、『この世界は二人だけ』なんてロマンチックな花言葉になるんです」
『この世界は二人だけ』。
それは彼女との日常を表しているような意味。彼女と共にいる時間は周囲の時がゆっくりと流れ、私たち二人だけが進んでいるような。そんな不思議な感覚。
彼女へこの胸が焦がれるような熱のある想いを伝えるのにちょうどいい。
「……それじゃあ、この薔薇を――本ください」
彼女はどんな反応を見せてくれるだろうか。驚いて涙を見せるのか、それとも嬉しくて恥じらうのか。いずれの反応を見せても心が温かくなるような気がした。
「ただいま」
「おかえり凪砂くん――て、どうしたの? そのお花」
綺麗な宝石よりも輝く彼女の瞳。ワクワクと動揺を隠せないような童心に返るような表情。愛らしい反応に私は既に満たされる。
「ナマエちゃんによく似合うと思って」
驚いたかと思えば、はぁっとため息を溢す。何か困るようなことをしてしまったのだろうか。胸の奥が重くなる感覚。彼女にとっては主にだったのかもしれない。
「……ごめんね。私、何か嫌なことをした?」
「えっ! いや、違うの。この溜息は凪砂くんにうっとりとしたというか、凪砂くんの魅力にやられてしまったというか……」
「私?」
私の頭の中には存在していなかった答えだった。薔薇にではなく私への溜息だったようだ。それも、よい意味での。
「……やっぱり凪砂くんと薔薇って似合いすぎだよ。凪砂くんが持ってるだけでくらくらしちゃう」
眉間に皺を刻みながら葛藤する彼女。やはり彼女は私に新しい感情を教えてくれる。
「ふふ、可愛いね」
「……凪砂くん、呑気だよ」
「そうかな?」
「そうだよ……」
口を尖らせて睨む彼女は全く敵意が見えない。これは知っている。彼女の照れ隠し。そう考えると重かった胸の奥はいつの間にか軽くなっていて、温かい気持ちで溢れている。そう悟ったと同時に私の頬は緩んでいることに気づいた。
「どうして笑うの」
「ふふ」
不機嫌そうに聞こえるその言葉は実は喜んでいるというのが見て取れる。頬をこの真っ赤な薔薇のように染めながら目を逸らす。一見ツンとした印象のある薔薇と重なる。
やはり私は言葉より先に体が自然と動いてしまうみたいだ。彼女を前にすると彼女に触れたい、彼女を愛でたい。彼女に浸りたい。そして、彼女に酔いしれたい。そんな胸を焦がすかのような熱い気持ちが先走る。
彼女の火照る頬に指を滑らせる。小動物のように縮こまりながら目を瞑って小刻みに震える彼女は私にとっては『格好の餌食』と言ってもいいだろう。それでも彼女を食べたいというわけではなく、私の手の中でただ幸せでいて欲しい。そう願うばかりだ。
抑えられない気持ちを堪えるように、優しく触れるだけのキスを落とす。
彼女は軽いその唇の感覚に驚いたのか、大きな丸い瞳が現れた。彼女が私の名を呼ぶ。何か言う前に再び唇で塞ぐ。今度は少しだけ長く。
驚きのあまり瞼を閉じていない彼女をしっかり捉える。それは潤んでいて、彼女の見ている私も見える。今の彼女の中に映るのは私だけ。まるで彼女の世界に私が入り込んでいるよう。
今の彼女は私で頭がいっぱいのはずだ。
そう考えるうちに、彼女の中に入りたいとさえ思えてくる。彼女の世界に入り込むように、距離を近づける。彼女の中を拓くように、閉じている唇を舌で撫でた。すると、仰け反ったと同時に隙間が生まれた。それを逃さずに彼女の柔らかい唇を甘く噛む。
これでは本当に獣のようだ。それでも、自ら湧き出る情欲を抑えられずに何度も何度も、彼女を貪る。
繰り返すうちに限界だと言いたげな彼女が私の胸元を強く押した。そんな彼女の抵抗によって我に返る。
「はっ、はあ。薔薇。枯れちゃうから。早く水に浸けてあげないと」
「……うん。そうだね」
彼女のそそくさとした動きで現実に引き戻されたように感じた。それでも、耳まで赤い彼女を見ると、多幸感が押し寄せた。
「そういえば、今日って何かの記念日だっけ……?」
「……『何でもない日』というのもいいね」
私の突拍子のない言葉に対して頭上に疑問を浮かべる彼女が愛らしい。
「ふふ、薔薇には色とは別に本数でも花言葉があるようなんだ。二本だと――」
耳元に口を近づけて彼女にだけ聞こえるように呟く。
「『この世界は、二人だけ』」
ぽんっと音を立てて顔を赤らめる彼女。
二人だけの世界に浸るように、彼女を引き寄せて私の腕の中に閉じ込める。彼女の首元に鼻を寄せると狂おしいほどの甘美な香りが鼻に抜ける。
どんな花よりも魅力的で酔うほどの彼女だけの香り。