「今日はメイドの日だね」
恐らくこういう世俗に寄りすぎた話題はさすがの彼も知らないだろう。
「メイド……?」
私が何かを言う前に、彼は深く考え込み、ハッと閃いた表情を浮かべた。
「もしかして、『5月』の『May』と数字の『10』の語呂合わせかな?」
「正解! さすが凪砂くんだね」
「……ふふ、君と一緒にいると新たな知識を得ることができて嬉しいよ」
私が褒めたからか、得意げな表情でそう呟いた彼は喉の奥で含み笑いを漏らして喜んでいた。その話題はそこで終わるはずだった。
「……その話題をあげるということは、もしかして今日は君がメイドさんになってくれるのかな? それとも、私がメイドさんになってみようか」
「へ……?」
『メイドの日』だからとメイドの格好をして彼を驚かせようと考えたこともあったが、それ以上に恥ずかしさが優ってしまい注文確定を押すことなく終えてしまっていた。ただ話題の一つとして振っただけが、彼を変に期待させてしまったかもしれない。
「じゃ、じゃあせっかくだから、凪砂くんにメイドさんになってもらおう、かな……」
焦りから頭の中がぐちゃぐちゃに掻き乱され、私の口からは無意識にとんでもない言葉が出ていた。気づいた時には既に手遅れだった。
彼の顔を見上げると真剣な表情で私をじっと見つめていた。
「な、凪砂くん……?」
私の問いかけに間髪入れずに立ち上がった彼に、体が小さく跳ねた。目の前に立った彼は胸に手を当ててお辞儀をした。
「……『おかえりなさいませ、ご主人様。お疲れでしょう。どうぞゆっくりおくつろぎくださいませ』 こんな感じでどう?」
無駄のない動きに、思わず感嘆の息が漏れる。セリフも所作もメイドを演じている。でもどちらかといえば彼はーー
「完璧にメイドさんだけど。ふふ、凪砂くんはどちらかというと執事の方が似合うね」
演技を経験しているからか、彼の表現力も相まって完璧な身のこなしだ。ただ、彼がメイドだと考えれば考えるほど、服装がしっくりこない。彼は燕尾服を着て白い手袋をしている姿の方が容易に想像できる。
「……うん、そうだね。私もそう思うよ。君の隣に控えて仕える方が目に浮かぶよ」
そう言いながら差し出された手。誘われるようにそれに自身の手を重ねると、引き寄せられる。
「『お嬢様、足元にお気をつけください』」
どうやら彼の演技はまだ続いているようだ。
「でも、凪砂くんと私が主従関係だったらこんな風に近づくことはできないよね……」
彼の腰に手を当てて少しだけ背伸びをする。顔を近づけて唇と唇の距離が縮まる。
「……『そうですね。私たちの関係では許されません。建前上は』」
「えっ」
最後に発された言葉に頭を殴られたかのような衝撃を受けていると、グッと腰を抱き寄せられる。ふふっといつものように笑った彼の瞳には心なしか熱が孕んでいる気がした。
「……私が君の執事だったら、いずれ気持ちを抑えられなくなるかもしれないね。もし君から誘われたらきっと私は我慢できなくなってしまうから」
唇が触れそうな距離でそう告げられると体に電流が走ったかのように動けない。彼から逃げようとしても強く引き寄せられている手によって阻止されるのでどちらにしても動けない。
「禁断の恋というのも燃え上がるものかもしれないけど、君とはこうして肌と肌でいつでも触れ合いたいから、今の私たちのままがいいね。君に口付けて『おかえり』って囁けるような関係が幸せだから」
柔らかく顔を綻ばせる彼が眩しいほどに温かい。ふにっと一瞬だけ触れ合う唇が離れるのが名残惜しい。ふわっと包まれていたものが解けてしまうような感覚。言葉よりも先に胸が鼓動を打っていた。
「凪砂くんは、私をどうしたいの……」
パタパタと熱くなった顔を冷やそうと手で煽ぐ。息が詰まりそうな感覚に陥り、必死に酸素を求めて肩で呼吸をする。
「……どうしたいかって? それはもちろん、私でいっぱいにしたいんだ。そうして私で頭の中でいっぱいになってもっと私に堕ちてしまわないかなと思うんだ」
射抜くような真剣な眼差しに囚われて、体が強張る。しかし、これは恐怖ではなくて何とも言い難い高揚感からだ。
「なんて、冗談。ふふ、怖かったかな。ごめんね」
「ううん。凪砂くんが私のことをそれだけ好きだって思うから嬉しい」
予想外だったのか、私の返答を聞いた途端目を見開いて言葉を詰まらせていた。ふっと頬が緩み愛しいものを見つめるように目を細めた。
「……君には敵わないね。だから、もっと君の心を揺さぶりたくなるんだ。だめかな?」
了承を得ずとも、私が拒否をすることはないと知っているはずなのに、そういうところが狡い。「いいよ」と私に言わせて逃げ道を奪っている。でも、そんな彼の言葉が嫌だと思わない私も大概だ。
「だめじゃないよ。凪砂くんになら、掻き乱されても構わないから」
そう言った途端、口角が上がり、大切なものを愛でるように優しく私の髪に触れた。梳かしながら指先がたどり着いた先は私の唇だった。親指で触れた途端、上向けられて何度も口付けられた。