01
「どう思う?」
時の魔法省大臣は、マグルの新聞を机の上に放り捨てた。新聞の記事には『死者が蘇る!?奇跡を起こすカルンスタイン病院』とある。
レイモンドは記事を一瞥すると、魔法省大臣をまっすぐに見つめ返した。
「ファントムハイヴ。マグルの科学技術で、こういったことは可能なのか?」
「いいえ。ありえないかと」
にべもなく否定すると、魔法省大臣は肩を竦めた。冗談でも話題にしたくないことだ。
死者の復活。永遠の命。生と死にまつわる事柄に首を突っ込めばろくなことにならない。そこが過去でも未来でも、たとえまったくあてのない世界だとしても、これは変わらないことのひとつに違いなかった。
「そも、ここはマグルの病院でしょう。我々と関わりがあると?」
「調査によれば、この病院の経営者の一族に魔法使や魔女はいない。遠い祖先にも。従業員も入院患者も、マグルだらけだ」
「では、なぜそのように心配されるのです」
「『女王陛下』がこの件を嗅ぎつけているかもしれない」
レイモンドはなるべくゆっくりと瞬きした。魔法界に王族はいない。この国の王族が、魔法使いであったことなど、ただの一度もない。
この国の頂に座す王はいつの世もマグルであり、彼らのよき相談役こそ魔法使いであったためだ。歴史上、王室に魔法使いや魔女が生まれた記録はひとつもない。親戚筋にさえいない。
千年続く英国王室の歴史の中で、魔法使いはやがて表舞台から姿を消す。たとえ王室であっても魔法が使えないのなら彼らは高貴ではない、穢らわしい──愚かにも堂々と、声高に言うものが現れ始める。魔法使いの言う『陛下』が尊敬から侮蔑に変わり、マグル界でその存在を知る者がごく僅かになってきた頃、『彼女』は女王へと即位した。
アレクサンドリナ・ヴィクトリア。
少女と言える年齢で即位した彼女は、強大な工業力と海軍力でもってこの国を大英帝国にした傑物だ。インドの植民地支配を確立させた手腕、そしてどの国とも同盟関係を結ばない強気な姿勢。エリザベス女王の再来とも噂され、その噂は、やがて魔法界にも轟いだ。それでもやはり、魔法使いは彼女を『女王陛下』と、そう侮蔑する。マグルの言う『陛下』と魔法使いの言う『陛下』の言葉の意味が、まったく異なると知っていながら。
レイモンドはそのヴィクトリアに謁見したことがある。言葉を交わしたこともある。だから、彼女を侮蔑するなどありえない。マグルも魔法使いも関係なく、首を垂れるに値する人物だと知っている。
「『女王の番犬』は?動いているのか?」
「私は実家の家業に一切口出ししておりません」
「まだ未成年なのだろう。どうして後見人を務めない」
「あの子は立派に家督を継いでいます。後見など、かえってあの子の邪魔にしかならない」
またこの話だ。レイモンドはくるりと踵を返して「この話は終わり」のポーズをとった。
魔法省が英国王室と切っても切れない関係にある『女王の番犬』を手中に収めたいのだろうことは、学生時代から分かりきっている。
「待ちたまえ」
「カルンスタイン病院の調査は闇祓い局が引き受けます。話は終わりでしょう?」
「いいから待ちなさい。これを」
大臣が杖を振ると、彼の引き出しの中からもうひとつの新聞が飛んできた。またしてもマグルの新聞だ。
「…これは?」
「カンパニア号の処女航海ぃ!?」
もっと違うタイプの歓声が聞けるに違いないと思っていたレイモンドはふたたびゆっくりと瞬きした。両腕をかき抱き、新聞に触れようともしないケニーは、それがかすりでもしたら呪いにかかるとでも言わんばかりの形相をしている。
差し出していたそれの行き場を失ったため、レイモンドは新聞を机の上に置いた。心外だ、という顔を作るのも忘れない。
「ありがとう。そんなに嬉しい悲鳴が聞けるとは思っていなかったよ」
「どこが!?やめろそんなもん!ていうかお前も乗るな!」
「…何か知っているのか?」
レイモンドは努めて落ち着いた声音でそう尋ねた。まさか彼が魔法省大臣の執務室に『伸び耳』を仕掛けているはずもないけれど──ウィーズリーの双子の兄弟が生まれるのも、あと約一世紀は先の話だ。
不思議そうな声を取り繕ったと知る由もなさそうなケニーは、やはりこれでもかと顔を歪ませたままで声を張り上げる。
「いやタ…クじゃん」
「タク?」
「タイ…ク」
「なんだ。よく聞こえない」
「言わせんなよ!版権チェック警察が…いや史実でもあるからいいのか?」
なにやら納得した様子の琥珀色の目はらんらんと輝いていた。
「世界にふたつとない豪華客船の処女航海!イギリスからアメリカ行き!出航は四月!フラグ乱立どころの話じゃないだろ?ここまで条件を満たすなら、もうアレだろ。アレ以外にありえないだろ?」
「なんだ。アレって」
「タイタニック号沈没事故そのものじゃん!!」
レイモンドは瞬きをせず、息を荒げる友人をじっと見つめた。
「タイタニック号…?なんだそれは?」
「えっ怖。俺は覚えてるのにお前は知らないの?なんで?二十世紀で一番有名な海難事故だっただろ?」
身振り手振りを交えた大仰な説明によると。
タイタニック号なる豪華客船が存在したのは『前』の世界での出来事だそうだ。当時建造された客船としては最大で、当時としては高度な安全対策も施されていたために、『夢の船』『沈まない船』と呼ばれていんだとか。過去形。
「…海難事故?」
「ああ。タイタニック号は北大西洋を横断中にどでかい氷山にぶち当たって、船の横っ腹に大穴を開けたのさ。そんで真っ二つに折れて沈んだ──客の半分以上が死んだけど、生き残った連中のほとんどが上流階級」
「まるで子供に読み聞かせる寝物語だ」
「そう思う?でもこの沈没事故のおかげで、その後の世界の航海の安全対策が見直されるんだよな」
ケニーはニヤリと笑って杖を振った。ウィスキーの瓶がひとりでに空いて、キラキラ輝く丸い氷をつたってふたつのグラスの中に琥珀色の液体が滴り落ちていく。
「出航してたった四日だぜ?あまりに悲劇的だったもんだから、後世でいろんな作品になって語り継がれたのさ。だから、みんなタイタニック号のことは知ってる。魔法界じゃそうでもなかったのかねえ」
「騒ぐことでもないだろう。船の沈没如きで魔法使いが死ぬわけもない」
「ああ、そっか」
魔法使いであるなら、積荷の中に箒の一本や二本積んでいるのが当たり前だ。たとえ北大西洋のど真ん中で船が沈没したのだとしても、まったく問題ない。どんな身分の者でも才能があればホグワーツに招かれるから、飛び方も、みんな等しく学んでいる。
…魔法使いならば。
レイモンドは眉間を揉んで、いつもよりも大きくグラスを傾けた。
「嫌な話を聞いた」
「嫌な気持ちになるように言ったからな」
ケニーは新聞をつまみ上げると、そのまま暖炉に放り込んで、まるで汚いものを触ったかのようにパンパンと手を打った。
「さあ、これでおしまいだ。十九世紀末の豪華客船なんてフラグ以外の何者でもない。触らぬ神に祟りなし。乗らぬ船に溺死フラグなし、だ」
「そうもいかない」
「なんで?」
「シエルが乗るんだ」
「なんて?」
「シエル・ファントムハイヴが乗る。許嫁のエリザベスも、彼女の家族も」
問題はそこだった。
女王が嗅ぎつけるやも──魔法大臣がそう思ったのならば、すでにかの女王は嗅ぎつけているに違いない。女王と大臣、どちらが上手かなど比べるのもおこがましい。
もしやと思って調べたら案の定。シエルがあの悪魔を使えば、人間業ではないスピードでさまざまなことを調べることができる。別ルートでなにかを嗅ぎつけたのだろうけれど、まさか魔法界のスピードに追いついてこようとは。
単なる季節外れのバカンスならば、説得のしようもあるだろう。けれど、きっとそうではない。シエルが『女王の番犬』として乗船するならば、どんな理由があろうとも船から降りるはずがない。
「いや…沈むんだって」
「………」
「子どもに聞かせる寝物語じゃない。十九世紀にイギリスからアメリカへ向けて処女航海で出航する豪華客船は沈む!甥っ子を説得して船に乗るのをやめさせろよ!」
「どうやって説明するんだ。それは君の頭の中の話なのに」
「そりゃそう…」
怒鳴っていたと思えば打ちひしがれているケニーのつむじを眺めながら、ぼんやりと考えた。
彼は、時折未来の出来事をそらんじることがある。これはかつて、弟の宿敵を倒した後も続いた。たとえば経済危機。戦争。自然災害。どれもがマグル界を揺るがすものばかり。彼の『一度目』がマグルだったからだろう。
『一度目』が『二度目』よりも未来を生きていたのだとしたら、そういうこともあるだろう。そして『三度目』は『二度目』よりもはるかな過去。多少の誤差はあれど、それが世界を揺るがすような出来事であれば起こりうることは変わらないのだろう。魔法界でも、きっとマグル界でも。
瞬きする。
カンパニア号は沈む。北大西洋のど真ん中、氷山に衝突して…。
「困ったことになった」
「ほんとだよ。どうすんだよ…」
「姉の家族は、僕が魔法使いだと知らないんだ」
「どうす…は?え…?」
空は快晴。
船首と船尾が地平線ほどに長い船の壁面には艶やかな文字で『カンパニア号』と綴られている。サウサンプトン港に集まるすべての人々は目を輝かせてそれを見上げているけれど、ケニーの言うことを信じるなら、これは四日後、数千人分の巨大な鋼鉄の棺桶と化す。
背後で、雑踏に混じって軽い金属音がした。
「時間だぜ」
懐中時計をポケットにしまったケニーは三等客室用のチケットをヒラヒラさせた。
「一等の部屋を用意したのに」
「バカ言え。一等のスイートルームなんて逆に眠れねえよ…俺には大部屋のレンガみたいなベッドで十分」
ため息は飲み込んでおいた。死亡フラグがどうのこうのと嫌がるこいつを無理やり引っ張ってきたのは僕だから、多少のわがままは許してやらないといけない。
「シエル達はおそらく客室か甲板デッキにいるだろう。何か情報を掴んでいないか聞いてくる」
「それまでは自由時間?」
「また連絡する」
轟音の如き汽笛が鳴り響く。船は港を滑るように離れ、別れを惜しむ群衆の声も遠くなっていく。
さっさと荷物を部屋に押し込んで──沈む予定なので、大した量は持ってきていない──着替えると、カモメの飛び交う甲板デッキへと顔を出した。よくよく思い返してみると、船旅というものは長く、そして繰り返してきた人生の中でも初めてかもしれない。
心が躍りかけるのを鎮めて、まるで宮殿のような広さを誇るデッキを見渡した。かなりごった返しているが。小柄な主人とのっぽの従者という歪な組み合わせは目立つので、予想したほどの苦労はなかった。
「シエル」
相変わらずべったりと貼り付いている悪魔を一瞥しながら、驚いている甥っ子の丸い頭を撫でた。
「叔父様」
「レイモンド叔父様!」
シエルの声をかき消す黄色い声。座席を勢いよく立ち上がってしまったけれど、恥ずかしそうにドレスの裾を上げた所作はさすが上流階級の一人娘といったところか。姪っ子の細い指をすくい、唇を近付ける。
「久しぶりだなエリザベス。姉上も」
「もう叔父様!リジーって呼んでって言っているのに!」
「息災か。レイモンド」
いかにもてきぱきとした女性──フランシス・ミッドフォード。三度目の人生において、実姉にあたる女傑だ。
彼女の凛とした厳しさは淑女という言葉におさめるにはいささか足りない。相変わらずのひっつめた髪型が懐かしく、フランシスの夫であるミッドフォード侯爵や、もうひとりの甥であるエドワードにも朗らかに挨拶する。寄宿学校へ通うエドワードに会う機会はめっきり少なくなってしまったので、懐かしさすら込み上げた。
「エドワード。立派になったな…ずいぶん背が伸びたようだ」
「いいえ、レイモンド叔父様。僕なんてまだまだです」
「また剣術の手ほどきをしてやってくれないか」
侯爵は楽しそうに肩を揺らした。
「どうやら同級生では肩慣らしにもならんらしい」
「そんなことは!」
「はは。どうでしょう侯爵。僕で相手が務まるかどうか」
「なんだと?」
フランシスの眼光が危険な光を帯びた。
「レイモンド。隠遁生活でなまっているのではないか?ちょうどいい、シエル共々私が鍛え直してやろう」
「姉上。十分です姉上。十二分です。そうだろうシエル?」
「え!?えーっと、そう、叔父様はなぜカンパニア号へ!?」
どうやら上の空だったらしい。なんであれ話題が剣術から反れたのはいいことだった。
「そう…そうだな。ちょっとした羽休めだ。こんなに豪華な船に乗る機会はそうないからね」
「叔父様はアメリカまでこの船に乗っているの?」
「そのつもりだよ。エリザベス」
「ほんと!?」
エリザベスの目が輝く。
「二人ともそんなに一緒にいられるの初めて!晩餐会はエスコートしてねシエル!」
「わかったわかった」
真横からの強烈な視線。どうやら羽休め、などという言葉では誤魔化されてくれないようだ。
隠遁生活──レイモンド・ファントムハイヴが家を出る際、そのように誤魔化してくれたのはフランシスだった。そう世間に触れ回っておけば、実家に一年以上顔を出さなかったとしてもファントムハイヴ家の名に泥を塗らないから。無論、亡き兄は面白がっていたけれど。
「それで、叔父様はなぜカンパニア号へ?」
誤魔化されてくれないのは『女王の番犬』の名を継いだ兄の忘れ形見も同じくだ。まったく、血は争えない。
ミッドフォード一家と別れ、許嫁に手を振りながらシエルはそう尋ねてきた。
「シエルこそ。三週間も領地を空けて大丈夫なのか?」
「誤魔化されませんよ」
すっかり伯爵の顔をしたシエルはぴしゃりと言った。
「カンパニア号に魔法が関わるものはひとつもありません。何を調査しにいらっしゃったのですか?」
「ふむ…」
柱の影にシエルと執事を手招くと、軽く杖を振るった。人避けと防音の魔法だ。
「シエルはカルンスタイン病院の記事を読んだか?」
「!」
質問したそうにしていたので、黙したままシエルの言葉を促す。
「あの事件に魔法使いが関与しているのですか?」
「まだ分からないが、少なくとも、どんな魔法でも死者を蘇らせることはできないのは確かだ」
だから『こちら』も調査しに乗船したのだと、言葉の端に滲ませる。聡い甥っ子はそれだけでこちらの意図を汲んでくれた。
「シエルも既に病院関係者は洗っているだろうが、彼らの中に魔法使いはいない。入院患者にも、その家族にも」
「そうですか…」
「だから“暁学会”を調べに来た」
「!」
魔法大臣がカンパニア号の記事を投げてよこした理由。
それは、例のカルンスタイン病院の院長が医者のみで結成された秘密結社” 暁学会“の会合を繰り返し開いていると判明したからだ。院内では非合法な人体実験が繰り返されており、その凄惨な光景に、潜入していた部下数人が寝込む始末。詳しいことは分からずじまいだったが、院長がわざわざ病院を空けてまでカンパニア号に長期乗船するという情報を掴むことはできたのだろう。手詰まりだから闇祓い局へ投げて寄越した、といったところか。
まったく。自分の私兵を省内に飼うのは勝手だけれど、尻拭いを押しつけるのはやめてほしい。
「何か情報を掴んでいないか?」
「“暁学会”の次の会合が、二日後にこの船で行われるそうです」
「なるほど。それで…」
どんなからくりで死者を蘇らせているのかは未だ知れないが、マグルの技術は侮れない。高度な科学技術で死体を動いているように見せかけているのだとしたら、技術開発のためのパトロンが必要だ。なるほど、そのための豪華客船か。
「会合に参加資格はあるのか?」
「すみません。まだそこまでは…」
「いいや、十分だ。助かったよシエル」
丸く、形のいい頭を撫でてやる。恥ずかしそうにしているのが年相応で、ほんのりとほろ苦い気持ちが込み上げた。感傷だ。幼い頃の彼は嫌がりもしなかったというのに。
シエルは本当に、亡き兄上にそっくりだ。目だけは義姉上のもの──これを言ったら、あいつが鼻で笑い飛ばすかもしれない。
「僕も二日後の夜には都合をつけよう」
「助かります」
手を振って別れた二日後、礼服とはいえどタキシードではなく、凛々しく可愛らしい衣装で現れたシエルはやはり執事を連れていた。伯爵が連れのひとりもなくうろうろしているのもどうかと思うので、仕方がないことだけれど。この胡散臭い顔を見ると過去のさまざまな出来事が蘇ってくるので、声が低くなるのを取り繕えなくなる。
「なぜコイツなんだシエル。もう一人従僕を増やしていただろう。彼はどうした?」
「そこまで嫌われるとは心外です」
「黙れ害獣」
「害獣て」
地を這うような声を出してみせると、横から軽やかな声が口を挟んだ。
「そこまで言うことないんじゃない?」
「ケニー。コイツは…」
「あ〜いいよいいよ。こないだ挨拶したじゃん。執事さんも俺のこと覚えてるだろ?クリスタルパレスのさ」
「ええ、それはもう」
シエルはケニーがいることに随分驚いた様子で、視線が何度も頭と足を往復している。無遠慮な視線を受け止めたケニーはなにやら納得顔でシエルの肩を叩いた。
「大丈夫だよ伯爵。俺、コイツの実家の家業聞いてるから。目の前でヤバい話されてもちゃんと耳塞ぎ呪文唱えとくから、安心してきな臭い話してくれよな!」
ケニー。ここは十九世紀末のイギリスだからサムズアップは通じない。君の口の軽さも、あと百年は通じない。
久しぶりの頭痛を覚えながらひとまず頭をひっぱたいておいた。これで少しはふざけた軽口が減るといいのだけれど。
学会の会場を知っているらしいシエルの後にふたりで続く。どうやら空のグラスを持つウェイターが晩餐会の会場を巡回することが、開会の合図だったそうだ。
ウェイターから空のグラスを受け取った紳士のあとをつける。彼は船内に戻り、ドアマン二人が扉を塞ぐ一室に消えていった。
「完全浄化水はいかがでございますか?一杯八十ポンドでございます」
「随分法外な値段だな」
「払えない者には入る資格なし…といったところでしょうか」
財布を出そうとする執事に待ったをかける。
「ケニー」
「はいよ」
ケニーは飄々とドアマン二人の前に躍り出ると、なんの遠慮もなく杖を振った。
「コンファンド」
ドアマン二人の目が朦朧としたものになる。「完全浄化水」を持っていた男の手から滑り落ちかけたボトルを捕まえると、ケニーは笑顔で杖を振った。
「完全浄化水はいかがですか?今なら四人限定でプライスレスでございます!なんっつって」
「ただの水なのか?」
「ああ、大丈夫──はいよ伯爵。執事さんも」
空中を泳いだグラスは危なげなくシエルの手におさまった。それを呆然と見上げるシエルが愛らしくて、思わず笑みが溢れてしまう。
「アディントン先生も、魔法使いだったのですね…」
「あれ?コイツと同卒って言ってなかったっけ」
「君があまりに粗雑だからだろう」
「なんでディスられたの?今」
無視して学会会場の扉を開ける。思った以上に人でごった返していて、みんな胸元に同じバッヂをつけている。
「初めての方かな?」
完全浄化水を持った老紳士が近付いてきた。頭痛がする。しかしこんなにも人がごった返している中で、シエルの執事から聞いた『アレ』をやらなければならないのか──。
シエルが躊躇いながらも、口上を口にする。
「か…『完全なる胸の炎は、何者にも消せやしない』」
話はこうだ。
暁学会には定められた挨拶があり、知らない者は退場させられるとかなんとか。ただしその挨拶というのが問題だった。
なんでも、両手を大きく広げ片足を上げなければならないというなんとも屈辱、いや奇天烈、いや、とにかく言葉にできないほどに嫌だった。想像するのもごめんだった。眉間を揉む。
「絶対に嫌だ…」
「まかせろ」
「は?」
は?
シエルの前に飛び出したケニーは、強い眼差しでもって老紳士と対峙した。
「我ら!!不死鳥!!!!」
執事に聞いていたポーズとまったく違う。
それでも勢いと声のボリュームがあったためか、老紳士は納得した様子でケニーに人数分のバッヂを手渡した。
「ふう…。不死鳥と聞いたからには俺がやらないわけにはいかないだろ?」
「君が友人でよかったと、過去一番にそう思った」
「過去一番に!?」
「イーッヒッヒッヒ!!」
斜め下、つまりケニーの足の間からからものすごい声が聞こえたので、みんな飛び上がった。
黒づくめの衣装に、伸び放題の銀髪。貴族ばかりが集まるこの場に相応しくない、床でのたうち回る不審者のことを、残念ながら僕はよく知っていた。彼とはファントムハイヴ家先々代からの付き合いだ。
「いやあ前衛的なポージングだったね!しかもおっ、大真面目に『不死鳥!』だって!だっはっは!!」
「葬儀屋じゃないか」
「なぜここに!?」
シエルも当然に知っていたようで、驚いた様子で床を見る。
「ハアハア、ねえ伯爵もやってよ、彼の今のポーズ」
「貴様…」
「まあまあ、坊ちゃん。それで、貴方はなぜカンパニア号へ?」
「病院は葬儀屋のお得意様だよ」
それもそうだ。ただひとり、事情を分かっていないケニーだけが自分の足元から生えた男を気味悪がっていた。我が友人ながら実に不憫だ。たしかにまともな男ではないけれど、もっとマシな初邂逅があったと思う。
「ここで行われている非合法な人体実験を調査しているんだが、死者蘇生について何か知っているか?」
「おっと。情報が欲しいなら笑いを頂かないとね」
葬儀屋は不揃いなようで揃っている鋭利な歯を剥き出しにして笑みを浮かべた。
「ぐふ…さっきの彼のポーズでどう?」
「俺もっかいやろうか?」
「君恥ずかしがってないでしょ。面白くない」
「そういうもんなんだ」
どういう理屈だ。
ため息をついていると、葬儀屋は俊敏に起き上がった。
「それじゃあね、先代の弟くんに魔法使いくん」
「ヘンな人だったな…」
「ああ、君がまだまともだったということを痛感できたよ」
「お前なんでそんな辛辣なの?激務?闇祓いの激務がそうさせてんの?仕事セーブしろよ」
会場の一点に視線が集まり、そしてにわかに静寂が訪れたので言葉を飲み込む。男四人がかかりで運び込まれた棺は、重たい音と共に会場の真ん中に安置された。
続いて白衣の男が棺の横に立つ。さしずめあれが、カルンスタイン病院の院長であるリアン・ストーカーだろうか。随分と若い。
誰よりも激しく不死鳥ポーズを決めたリアンは、活き活きと声を張り上げた。
「完全なる救済とは何か?それは完全なる健康です!」
健康な体、歯、健康な肉体に宿る健康な精神、健康な天気、などなど…。
大きな身振り手振りで暁学会の「医学による人類の完全救済」とはなんたるかを語っていたリアンは、急に声を小さくした。
「しかし我々には、どんなに努力しても克服できない最大の不健康がある──それは“死”です!我々をその厄災から救ってくれる素晴らしい力…それこそが、暁学会の医学なのです!」
リアンが手を上げる。それを合図に、後ろに控えていた男たちが棺を開けた。中にひとりの女性が横たわっている。ネグリジェを着ていても分かるほど、身体中が縫合痕だらけだ。
「マーガレット・コナー、十七歳。彼女は不運な事故で若くして命を落としました…実に痛ましい!あってはならない事故です!」
「…どう思う?」
「魔法使いは関わってねえだろ」
ケニーはマーガレットの遺体を見つめたまま、低い声で呟いた。
「癒者は体に傷を残さない。縫合した傷がまったく癒着してない。あれはマジの死体だよ」
[*前] | [次#]
back
ALICE+