03
どうやら豪華客船沈没事件ではなくリビングデッドホラーファンタジーだったらしい。心配が杞憂に終わって何より。うん?沈没よりマシなんだろうか。今はまだ、分からない。
俺たちはもたらされた情報を整理し、二手に別れることにした。
レイモンドは執事くん──セバスチャンと動く死体を殲滅しつつ、エリザベスの家族の保護。
俺はというと。
「ケニーはシエルについていろ」
レイモンドは杖をくるくると回して宙を一閃した。一筋の輝き──そこから鋭い刃が零れ出てくる。護拳のついた立派なサーベルだ。レイモンドは杖をしまうと、確かめるように軽く振ってみせた。
三男坊と言えど伯爵家の教育から逃れられはしない。音楽に絵画、狩猟に馬術。そして剣術。きっと兄貴と競うように育てられたのだろう。それらすべてを難なくこなし、勉強にスポーツにと、すべて完璧にこなした秀才が俺の横にいるわけでして。まあ学業に関してだけ言うなら三度目になるし、こいつにとっては、城での七年は軽い復習のようなものだったに違いない。
ホグワーツを当然に首席で卒業した男は、俺に視線ひとつ寄越さず背中で命令してみせた。
「何があっても二人を守れ」
「はいよ」
ヒュウ。人の上に立つ者としての振る舞いが板についてることで。
俺も魔法なしで動く死体をどうにかしろって言われたら難しいし、ありがたく従う。魔法使っていいならなんぼでも来やがれというもの。
階段を上がった二人を見送って、俺たちはリアンを脅…説得すると、一等客室にある彼の部屋へ向かうことにした。なんでも、その部屋に動く死体を動けなくする装置があるらしい。
ほんとか?ボブは訝しんだ。
こういうバカなモノローグを挟む余裕があるときはだいたいブラフなんだけど、周りは真剣だし俺は賢明なので大人しく口を噤んでおく。
リアン曰く、船頭と船尾の貨物室を繋いでいるボイラー室には貨物用のエレベーターがあるらしい。なるほど、周りを見渡せば車まで何台か置いてあるもんね。貴族の道楽はよく分からない。アメリカで乗り回すつもりだったのかな。
伯爵はリアンの頭を銃口で小突いた。
「よし。案内しろ」
俺が杖を振るうと、リアンの体はひとりでに持ち上がった。本当は意識のない人間を運ぶ時なんかに使う魔法だけど、リアンは大人しく足を揺らしているし、エリザベスやスネークも特に動揺している様子はない。マグルにとっちゃ、動く死体と魔法のトンデモ感は同じところにあるのかもしれない。
「次の質問だ。何故死体が動く?」
「死亡した人間の脳に微弱な電流を発生させる特殊な装置を埋め込む手術をし、その装置から脳の各部位に信号を送ることによって、死亡する前の健康な体を取り戻すという…」
「もういい」
伯爵はリアンの言葉をぶった切って他の質問をぶつけている。でも俺は別のことを考えていた。癒者──医療に携わる人間として、彼の言葉の意味を考えた。
繰り返すけど俺は医者じゃない。癒者だ。基本的に杖を振ったり呪文を唱えて呪いを癒す。魔法薬を煎じて、患者の疾患を治したりもする。専門知識の乏しい一般家庭であっても対処は変わらない。魔法でなんでもやってしまう。皮膚の下のどこに血管が這っていて、どこに神経が通っていて、骨がどう組み合わさっているかなんてどうだっていいんだ。どうにでもできるから。
だから、魔法界全体が人体の仕組みにほとんど詳しくない。むしろ、それを探ることを忌避している始末だ。外科手術なんかは、マグルが魔法を使えないもんで、人間の体を切り刻むなどという悍ましい手法をとっていると思い込むほどに。人体解剖学の本は魔法界に存在しない。ホグワーツの図書室にも、聖マンゴの図書館にも、ひとつもない。
とはいえ、知識や経験が邪魔になることはない。魔法界にいながら外科治療や治験に携われるのは神秘部しかないので、俺も昔あそこへ片足を突っ込んでいたことがあった。
神秘部。魔法界における禁忌を端から破り捨てていく連中が集う魔窟。俺があそこにいたのはそう長い間じゃない。どっちかっていうと思い出したくないことの方が多いけど、結果、役立ってるよ。たとえば今なんかな。
脳神経外科となれば専門外も専門外。さすがの俺も、自分で人間の脳みその中をいじくったことはない──だからこそ、思う。
「(高性能な顕微鏡が未だ存在しないのに、そんな外科手術が可能なのか?)」
神秘部のマッドサイエンティスト連中は拡大鏡に魔法をかけて、いわゆるマイクロやナノの世界を観察していた。どうだってできるからな。
けれど、脳外科手術が可能なほど精度の高い顕微鏡や手術道具を、今のマグルの科学技術では作りようがない。他国──たとえばドイツなら分からないけど、イギリスじゃまだ無理だ。被検体が生きていないからこそ可能なのか?たしかに動く死体はみんな、人体の可動域をまるで無視した動きをしていたように思う。
確か、母親を襲ったマーガレットを見たリアンは「失敗した」と言っていた。「成功した」被検体を目にしているからこそ、あの言葉が出たはずだ…。
「先生」
おっと。
思考を打ち切る。心配そうにこちらを見ていたエリザベスと目が合った。
「どうなさったの?先生」
「ああ…いや、なんでもない」
「体調が悪いのか?ってキースが言ってる」
「ほんとに大丈夫」
スネークくんほんとにごめんねぇ!全部あの脳みそプレティーン野郎がやったことだからさあ!
扉に危うくぶつかりかけたところを横に反れる。伯爵の「コイツ大丈夫なんだろうな…」という不審な目は甘んじて受け止めた。問題ありません、サー。気を引き締めます。
さて。
扉の向こうはマグルだらけに違いない。俺は伯爵に相談して拘束役をバトンタッチすることにした。背中に銃口を押し付けるだけなら、他の人間に怪しまれにくいだろう。
改めて扉を確認すると、ドアには「タービンエンジン室」という札がかかっていた。全員に視線で確認を取り、俺がノブを捻る。
「くっ!」
扉を開けた瞬間、むせかえるような熱気がぶつかってきた。気温が十度上がったような心地さえする。尤も、貨物庫は寒いくらいだったからちょうどいいけれど。エンジンの可動音が壁に反響して、ゴウンゴウンと凄まじい。頭を殴られているかのような感覚がする。耳がおかしくなりそうだ。
すると、体中を煤まみれにした男がギョッとしてせかせかとやって来た。
「おい!ここで何してる。客の来るところじゃねえぞ!」
「え、えっと…」
リアンがバッと進み出た。
「『完全なる胸の炎は!』」
「!『何者にも消せやしない 我ら』…」
嘘だろう。そう書いてある顔をした伯爵が青くなる。空気の読めまくる俺はというと、先ほどとは違うアレンジを加えたポーズを素早くとってみせた。
「「「不死鳥!!」」」
伯爵からのドン引きの視線を無視しながらやれやれ…と乱れた前髪を撫でつけていると、リアンがくるりと振り返った。
「同志よ、例のエレベーターを使わせて欲しい」
「分かりました。後ろの方は?」
「彼らも学会の同志だ!さあ、君らも!」
えっ、もっかいやれってこと?まかせろ。
「「「「不死鳥!!」」」」
どうしようなんかこれクセになってきたな。
羞恥のあまり崩れ落ちた伯爵をエリザベスとスネークがフォローしてくれているので、俺はもっといい角度の研究に勤しんだ。もうちょっと手首にひねりを入れるべきだったかもしれない。あとは足の開き具合がいまいちだったかも。
閑話休題。
「こちらです!」
すっかり笑顔になった男についていく。暁学会すげえな。こんな、絶対に貴族の用がないところにまで同志を忍び込ませていようとは。
細い通路を一列になって進む。角を曲がって、また新しい扉を抜ける。より一層熱が上がったような気がした。ここからがボイラー室のようだ。早いところ抜けないと、いよいよ汗が滲んでくるかもしれない。
「…ん?」
カタカタ、と何か軽いものが鳴った。振り返る。台車の上の石炭が震えている。
震えはやがて振動に変わり、立っていられなくなるほどの横揺れに変わる。ものすごい早さで。エンジンのゴウンゴウンという音に混じって、壁に重たい振動音が加わり…それはやがて小さくなって、消えた。
引っ張り起こした伯爵は、キョロキョロとあたりを見渡した。
「今の揺れは一体なんだ?」
振動でバランスを崩し、倒れて怪我をした者もいるようだ。作業員は全員手を止めて、今のはなんだったのかという議論を交わしている。
交わせていたのは、ほんの一瞬のことだった。
バーン。
壁を突き破ってきた大量の水がボイラー室にぶちまけられた。それはあっという間にこちらに迫り、俺も、伯爵もエリザベスも、スネークやリアン達の頭上からも降り注ぐ。降り注ぐ水の勢いは衰えることなく、あっという間に床が水浸しになった。刺すような水の冷たさは、さっきまで抱いていた暑さを根こそぎ奪っていく。頭から被ったせいで目に染みる──海水だ。
「…!!」
記憶の奥底に眠ったページが捲られていく。豪華客船沈没事故をドラマティックに描いた映画のワンシーンが、バラバラと脳裏に散る。頭から海水を被った理由を察した瞬間、悪寒がゾッと背中を駆け抜けた。
おい!!歩く死体ドラマと海難事故映画の夢のコラボなんて予想してませんけど!?
考える暇は与えられない。すぐ近くの手すりになんとか捕まっていたら、警報のようなベルが響き渡る。
「水密扉が閉まるぞー!」
誰かが叫んだ。声のする方を見ると、作業員がボイラー室の出口に向かって走っているのを見つけた。彼らの頭上でゆっくり、しかし確実に。重たい鉄の扉が鎖に引きずられて下降しているのが見える。
道案内をしてくれていた男が、こっちへ戻ろうとするシエルを抱えて上げていた。
「急げ!閉じ込められるぞ!」
「リジー!」
「シエル!」
反対側を見た。エリザベスがだいぶ向こうにいる。まだそこまで水がないのに彼女の動きが鈍いのは、ドレスが水を吸って重たくなっているからだろう。俺がいる場所は伯爵よりも近い。
「くそ…っ!」
踵を返す。エリザベスに駆け寄り、抱き上げて水密扉を振り返るまで十秒もかかっていないのに、水は俺の膝まで上昇していた。背筋が粟立つ。
「シエル、待って…!」
「リジー!!」
エリザベスが俺の腕の中で手を伸ばす。降り注ぐ滝のような轟音に混じって、伯爵が彼女を呼ぶ声が切れ切れに聞こえてきた。もう、間に合わない──。
数秒後、鋼鉄の扉が完全に閉じる音が虚しく響き渡った。息を漏らす。
魔法で水密扉を開けたままにしておくこともできたかもしれない。でもそれは、他の作業員を犠牲にしてしまいかねなかった。それに、作業員の目が完全に届かないならまだ手はある。魔法使いなめんなし。
言葉を失っていると、ざぶざぶと水をかき分けるありえない音がしたので二人揃って顔を上げた。
「シエル!」
「伯爵!?」
胸の下まで迫る水の中を泳ぐように歩きながら伯爵が歩いてきた。完全に閉じる直前に水密扉をくぐり抜けてきたのか?正気か!?
「どうして…」
「絶対に守ると約束した!」
エリザベスは身をよじって俺から離れると、小さな婚約者の手をしっかりと握りしめた。見つめ合う二人。完全に空気と化す俺。
やれやれ、彼女ひとり抱えるだけならどうとでもできたかもしれないってのに。うーん、これは野暮だね。
「スネーク!」
絶望をかけらも感じさせず、伯爵は凛と声を張り上げた。
「お前達は先に行け!」
「貴方を置いては行けないわ!ってエミリーが言ってる」
水密扉を叩く音。次いで、くぐもったスネークくんの声が届いた。背後の水の勢いは衰えることを知らない。視界にその恐ろしい光景を捉えていると、伯爵は更に続けた。
「心配するな。ダクトから脱出する!お前の友達は水に浸かりすぎるとまずいんだろう!?行け!」
「…っ、スマイル!ダクトの中はキーツが案内してくれる!後で落ち合いましょう!ってエミリーが言ってる」
「ああ!後で必ず!」
キーツって蛇だよねえええ。鳥肌を立てている場合じゃないので感情に蓋をする。
足音が完全に遠かったのを確認して、俺はふたりを振り返った。
「さ、伯爵。俺におぶさって。レディも失礼しますよっと」
伯爵とエリザベスの両腕が俺の首に回ったことを確認して、エリザベスを左腕で抱き上げる。右手は杖を持たなきゃいけないから、伯爵のことは支えてあげられない。彼が腕にギュッと力を込めたのを感じた。ぐえっとか言ってる場合じゃないので、俺はシリアス顔のままダクト下の階段に向かって杖を向ける。
「しっかり捕まってろよ──アセンディオ!」
「うわっ!」
「きゃあああああ!」
水と同じくらいの勢いでもって飛び上がった俺たちの体は、階段横の通路に難着陸した。ダクトの扉も杖の一振りで吹き飛ばす。扉は水の中に落ちて見えなくなったけど、誰も文句を言いやしないだろう。
「さ、二人とも。並んで」
二人の頭から足をなぞるように杖を動かす。強めの熱風があっという間に二人の体や服を乾かした。濡れたままじゃ動きにくいし、下手をすれば風邪をひく。プールとは比べ物にならないくらい冷たかった。最後に杖先を翻す。ついでに俺もってね。
「インパービアス」
「今のは?」
「防水および防火の呪文ですよ。レディ」
伯爵は髪の一本に至るまで完全に乾いた体をしげしげと眺めると、俺に質問した。
「最上階まで突き抜けることはできないのか?」
「動く死体が蠢くただ中に出ちゃまずいでしょう」
さて、困ったことになった。ダクトがもうちょっと広かったらなあ。俺、頭しか入らないよ?この狭さ。
道案内はあるというけれど、果たして道案内の先に動く死体が確実にいないかどうかの保証はない。かといって別行動をとっている間に海水がせり上がってきたらジ・エンドだ。蛇は人間よりもずっと本能が鋭いから心配ないのかもしれないけど、これもまた、保証はない。スネークくんや彼の蛇達を信じていないわけじゃないんだよ。
重いため息をついた。この手段は取りたくなかったけど、緊急事態だ。仕方がない。
「俺もダクトを通らないとな」
「どうやって?」
伯爵の問いを無視して胸ポケットに手を突っ込む。取り出したのはシンプルなデザインの、鉄製のシガーケースだ。もちろん中に煙草なんか一本も入っちゃいない。俺はボタンを外すと、そこに向けて杖先を突っ込んだ。我が獅子寮の誇る栗毛の才女様直伝の、検知不可能拡大呪文が時を超えて唸るぜ。
「アクシオ」
すぐに小さなフラスコが飛び出してきたので、俺は迷うことなくキャッチした。呼び寄せたのは、薄い色のついた透明な薬瓶だ。思わずしかめっ面をしてしまう。
クソ。これを飲む局面なんてないと思ってたから、材料ありのままの味にしかしないってのに。
鼻をつまみ、覚悟を決めて一気に煽る。
「オエエエエエ!」
泥!草!虫!臓物!エトセトラ味!!
四つん這いでえずいている間に事は起こる。俺の背丈はあっという間にエリザベスよりも縮み、伯爵と変わらなくなり、そして彼よりも少しばかり低いところで落ち着いた。悲しきかな、手足なんかは棒切れのようだ。これが栄養失調間際の十九世紀末の孤児ってもんよ。
「あ〜クソ…マーリンの髭」
喉奥から一オクターブは高そうな声が出たのにはさすがにウッとなった。頭上から、伯爵が信じられないといった声で尋ねてくる。
「アディントン先生…なのか?」
「そうだよ。こうしないとダクト通れないだろ?」
あっけらんかんと言ってみせる。その間に俺はぶかぶかの服や靴を叩いて回った。メタモルフォーゼというやつだ。つぎはぎだけど、しっかり肘当てと膝当てが施されている半ズボン。ボロいけど履き慣れたブーツ。寒さを遮る申し訳程度の乾いた布マフラーをしっかりと巻き直す。参考資料は幼少期の俺。いやあ懐かしい格好だ。ホグワーツ入学前の冬は、だいたいこの格好をしていた気がする。
伯爵と公爵令嬢の隣に立つには相応しくない格好だけど、避難するなら慣れた格好の方がいいのは確かだろう?
「さあ、時間がない。ダクトへ」
「いや…貴殿が先に行った方がいいんじゃないのか?」
「そ、そうね。なんだか滑り落ちてしまいそうなんだもの」
「ええ!?」
面食らってしまった。そういうボケを真剣な顔で返されてる場合ではないんだけど!?
「おいおい。見た目はモヤシかもしんないけどさ、頼りにしてくれ。中身はちゃんとアラサーだし!くっ…言わせんなよ…」
「しかし…」
「そういうの今いいから!」
哀れみの視線はシャットアウトだ。マジでいらないそういうの。特にこんな非常事態に!
「それに、レディ。貴方のドレスもなんとかしないと」
「!」
「ああ、そうだな。リジー、ドレスを脱ぐんだ。その格好じゃここは通れない」
「い、嫌!」
「レディ…」
思わず呆れた声を出してしまう。恥じらってる場合じゃないんだけどなあ。とはいえ、この時代は百年後と貞淑観念がまったく違う。伯爵と二人きりならともかく、赤の他人の俺もいるわけだし。脱げっていうのは無茶な注文かもしれない。
俺は杖をヒラヒラさせた。
「えーと…動きやすい格好に変えようか?ズボンとかさ」
「絶対イヤッ!」
赤いを通り越して青くなったエリザベスは、腕を掻き抱くと鋭く叫んだ。
「あたし、シエルの前では最後まで可愛い姿でいたいの!」
「ッ!」
「うおっ!?」
可愛い格好でいたい、なんて。この状況で、そんな言葉が飛び出てこようとは。
呆れるあまり半分開いた口を、俺はさらにあんぐり開ける羽目になった。怒りで顔を白くした伯爵が、エリザベスのドレスを背中から引き裂いたのだ。下着越しとはいえ未婚の淑女の素肌を赤の他人が見てはならない──時代の常識が染み込んだ俺の手は、両目を潰さんばかりに押さえつけた。
大丈夫。ミリしか見てない。ほんとに。
「何するの!?イヤッ…」
「死んだら二度と好きな服が着れなくなるんだぞ!!」
伯爵の怒声が、エリザベスの悲鳴を遮ってボイラー室にこだました。
「死んだら終わりなんだ!!何もかも!!」
もしかして伯爵も生と死に一家言ある感じですか?
あまりのシリアスに脳内でボケることで中和する。エリザベスの嗚咽に混じって、衣擦れの音がしたのでそろそろと両目を開けた。伯爵がジャケットを脱いで、下着同然の格好をしたエリザベスの肩にかけてやっている。
「今度新しいドレスを仕立ててやる。今日のよりずっといいヤツを。だから…」
「ううん。シエル、わがまま言ってごめんなさい」
「僕も…乱暴にしてすまなかった」
唸れ!俺の空気に溶け込める妙技!!
しばし見つめ合ったふたりだけの空気は、伯爵が視線を外したことで終わった。ありがとう。もう少し放置されたら壁に変身しないといけないところだった。
「さあ行くぞ。急いで…ッ!ゴホッ、ゲホッ」
「シエル!?」
「伯爵!?」
「水でむせただけだ。早く上がれ!」
………。
うーん、まあ、今は非常事態なので。とりあえず流しておこう。
伯爵ってもしかすると、あんまり体が丈夫じゃないのかもしれないな。
ほふく前進で進むこと十分か、それとも二十分か。膝の内側と肘の痛みが無視できなくなった頃、蛇のキーツがダクトの隙間をくぐって明るい部屋の向こうに消えた。ここで終わりということだろうか。
「くそっ。開かない…」
「レディ、ちょいと左に寄ってくれませんか?魔法でなんとかしてみ…」
「うわっ!」
「シエル!?」
肘で格子をガンガン叩いていた伯爵が、突然頭から消えていく。うわまずい。しかし俺の目の前にはエリザベスのお尻。
「…セバスチャン!」
「えっ?執事くん!?」
どうやら間一髪、執事くんが伯爵を受け止めてくれたらしい。エリザベスに続いて手を伸ばしたら、悪魔の赤い目がまんまるになった。
「おやおや…知らない声が混じっているかと思えば、貴方でしたか」
「どうも」
執事くんの手を借りて軽々と着地。惨劇の後だけが残る部屋全体を見渡した。一等とは言い難いけれど三等にしては上等なしつらえの机と椅子がいくつもあることから察するに、ここは二等客室の食堂のようだ。
あれ?
「執事くん、レイモンドとは別行動?」
「ええ。少々困ったことになりまして…」
どうやらレイモンドは妹家族と一緒に僅かな生存者を逃すことを優先事項としたようだ。うーんノブレス・オブリージュ。さらなる信頼が両肩にのしかかる。俺、今ショタなんだけどなあ。全力を尽くすとしよう。
そしてやっぱり、この船は沈没するらしい。氷山にぶつかって、どてっ腹に大穴が空いているんだとか。あまりの事態に頭痛を覚える。そこまで忠実な再現が展開しなくったっていいだろうに。
伯爵と情報交換を終えた執事くんの鋭い眼光が、子どもになった俺の頭から踵までを往復した。
「アディントン様。大人の姿には戻れないのですか?」
「すぐには無理。薬の効力が切れるまであと一時間ってところかな」
そりゃ、縮み薬の他に老け薬だって持っちゃいるけど、真逆の効果の魔法薬を、しかも短時間で連続服用するのはリスクが高すぎる。それに持っている魔法薬の大半は、成人した大人が服用する前提の希釈で作ってるし。大人の姿なら問題ないけど、今の俺、栄養が足りてない貧相な子どもの姿だからね。下手に服用してどう作用するか分かったもんじゃない。
ハア…と聞こえよがしなため息が降ってきた。すみませんねお荷物を増やしちゃって。
「おい、侮るなよ。体はこんなだけど、動く死体くらいなんてことはない」
「どうでしょうね…全く」
セバスチャンはやれやれと肩を竦めると、子どもトリオの背中を押した。
「さあ、救命ボートの準備が始まっております。急いでデッキに参りま──」
ギュラララッ。
天井に火花が走った瞬間、セバスチャンが俺たちをまとめて抱えて飛び下がる。さっきまで俺たちがいた場所に、円形にくり抜かれた天井が降ってきた。突然のことに頭が追いつかない。
目を凝らした。誰かが、もうもうと立ち上る煙の中にいる。
「ンッフフ。色男、ハッケーーン」
赤くひらめく長い髪。眼鏡の向こうで爛々と光る、黄緑色の目。
その髪色よりも濃く深い真っ赤な女物のコートを無造作に羽織った男は、天井だったもの瓦礫から、これまた真っ赤なチェーンソーを引き抜くと笑みを深くした。
「貴方は…」
「グレル・サトクリフ!」
誰!?
最初のショックを押し殺していると、赤ずくめの男の後ろで、見覚えのある男が頭をボリボリと掻いてるのに気が付いた。死神ほにゃらら協会の回収課、ロナルド・ノックスだ。たった数十分前かそこらで初めて会ったのに、短時間でいろいろなことがありすぎて、数年ぶりの邂逅のように感じられる。
「お久しぶりセバスちゃん。こんな所で再会できたのはきっと運命ね!」
「偶然です」
「あーんつれなぁいっ♡そんなトコロが相変わらずステキ!」
「見つけちゃったかあ…」
もしかして、この体をくねくねさせながら執事くんにラブコールしてる変態がロナルドの先輩で、伯爵達の知り合いだっていう例の死神だろうか。苦労してるんだな、ロナルド。
「先輩、回収のこと忘れないでくださいよ?」
「ロナルド!セバスちゃんがいるなら早く言いなさいヨっ!そしたらメイクだってもっと気合い入れて来たのにッ」
「そーなると思ったから言わなかったんですよ…」
呆気にとられていたら、セバスチャンが俺を抱え上げて背中に回した。特に何の配慮もなかったため、伯爵にそうしてもらったように慌てて首に両腕を回す。セバスチャンは伯爵とエリザベスを両脇に抱えて逃走を図るつもりらしい。一歩、二歩。三歩目──
「ちょっと待ちな──さいヨ!」
──とは、都合よくなりはしない。
セバスチャンが勢いよく飛び上がったので、痩せ細った体に遠慮のない重力が加わった。ぐえ。伯爵とエリザベスの足元スレスレをチェーンソーの刃が掠めていくのが視界によぎる。
「人の身体に火を点けといて放置プレイだなんて。酷い男!」
「勝手に着火しないでください」
セバスチャンはぴしゃりと言った。
「先を急ぎますので道を開けていただけますか?」
「嫌って言ったら?」
「…力ずくでも」
ゾッと背中が粟立つ。闇の世界に潜む生き物のボルテージ、上げないでほしいなあ貧相な体に堪えるから!
グレルはチェーンソーのエンジンを唸らせて、回転する刃を危なげなく担いでみせた。もしかしてそれも死神の鎌だったりするの?芝刈り機といい、なんでどいつもこいつもそれらしく鎌じゃないんだよ。最近の死神どうなってんの?
「イイわ…強引なのって嫌いじゃナイ」
セバスチャンの殺気を真っ向から浴びているのに、なんの効果もないようだ。やっぱり変態だなこの死神。
「それじゃあラブロマンスより熱い愛し合い、しましょ!!」
セバスチャンが臨戦体制をとったので、俺は伯爵とエリザベスの手を引いた。ドスンバタンドカン。ちょっともう俺の動体視力じゃ二人がどう戦ってんのかまったく分からない。誰かここにシーカー呼んで。くるりと踵を返す。
「先生!?」
「ここは執事くんに任せて先に、…!」
カツン。
真っ白い革靴が俺たちの行手を遮った。靴の持ち主は芝刈り機に体重をかけて、ニヤニヤしながらこちらを見ている。
チッと舌打ちした。その脅威を目の当たりにした後だから、無言の芝刈り機が背後で唸りを上げているチェーンソーとなんら変わりない、命を刈り取る凶器だと俺と伯爵は知ってしまっている。
ロナルド・ノックスは眼鏡の奥ですうっと目を細めた。
「誰かと思ったけど、ふうん?ずいぶん可愛くなっちゃったもんだ」
「そこを退け」
「ご自由にどうぞ」
ナメやがって。
二人から一歩前に出て、無言で杖を取り出した。見た目で相手を侮るとどうなるか、この青二才に骨の髄までみっちりと教え込んでやらないと。
ロナルドが芝刈り機のブレーキに手を添える。杖を握る手に力を込める。
「ステュー──」
失神呪文を最後まで言うことはできなかった。突如、怒涛の水圧が再び俺たちを襲ったからだ。
細い体は踏ん張ることもできずに壁に叩きつけられる。一瞬、意識が飛ぶほどの衝撃が背中を襲った。息がカハっと途切れて、咳き込みながら呼吸を整える。杖を手放さなかっただけまだマシだ。
どうやら、セバスチャンかグレルとかいうあの死神のどちらかの攻撃が壁をブチ破ってしまったらしい。これだから人外は。
「!」
亡者の呻き声が耳に届く。
食堂の入り口に、廊下を埋め尽くすほどの動く死体がゆっくりと押し寄せていた。最悪なことに、水圧に押し出されたエリザベスが奴らの目の前に倒れている。
慌てて身を起こした俺の背後に、ムカつくほど磨き上げられた鋭利な白い革靴が迫る。
「ハイ通りまーす!」
「がッ!?」
イッた。絶対にあばらイッたって。
激痛すぎてまともに顔を上げられない。息ができない。伯爵があんなに叫んでいるのに、彼の婚約者を助けに行けない。ショタ俺をなんの遠慮もなく蹴っ飛ばしてロナルドによって、セバスチャンは助けの手を阻まれている。伯爵が発砲するのが見えた。だけど、足りない。たった数発の弾丸じゃ、奴らを止められやしない。
八方塞がり。状況は絶望的。
だけど、ロナルド。お前は俺をナメすぎだ。
息ができなくったって、体を起こせなくったって。熟練の魔法使いは、杖腕さえ動けばたとえ口に出さずとも魔法の力を行使できる。相手に何の警告も与えず、一瞬の先手さえとることができるのだ。
「(インペディメンタ)」
無言で放たれた妨害の呪文は、正しくその効果を発揮した。
セバスチャンの行方を阻んでいたロナルドの体が硬直する。死神相手ならもって数秒。だけど悪魔にとっては十分すぎるほどの時間だ。
驚くロナルドを振りはらったセバスチャンがエリザベスに向かって走る。伯爵の弾丸が尽きる。未だ起き上がれない俺。呪文を放つのには邪魔すぎる壁と柱。
だけど。
ああ、これは。
「あ。あたし」
エリザベスの細い声が、はっきりと耳に届く。この場にいる全員に絶望をもたらすかのように。
あと一歩及ばない。ほんの数秒が届かない。伯爵も執事くんも分かっていながら、彼女にうんと手を伸ばしている。
「シエルの前では最後まで…可愛い姿でいたかったな…」
伯爵の悲痛な絶叫が、鼓膜を叩いた。
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