04


「女王の番犬?」

美しく輝く広大な湖面。波打ち際、裸足で駆ける後輩諸君のはしゃぎ声。青春の一ページ。遠い思い出をくすぐる情景。そういったキラキラしたものはほど遠いどころか、あまりに物騒な単語を聞いた気がして俺は振り返った。
『必要の部屋』は、いつの時代も正しく求めているものを揃えてくれる。
石造りの壁はひんやりとしていて、イギリスの短い夏がもたらす熱を遠ざけてくれていた。牛革のソファに腰かけて、長い足を組み、おどろおどろしい闇の魔術にまつわる蔵書のページを捲る美形の青年。レイモンド・ファントムハイヴは、珍しくスリザリンのローブも脱いで、襟を緩めて読書に耽っていたところだ。俺でも思う、今年の夏は殊更に暑い。

「英国裏社会の秩序さ」

レイモンドはさっきからずっとページを捲っていなかった。それどころか、その指は文字すら追っていない。俺は空気を読むと顔だけじゃなく、ちゃんと体も振り返った。もしかしたら、話す機会をずっと伺っていたのかもしれない。そう思って。

「ファントムハイヴ家は何代にも渡って英国王室の密命のもと、政府の汚れ役を引き受けてきた。表舞台に立つことはない。政敵を殺し、外敵を排除し…『悪の貴族』と、知っている者はそう囁く」
「へえ…」
「幼い頃はよく誘拐されかけたよ。実際、誘拐されたこともある」

消息不明になることなくここにいるってことは、その度にどうにかしてきたんだろうな。家族や親戚の中で魔法使いなのはコイツだけらしいし。
誘拐されたのは彼だけだろうか。それとも、他の兄姉も同じような目に遭ったのかね。
死の淵に立たされるたび、子どもらしくない、けろりとした顔で屋敷の玄関まで戻ってきている様子が目に浮かぶ。コイツの親、よく卒倒しなかったな。

「(それも織り込み済みだったんだとしたら?)」

魔法使いを飼い慣らす方法つって、『女王陛下』は辞書でも引いたのかね。
伯爵家の次男は、長男に何かあった時のために同じように教育を施されるらしい。ペアとスペアってか。まあでも、そういうことだ。なのにホグワーツに通えているのは、通えっていう命令があったのかな。学び得た経験と知識をまるっと英国王室に捧げろって?あり得なくもない。だって魔法使いはマグルなんてどうにでもしてやれる。政敵の暗殺も外交の掌握も、杖のひと振り。すべてが思いのまま。
するとコイツは、卒業したら、命令のままにマグル界へ帰っていくのか。

「レイモンド」

ようやく呼び慣れつつある、新しい名前でもって男に呼びかけた。古めかしい、長い名前。
俺はただの一度もコイツを愛称で読んだことがない。過去も今も、そしてきっと、これからも。

「お前も女王の番犬になるのか?レイモンド」
「僕は──なれない」

冷え冷えとした壁に向かって、レイモンドは話しかけた。

「爵位を継ぐことができるのは常に長子、ひとりだけだ。兄は許嫁と結婚するだろうし…子どもがいないならありうるが、子どもがいれば、兄が死んだところで親に爵位は戻らない。僕や姉が継ぐこともできない。子どもが継ぐ。爵位とはそういうものなんだ」
「じゃあお前、卒業したら何すんの?」

瞬きの間に本棚がひとりでに増えた。俺たちが考えていることを『必要の部屋』は的確に汲み取ったらしい。
懐かしくも目新しい『進路指導』の貼り紙が談話室に掲示されたのは、ついこの間のことだ。
季節は五月。ふくろう試験が目前に迫っている。その前に、ホグワーツの五年生は将来と具体的に向き合うための最初の機会を与えられる。生徒は寮監と面談して、職業パンプレットと睨めっこしたり、いくつかの小冊子を机の上に並べてみたりするのだ。
サラリー魔ン、司書、グリンゴッツ、ガード魔ン、そして闇祓い。『必要の部屋』の本棚に、目まぐるしくパンフレットが増えていく。

「牧師でもやるさ」

けれど、レイモンドはそのどれも見ちゃいなかった。

「医者は向いていない。どこぞの貴族の娘と結婚するつもりもない。軍人という柄でもないし」
「聖職者はもっと柄じゃないだろ」
「ふ…違いない」

なんか言い返せよ。
俺は込み上げる言葉を飲み込んで、無理やり窓の外へ目をやった。大イカが生徒の片足を持ち上げては湖に落として遊んでいる。懐かしい。あんな風にはしゃいでいた時期が、俺たちにもあった。瞬きのうちに、思い出が脳裏を駆けて消えていく。流れ星みたいに。

はしたなくはしゃいで羽目外す──って、誰が言ったんだっけ。

バカなことをやって、言って、たまに雷を落とされて。罰則すら楽しんでいた俺たちを包む鬱陶しいほどの賑やかさはもう戻らない過去にある。あるいは、遠い未来に。
フレッド、ジョージ、リー。
あいつら以上の存在はどこにもいない。同じ部屋で寝起きする連中はいるけど、あいつら以上にはなり得ない。長い年月を過ごせば過ごすほど、嫌でも痛感してしまう。窓の外を見ようともしないレイモンドも、そう感じているに違いない。
ホグワーツに入学して五年が経とうとしている。退学にならなけりゃ、あともう二年を過ごす予定だ。七年という歳月は俺たちの魔法使いとしての在り方をより深く、より強固にしてくれるに違いない。
俺は将来のことをなんにも決めちゃいないけど、魔法界に留まることだけは間違いなかった。ちらとも考えもしないほど、当たり前の決定事項だ。だって魔法使いだから。

なのにレイモンドはぜんぶ捨ててマグル界に戻ると言う。

思い返せば、俺の知る限り、レイモンド・ファントムハイヴに親友たりえる学友はいない。恋人もいない。彼を心から惜しむ誰かがいないのだ。
誰とでも分け隔てなく接しているということは、気付いた人間関係はどれも薄っぺらいものだということ。そうしてきたのは、入学した時からマグル界に戻ることになるって分かってたからだろうか。もしくは、誰かにそう定められていたか。
最初から決まっていたら、なんで。

「(なんで)」

うっかり本音が零れそうになったのを飲み込んでおく。
俺も青春の一ページに背を向けた。本棚からあっという間にパンフレットや小冊子が消えていく。俺が必要ないと判断したからだ。『必要の部屋』からは、それらしいものはひとつも無くなった。
本音なんか言えるわけないだろ。子どもの駄々みたいなもんなのに。俺の浅ましい感情に比べれば、レイモンドの高潔さは、考えてみれば当たり前のことだった。当たり前に変わるはずのない、ことだった。

愛する家族がいっとう大切な男だ。

身につけた知識も力も、ぜんぶ家族を守るためのもの。もしも害する奴がいたなら、ソイツのことを地獄の底まで追いかけていく覚悟だってしている。そのためなら毒薬だって煽るし、死んでみせるし、家族に嘘だってついてみせる。自分のことはどうにだって犠牲にできるけど、それを犠牲だとは思っちゃいない。心から。
考えてみれば、って言ったけど、考えるまでもなかった。そう、俺の知るコイツなら、魔法使いとしてのレイモンド・ファントムハイヴを惜しみなんてしないだろう。惜しまないようにしてみせるんだろう。バカなやつ。
でも、そういうところを何よりも誇らしく思えてしまう。
レグルス・アディントンは、そういう男だったから。

「そういうものなんだよ」

知らない男は、俺の知らない話をつらつらと並べたてた。

「伯爵家に長子以外の子が生まれたら、その子どもは領地に居を構えて、医者や牧師になるものなんだ。爵位を継ぐ長子の手助けをする。僕の場合は『女王の番犬』としての仕事も請け負うことになるだろうが」
「…、人を殺すってことか?」
「もう殺している」

唇を噛む。
目の前にいるのに、とても遠いところで声がした気がした。

俺は離れたところにあったもう一つの牛革の椅子を引きずって──ガリガリと削られる音がしたけど無視して──肘当てと肘当てをガンとぶつかるほど近くに置いて、ドカッと腰かけた。こちらに向いていた長い足を蹴って追いやっておく。

「じゃあ、俺も」

見慣れないブルネットの髪。見慣れた灰色の瞳。でもきっと、すぐに見慣れるようになる。見慣れたと思う頃には、コイツは魔法界からいなくなってしまう。
寂寥感なんて抱かない。抱く暇もないはずだ。

「俺もやる」
「なんだと?」
「俺も手伝う。『女王の番犬』の仕事」

レイモンドが驚きのあまり固まっていたのは一瞬だ。レイモンドは俺の肩を強く掴んで、自分に向き合うように引っ張った。

「馬鹿なことを言うのはよせ」
「バカじゃありませぇん」
「自分何を言っているのか分かっているのか!?」
「うん」

英国裏社会の秩序。政府の汚れ役。悪の貴族。ああ、物騒な言葉のオンパレードだよな。
それがどうした。

「いいんだ」

レイモンド・ファントムハイヴに親友たりえる学友はいない。恋人はいない。ホグワーツを卒業した後の彼の行方を知る者も、きっといなくなる。
魔法使いのレイモンドの代わりに立つのは英国裏社会の必殺仕事人ってか。ふざけんな。厨二病も過ぎればプレティーン野郎の二の舞だ。プレティーン野郎になるってことはな、あれだぞ。自分の周りに誰もいなくなるってことなんだぞ。
コイツをあいつみたいにしてたまるか。ひとりきりで血まみれにして、ひとりきりで地獄へ歩かせてたるか。
そう決意した瞬間、俺の将来は決まっていた。

「いいんだよ。レイモンド」

思えば今の俺には救うべき弟も、宿命も、しがらみも、なんにもない。生きるのに一生懸命になる必要がなかったと言ってもいい。
ところがレイモンドは違う。助けるべき兄貴がいて、伯爵家の、女王の番犬の三男坊としての宿命を抱えている。がんじがらめになっている。それ以上を持てないから、ほかのすべてを捨てていくと言う。
話は簡単だ。コイツがそうやって手放さざるを得ないものを、俺が代わりに握っておいてやればいいだけなんだから。
もちろん、やり方は心得ている。俺の両手は空っぽだから、抱えているのに不自由はないはずだ。
だから、そんな顔するなよ。






一瞬、意識を飛ばして夢のようなものを見ていた気がする。もしかすると、今見ているものこそが夢なのかもしれない。
エリザベスがサーベル両手に動く死体を斬って捨てて、壁走りまでこなしながら無双してるなんて夢に決まってるだろ。夢だ。そうに違いない。
一回強く目を閉じて、カッと目を見開いた。
この鳩尾の痛みが夢なわけあるか!

「インペディメンタ!」

痛みを堪えて、杖先をエリザベスに迫る死体共に向けて叫ぶ。硬直した木偶の坊の頭を、エリザベスはまとめて斬り捨てた。やっぱ夢じゃないんだな。

「!」

呪文を放ったのがまずかったのか。
動く死体共は目の前にいるエリザベスからなぜだか標的を変えて、俺の方に向かってきた。とっくに眼球が腐り落ち、落ち窪んだ眼窩の空洞がひとつ残らずこちらを向いていた。
ゾワッ。ホラー案件はご勘弁願いたい。
咳をしながら壁に頼りつつ、再び妨害の呪文を放つ。でも、エリザベスの方がもっと速い。俺が痛みを堪えながら杖を振るよりも早く、彼女はレースの裾が翻るのも構わず、死体に蹴りを入れていた。瞬きの間にすべての死体が斬り伏せられていく。圧巻の一言だ。

「レディ」

とどめとばかりにグレルへ向かったエリザベスの矛先は、セバスチャンが指二本で止めていた。こっちもすげえ。

「これ以上は」
「セバス、チャン…?」
「レディにこのようなお手間を掛けさせてしまうとは…執事失格です。申し訳ございません」

セバスチャンは膝をつき、息をつくエリザベスに向かって深々と頭を下げた。それ今やってる場合かなあ。
エリザベスを後ろに引かせたセバスチャンは改めて臨戦体制をとった。俺も鳩尾をさすりながら駆け寄って、ロナルドに杖を突きつけてみせる。ショタに革靴で蹴り入れてくれた恨み、ここで晴らさでおくべきか。

「待て!二人とも」

伯爵が鋭く叫んだ。

「そんな奴に構ってる場合じゃない!今回の件はリアンが全てを握ってる。奴を追うぞ!」
「アーン?」

グレルは死神の鎌デスサイズのエンジンを止めて肩に担ぎ上げた。

「ちょっとアンタ。そいつを締め上げれば動く死体について分かるワケ?」
「先輩、先輩」

手帳を捲っていたロナルドがグレルに向かって耳打ちする。

「コレ」
「ン〜〜〜〜?」

黄緑色に光目が四つ、あるページを凝視する。何が書いてあるんだろう。ネタバレかな。

ナルホド・・・・。確かに遊んでる場合じゃなさソーネ」

グレルはヒラリと身を翻すと、天井に空いた丸い穴に軽やかに着地した。え?やっぱネタバレ?

「残念だけど今回はここまでねセバスちゃん。次こそアナタを薔薇色で包んでア・ゲ・ル♡じゃあね〜〜♡」

さっきまで命を奪い合っていたとは思えないほどあっさりと引き下がった死神コンビの足音が遠ざかっていく。どうやら本当にここまでらしい。ハッとした。俺たちも呆気に取られてる場合じゃなかった。

「僕らも急いで…うっ」
「伯爵!」

どうやら水圧の衝撃で足を挫いてしまっていたらしい。俺は慌てて患部の状態を診た。どうやら軽い捻挫のようだし、この程度ならビューンヒョイでなんとかなる。
念のため、杖を振るった後に患部を押してみた。伯爵に痛がっている様子は見られないし、我慢しているわけでもなさそうだ。ほっと息をついた。

「そうだな…安静にしておけば、明日には歩けるようになるよ」
「じゃあ私がおぶってあげる!」
「なっ!?」

伯爵はショックを受けて固まってしまった。俺も苦笑い。いくらエリザベスの身体能力が優れているのだとしても、それはちょっと、男としてのプライドがレダクトマキシマしてしまう。
セバスチャンも、遠慮がちに言葉を濁した。

「エリザベス様、それは私が…さすがに」
「えっ?あっ!そうか、そうよねあたしったら、あたし…」

ボロッ。
緑色の大きな瞳から、大粒の涙が溢れて落ちていく。伯爵も、セバスチャンもそして俺も固まる。声も出ない男三人の前で、エリザベスは顔を覆って泣き始めてしまった。

「あたしシエルの嫌いな怖い女の子なの〜〜!」
「はっ!?なんだそれは」
「だって昔、強いお嫁さんはヤダって言ったじゃない〜〜!」

そりゃあ幼き日の伯爵が悪いな。俺はジト目で伯爵を見つめた。男は発言ってものに責任を取らないと。
女はいつだって、どこにいても強かなもんだ。頭のなかに幾人もの魔女達が思い浮かべる。男なんか、あの人たちにたとえ束になったって敵うわけがないんだよ。皆嫁さんの尻に引かれてたし。
伯爵も、いつの日かそうなるんだろうな。

「そ…そんなの、昔の話だろう。それに謝るのは僕の方だ」
「じゃあお嫁さんにしてくれる?嫌いにならない?」
「嫌いなワケ、…」

伯爵が俺たちの無言の視線を受け止めて、みるみる真っ赤になっていく。ようやく思い出してくれたようで何よりだよ。今ここに、俺たちもいるってことをさ。
ついにセバスチャンも吹き出した。悪魔にとってはあまりに茶番で、くだらないやりとりだったに違いない。

「今はそんな場合じゃない!早く上に行くぞ!」
「いえーすマイロード。…フスッ」
「黙れ!」
「いっっって!!」

そんなに強く叩かれたら今の俺のあばらにものすごく効くんだぜ、伯爵…。
とはいえ、放置も移動に支障が出るので簡単な治癒魔法を施しておいた。ハナハッカを飲めば一発なんだけどなあ。縮み薬の効果が切れるまで、まだまだかかる。

「スマイル!」

誰かが水を蹴散らす勢いで走ってきた。スネークくんだ。
ところでその独特な呼び方はいったい何?

「皆無事でよかったわ、ってエミリーが言ってる」
「リアンは?」
「悪い、逃げられちまった…ってオスカーが言ってる」
「そうか…」

伯爵を抱き上げたセバスチャンは、みんなをぐるりと見渡した。切り裂かれた壁からとめどなく海水があふれていて、その勢いはまったく落ち着く気配がない。

「一度、公爵家の皆様と合流しましょう」

一等旅客用デッキは、救命胴衣を着込んだ乗客でごった返していた。途中でスネークくんが抱き上げてようかと提案してくれたけど、丁重にお断させていただく。違う意味で気が遠くなりそうなので。
で。

「…もっと、方法があっただろう」
「スマセン…」

再会したレイモンドは、縮んだ俺を見るや否やすべてを察してくれたらしい。まるで悪夢でも見ているような形相で固まって、顔を覆ってしまった。分かる。本当に申し訳ない。絞り出された文句も甘んじて受け止めた。

「ほんとにごめん。コレじゃお荷物確定だよな」
「いや、そうじゃなく…」
「?」

不明瞭にブツブツ何かを繰り返したレイモンドは、最後にひとつ重たいため息でそれを打ちきると、くるりと踵を返した。他のみんなも再会の挨拶を済ませることができたようだ。まあ、そんな悠長にはしていられないよね。

「さあシエル、それに執事も、早くボートへ…」
「エドワード。頼みがある」

伯爵は彼の言葉を遮ると、親指でスネークくんを指差した。

「僕の代わりにコイツを乗せてくれ」
「!?」
「僕はまだボートに乗れない」

そういえば伯爵は暁学会や動く死体について執拗にリアンに聞いていたような。伯爵は、そのあたりを調べに来ていたのかもしれない。
ああ、なるほどね。まだ乗れないって、そういうこと。『女王の番犬』の仕事は終わっていないどころか、まだ始まってもいない──といったところか。自分で言うのもなんだけど、フレーズ選びがイカしてない?
うんうんと頷いていたら、俺も両脇下にレイモンドの手のひらが通った。なぜだかそのまま抱えられて、エリザベスの兄でレイモンドの甥っ子であるエドワードの腕の中にポトっと落とされる。
え?

「エドワード。すまないがコイツも頼む」
「は!?」
「え?ええ、構いませんが…」

ごめんね甥っ子くんその二!君は俺と初対面だから誰だか分かんなくて混乱しちゃうよね!
俺は甥っ子くんの腕の中でもぞもぞと暴れた。

「おい、レイモンド!」
「怪我人を連れて行けるわけないだろう。熱も出ている」

うっ。バレていたか。
気付かれないように肋骨あたりをさすってたつもりなんだけどな。
エピスキーは癒しの呪文のひとつではあるけれど、その治癒効果は軽い怪我にしか完璧な効果を発揮しない。伯爵みたいな重めの捻挫とか、俺みたいな骨折案件になってくるとの呪文は気休め程度のものだ。もちろん、安静にして定期的に呪文を唱え続け、魔法薬も投与すればその限りではないけれど。
ていうか?発熱?自分じゃ分かんないもんだね。

「シエルが行くならアタシも、ッ!?」
「失礼」
「執事!?」

一発。
鮮やかな手刀によってエリザベスの意識は奪われた。セバスチャンは崩れ落ちた彼女をしっかり受け止める。俺は空気を読んで、甥っ子くんの腕の中から滑り降りた。

「エリザベス様に納得していただくにはお時間が掛かりそうでしたので、少々手荒な手段を取らせていただきました。あとでどのような処罰でも」
「いや…ありがたい。俺じゃ妹の後ろは取れん」

マジか。エリザベスってミッドフォード家の末っ子だよね?
セバスチャンは抱きかかえたエリザベスを兄貴に手渡すと、改めて甲板を見渡した。

「大分船が傾いてきている…時間の問題です。急いで脱出し、出来るだけ船から離れて下さい」
「リジーとスネークを頼みます」
「エドワード。ケニーをよろしく頼む」

三人は救命胴衣も身につけず、人々とは反対側へ走り出した。キュッと唇を噛みしめる。

「戻って来なくていいぞ!」

不意に、人々の騒めきをかき消してしまいそうなボリュームでエドワードが叫んだ。

「可愛い妹を嫁にやらなくて済む!」
「…必ず戻ります」

不敵に笑い、今度こそ走り去っていく伯爵。うーんカッコいい。
さて。
二人と共に走り去っていったレイモンドの後ろ姿が完全に消えたのを見計らって、俺は思ったよりもだいぶ背が高いエドワードに向かって呼びかけた。

「甥っ子くん。俺はいいから、あの乳飲み子を連れたマダムを乗せてやってくれ。女性や子どもが優先なんだろ?」
「は?え!?」
「オラどけ成金共!」

控えめに杖を振るう。ドミノ倒しにひっくり返った貴族たちを押し除けて、壁際で赤ん坊を怪していた女性の手を引っ張った。

「坊や…?」
「ボートの席が一人ぶん空いてるんだ。早くこっちへ…頼んだぜ、エドワード!」
「おい待て!君も子どもだろう!」

残念。見た目は子ども頭脳は大人、その名は!ゲフンゲフン。
俺は大人たちの足元へ体を突っ込んで人混みを抜けると、三人の後を追うため走り出したのだった。





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