05
「うおおおおおお」
俺は汗をかきながら走っていた。全速力だ。発熱?骨折?魔法で先送りにしましたとも。このツケは明日の俺が払うので問題ない。明日俺が抱えるであろう痛みは、この瞬間背後に迫っている問題に比べれば実にちっちゃなものだからだ。シャウトせずにはいられない。
「こっち来んなああああ!!」
ひとりで客船の中に戻って、分かったこと。それは、こいつらがより生きた人間が集まっている方に向かって進んでいるということだ。
理解してすぐに甲板への出入り口を塞ぎにかかった。浸水を止めることはできなくても、甲板にいる人々が襲われる心配はなくなるからだ。
出入り口を塞ぎながら出会う生存者は手当たりに次第に窓から叩き出していく。あとは自分で避難してくれ。さすがにそこまで面倒みきれない。すべての通路を確認して回るほどの余裕は残っていないから、文字通りの手当たり次第だ。
そのうちに、生きている人間が周りにいなくなったんだと思う。奴らは全員俺に向かって手を伸ばしてきたというわけだ。そんな状況なのに、こっち来んなって無理な話だよね。話ができる相手でもないわけだし。
「くそっ!」
逃走ルートは限られている。水がどんどん浸水してきているから、下の階に逃げることはできない。となれば上の階だ。目指すは一等旅客用のリアン・ストーカーの部屋。例の動く死体をどうにかできるっていう装置があるって話だしね。はいはい。
ほんとか?ボブは訝しんだ。二回目。
いや、問題は違うところにあるか。ちょっと考えればそんなミラクル機械ありはしないって分かるだろ?ということは、リアンにその装置を本物だと信じ込ませた誰かがいるということになる。そいつ、絶対この船に乗ってないだろ。自信をもってそう言えた。ゲスな企みをする奴は、たいてい離れた場所で高みの見物をキメてるもんだよ。叫びの屋敷とか。思い出したら胸糞悪くなってきたな。
「ペトリフィカス トタルス!」
まとめて数体を硬直させる。石と化した死体の山を這い上り、振り返って大きく杖を振り回した。躊躇いはない。
「インセンディオ!」
分かったことふたつめ。それは、コイツらが炎に弱いということ。なんとなくそうじゃないかなとは思っていた。思い返すのは、幸いにも前の人生で出会うことなく終わった怪物の存在だ。
亡者。闇の魔術によって操られた死体。魔術をかけたものの命令を、声を上げることもなく遂行する哀れな者たち。死体だから体が脆くなってるはずだという予想は当たったし、燃え盛る炎の壁を奴らは突破してこない。死体が燃え盛るのを見るのは、気持ちのいいものではないけどな。
ふと、耳を澄ませた。ドスンバタンと、大勢が暴れているような音がした気がしたからだ。
「(レイモンド達かな)」
そういや、そろそろ一時間経った頃だろうか。いつものように懐に手を突っ込んで、思い出の品とは違うそれを取り出した。
取り出しただけで終わった。
「マーリンの髭!!」
懐中時計って不便なのかもしれないけど、これが普通になっていた俺はいつでもこれを携帯している。だから、まさか水没して壊れてるなんて思いもよらないだろ。いいよ所詮安物だよ!安物だから、特に魔法で防水とかもしてないから、海水被って壊れるのも当たり前!成人祝いのプレゼントとかでもねーよ!クソが!!
ハアハア言いながら怒りを沈めた。時計はそのへんに捨てた。
曲がり角を曲がったところで、ガラスの砕けるものすごい音がしたので足を早める。
「(うお、)」
俺は思わず息を潜めた。シリアスの空気を察知したからだ。
業火絢爛な一等旅客用のラウンジ。煌びやかなしつらえだというのに、そこら中がガラスの破片だらけだ。天井から暗い夜空がそのまま見えている。どうやら天窓の天窓が粉々になって落ちてきた後らしい。
階段の中腹にいるのは、伯爵とセバスチャン。ちょっと離れたところにリアンもいる。なんとびっくり、グレルとロナウドまで揃っていた。なぜか血まみれで床で伸びてるけど。
そして、ラウンジのど真ん中で無傷のレイモンドと対峙しているのは──。
「(俺の股の間から顔を出してた変態…)」
不思議な名前で呼ばれてたな。確か、葬儀屋とかいう。まんまじゃん。
ところで彼、身の丈ほどありそうな恐ろしいデザインの超巨大な鎌持ってるんだけど。まさか死神だったりするわけ?アンタも?葬儀屋だけにってか。面白くねえわ。
ていうかそんなことよりも。
おかしいだろ。死神は、人間の世界に干渉しないと聞いている。いまわの際の人間のところにだけ姿を見せて、勝手に走馬灯を審査したら魂を刈り取り、去っていく。なんのためにそんなことをしていて、どんな審査をしているのかは誰も知らない。でも。
それがどうしてこの場に三人も揃っているんだ。
「さあ、今度は小生が君らを狩ってみせようか?」
ぬらり。持ち主の身の丈を遥かに超す長さの巨大な鎌が牙を剥く。
「 競技狩猟の哀れな兎のように」
死神の鎌の一撃は、たった一振りでラウンジの柱をいくつも切り裂いた。足元がグラグラ揺れる。セバスチャンが頑張って攻撃してるけど、鎌という武器によって生じるリーチ差がありすぎて、なかなか近づけていない。レイモンドも杖を振るって死の一撃の余波を防ごうとしていたけど、盾の呪文はあっさり叩き割られていた。お前得意じゃないだろそれ!杖の性質も防御向きじゃないし!
セバスチャンの飛び蹴りを躱した葬儀屋は、ふわりと浮き上がって、セバスチャンのほど近くにいた伯爵の襟首を捕まえた。
「やっと小生特製の棺に入ってもらえるね伯爵…」
「シエル!」
レイモンドの鋭い叫びよりも速く、セバスチャンが地を蹴った。ご主人様を害する敵の命を刈り取ろうと、悪魔が魔の手を向ける。
ところが、俺が一回瞬きする間に、伯爵とセバスチャンの位置が入れ替わっていた。
違う。葬儀屋が伯爵を、セバスチャンの背後に放り捨てたのだ。
「来ると思った」
セバスチャンが視線だけで伯爵の靴を追う。振り返る。敵を目前にして、セバスチャンは頭から落ちていく伯爵を追いかけた。致命的だ。
ビクッと体が反射で痙攣した。巨大な刃が、深々と肉体に喰い刺さる鈍い音が響き渡る。
「弱くて脆いけれど、ヒトの命を引きずるのは結構大変なんだよ。執事くん」
葬儀屋がゆっくりと刃を抜く。セバスチャンが口から血を零し、目を見開いたまま、落ちていく。
「前から興味あったんだよねェ…害獣風情がどうして燕尾服で執事なんかしてるのか。見せてもらうよ、君の走馬灯」
「、っう」
赤い目が光る。彼の意識が飛んでいたのはきっと一瞬だ。セバスチャンは致命傷に至る一撃を堪えて吠えると、伯爵をなんとか捕まえて階段下に軟着陸した。よ、よくやったと思う。ほんとに。鍛冶場の馬鹿力ってやつかな。
「…君なら、伯爵を守ってくれるって思ってたよ」
葬儀屋はしゃあしゃあと言った。起き上がらないセバスチャンの前に、カツンと靴を鳴らしたレイモンドが立ちはだかる。
「どういうつもりだ」
ああ、聞いたことがある。何度も。これは相当キレてるぞ。
レイモンドは、地を這うような低い声で凄んだ。
「執事が死んでいたら、シエルもただじゃ済まなかった」
「ん?ああ。どうでもいいよ」
「…貴様」
おっとそれは地雷だぜ。
レイモンドが黒い杖を鋭く、突き刺すように振るった。闇の魔術が飛び出して葬儀屋に襲いかかる。死を両断する鎌に魔法はあまり効かないようだけれど、それでも彼を吹き飛ばすほどの威力があった。葬儀屋が叩きつけられた壁に巨大な亀裂が走る。
「我が実家との長きに渡る縁もこれきりだ。私が直接引導を渡してやる」
「(ギエエエエエ)」
誰かアイツを止めて!!沈む前に船が壊れる!!
「困ったねェ」
葬儀屋はまったく困っていなそうな声音でやれやれと肩を竦めると、余裕の表情で呪いの奔流を避けていた。怖っ。
「魔法は厄介この上ない…ここで消えてもらおうかな」
と、その時。
船全体が大きく揺れた。そして、すぐに揺れが気にならなくなるくらいの爆音でもって部屋全体が軋み始める。その場にいた全員がひとまず戦闘を中断せざるを得なかったのは、こうやって考えている瞬間にも視界が斜めになっていくからで。
思わずそのへんの手すりに全体重を預けた。床が壁に、壁が天井へと変わっていく。浸水した水の重みで、船が傾いているのだ。
「うわあああああ!!」
瞬きの間に、誰かが目の前を滑り落ちていった。リアン・ストーカー──例の医者だ。こんなだだっ広い、ダンスフロア並の空間で端から端まで滑って叩きつけられたら一発でお陀仏だ。
俺は迷いなく杖を振るった。
「アレスト・モメンタム!」
リアンは叩きつけられる直前で急停止し、ベシャッと床に落ち着いた。うめき声が聞こえたからたぶん生きているんだろう。ほっと息をつく。
「リアン・ストーカー。一八五四年八月二十四日生まれ」
グレル・サトクリフが黒い革の小さな手帳を読み上げた。
「一八八九年四月二十日、転落事故により死亡──のハズ。だった」
「たった今までね」
壊れた階段の上に立ったロナルド・ノックスはパンと手帳を閉じると懐にしまった。マジの顔をして俺を睨んでいる。なんだろうあの手帳。さしあたり、ちっちゃなデス予定ノートってところかな。
「アンタ何者?普通、人間の寿命なんて、ほんの僅かでも書き換えらえるモノじゃないんだよ」
「そう凄まれても…」
俺は首を傾げるポーズをしておいた。人間の生き死にって、それこそ人間の力でどうこうできるものじゃない。ただただ偶然の上に成り立ってるものだから、それこそ簡単に伸びたり縮んだりするものなんじゃないですかね。
三回マジに死にかけて、三回とも偶然に誰かのおかげで助かってきた俺が言うんだから間違いない。
「…本当に時間がナイわ」
遠くで甲板につめかけたであろう乗船客の悲鳴も聞こえて、だろうなと思う。こんな極寒で海水に落ちたら一発で凍死確定。なお魔法使いを除く。
「セバスちゃん、悪いけどアイツは私がいただくわ。アンタはそこで見てなさい」
「!そうは…」
「させない」
バーン。俺の顔のすぐ横に閃光がぶち当たって炸裂した。遅れて心臓がどら金のように鳴り始める。
レイモンド・ファントムハイヴは葬儀屋を睨みつけながらそちらを見もせずにロナルドを攻撃してみせるという、離れ技をやってのけたらしい。怖すぎた。
「全員その場を動くな。動いた者から殺す」
「この状況で!?」
「…ケニー、君は口も閉じていろ」
思わずツッコミしたらシリアス顔で凄まれた。シリアスをボケで中和しようとしただけなのに。タイミングというものがある?そうかもしれないね。
水に濡れて、美しく輝く黒い革靴がひとつ音をたてて、一歩前に出た。
「シエルは任せた」
「!」
俺に灰色の瞳が一瞥をくれた瞬間、視界の半分が紫色の光でいっぱいになった。杖を振るう。
伯爵を抱えたセバスチャンに向かって振り下ろされたロナルドの死神の鎌が、鈍い音をたてて盾の呪文に弾かれた。床と化した壁に軟着陸したセバスチャンは青い顔で血を吐いている。うーん、これは主従まとめて非戦闘員枠だな。
「瀕死の悪魔をいたぶる趣味でもあるわけ?」
「魔法使いのクソガキをいたぶる趣味もないんだけどね──、ッ!?」
無言で衝撃呪文二連発、からの姿くらましで背後をとる。あわやというところでロナルドは反応して、俺の麻痺呪文を死神の鎌で弾いてみせた。ちくしょう、大人の体だったら吹き飛ばせる威力でもって圧倒していたのに。
「いたぶる?」
くるくるくる、と杖を回してそこらの瓦礫をまとめて浮かせてみせる。ロナルドの顔がはっきりと強ばったのでドヤ顔しておいた。
魔法は経験と技量と心のスタミナ──笑うところだ──で操る。たとえ四歳児だって本気になれば、数百キロ離れた街にやったこともない魔法を操って、瞬間移動できるんだからな。実年齢はおろか、肉体年齢はなんら関係ない。
「勘違いすんな。俺がいたぶってやってんだよ」
「ちょ、待っ」
「オラ全部ブッた切ってみろや!」
隕石が突っ込むかと思うスピードで振り落としても芝刈り機の刃が当たれば豆腐のように切り裂かれてしまう。まったく、アレだけが厄介だ。こっちに突っ込んでこないよう常に距離をとらなければならないし、ロナルドが伯爵達の方へ行くのも防がなければならない。
ところが、ロナルドの動きに先ほどまでのようなキレはなかった。葬儀屋に相当いたぶられたんだろうね。かわいそう。欠片もマジに思っていない感想をチラッと脳裏でなぞってから、ロナルドを魔法で捕まえて、葬儀屋やレイモンドと戦っていたグレルの背中に思いきりぶつけてみせた。食らえ鳩尾の恨み。ぺっと唾を吐き出しておいた。
「クソガキに翻弄されてるようじゃまだまだだね」
死神コンビは潰した、セバスチャンも動けない。俺はレイモンドと目配せした。理由は分かんないけど、レイモンドはこいつを本気でぶっ飛ばしたいようなので加勢するまでのこと。
「さて…」
ガタン。
せっかく仕切り直しか、という空気になったのに、船体が再び、しかし今までにない大きさで激しく揺れ始めた。今までと違って傾きが止まらない。重力に負けそうになる俺の体をレイモンドが捕まえる。船全体に凄まじい軋みが広がっている。サーっと血の気が引いた。世界で一番有名な豪華客船海難事故のクライマックスシーンが記憶の底に広がる。
これは。これはマジで、船が沈もうとしているヤツじゃないのか!?
「うわっ!?」
割れた壁から海水が噴水のように噴き出した。視界が奪われる。叩きつける痛みとあまりの冷たさで、一瞬意識が吹き飛んだ。
「さあ…いよいよ別れの時だ。なかなかに面白かったよ」
こんな時でさえゆっくりと言葉を紡ぐ葬儀屋の声が、水しぶきの向こう側でこだましている。
瞬きの間に、左右から黒と赤の塊が飛び出した。セバスチャンとグレルが最後の一撃でもって迫ったのだ。グレルが葬儀屋の死神の鎌を押さえて、セバスチャンの脚が頸動脈を狙っていた。さっきまでいがみあっていたとは思えない超絶連携プレー。
水に濡れた何かが、きらきらと宙を踊る。伯爵はしっかりとそれを捕まえた。
金色の鎖で繋がった、平たい円形の、少し大ぶりなロケットペンダント──俺は職業柄、それが何なのか知っている。遺髪入れだ。
「──伯爵。それはしばらく君に預けよう」
葬儀屋は哀愁のこもった声で懇願した。
「大事に持っていておくれ。小生の宝物なんだ」
葬儀屋はそう呟くと、死神の鎌を大きく振りかぶって、薙いだ。浸水の重みで亀裂が入っていたであろう場所を切り裂けば、当然船体はふたつに割れる。その衝撃たるや、何もかも分からなくなってしまうほどだった。
言葉にできないほどの衝撃と轟音が脳みそをグラグラ揺らす。気付けば俺はほとんど直角になった甲板にいて、俺をしっかりと抱えたレイモンドが杖を振り下ろしていたところだった。
「アクシオ!」
バーン。遠くで何かが空高くうち上がったかと思うとこちら飛んできて──目を丸くする。魔法使いの箒は、俺たちの目の前でぴたりと停止した。
レイモンドは周りのマグルに目もくれずに箒に跨ると、甲板を強く蹴り上げた。
「いいのか?目立つぞ」
「…彼らはどうせ助からない」
レイモンドは感情のこもっていない声で言った。ああ、うん。そうかもしれない。俺は何も言い返さなかった。言い返す覚悟もないので。
シリアスな空気をまとったまま、レイモンドは船の周りを旋回した。真ん中あたりで折れてしまっているカンパニア号の全容が見渡せた。港で見たあの素晴らしい姿はもはや見る影もない。
船は真ん中あたりで折れ曲がり、船首部はほとんど沈んで見えくなっていた。煌びやかな都会の街のようだった船の灯りはすべて消えている。きっと、折れた時に電気室がだめになってしまったんだろう。
船尾の甲板に、たくさんの人が詰めかけて押し合いへし合いしている。悪夢みたいな光景だ。何百人もの人々の悲鳴がここまで聞こえてくる。そのうちの何人かが、瞬きの間に甲板から何十メートルも下の海面に落下していくのが見えた。
きっと船尾が浮かんでいるのも、時間の問題だろう。水をたっぷり詰め込んだ船首に引っ張られて、やがて見えなくなる。船体のすぐそばにも、船の上にも、まだたくさんの生存者が見えた。沈没する時に発生する渦に巻き込まれて、きっと今ここにいる生存者のほとんどは──。
俺は硬い声で言った。
「伯爵を探そう」
レイモンドも無言で箒をぐいと傾けると、船から距離をとって船尾に向かって滑るように飛んだ。
そういかないうちに、俺は思わずレイモンドの裾を引いた。ゆっくりと、しかし確実に船尾が持ち上がっていく。信じがたい光景に、さすがのレイモンドもその場に留まったのが分かった。
折れ曲がった先の船首が完全に海に沈み、その巨大な質量に引っ張られるようにして持ち上がった巨大な三つのスクリューが、海上にその姿を表していく。やがて船尾は完全に直立して、静止した。世界中の誰にも絶対に想像できないような、ありえない光景だった。
俺たちはものも言えずに、その様子に釘付けになっていた。いつまでも見つめてしまいそうだった。俺たちまで吸い込まれてしまいそうだった。
やがて、少しずつ船が軋み始めたかと思うと、少しずつ少しずつ低くなっていった。船尾が沈んでいく。ものすごい音と悲鳴が不協和音を奏でている。
「いた!」
レイモンドは不意に鋭く叫ぶと体勢を低くして、スニッチを見つけたシーカーの技で飛び始めた。目を細める。俺にも見えた──浮き輪を装着された伯爵が放物線を描いて飛んでいる。セバスチャンがぶん投げたのかもしれない。
俺は全力でレイモンドにしがみついた。レイモンドは両手を箒から離して、空中に四肢を投げ出している伯爵を受け止めた。現役時代と変わらないスーパーキャッチだ。スニッチはこんなに大きくないけどね。
箒が急ブレーキをかける。水面ギリギリのところで俺達三人は踏みとどまることに成功した。海面に杖先を向ける。
「グレイシアス」
三人がそこに立てる範囲で氷を作ると、俺たちは揃って辺りを見渡した。レイモンドがずぶ濡れの俺達を杖で撫で回して乾かしてくれたけど、氷点下に近い突き刺すような寒さからは逃れられない。白い息を吐いて、辺りを見渡す。腕を摩った。
カンパニア号が沈んでしまっても、人々の叫びはあちらこちらから聞こえている。人々は捕まるためのカンパニア号の瓦礫を奪い合っていた。死体に捕まる者、生きている者にしがみついて息をしようとする者…。地獄のような光景だった。
耳を澄ます。
ざぶざぶ音がして、救命ボートがひとりでにこっちに向かっているのが見えた。
「セバスチャン!」
「坊ちゃん、ご無事で何よりです」
ボートに乗り上げた血まみれの執事はほっと息をついていた。どうやら沈む船からボート拝借して、これを押しながら泳いできたらしい。
レイモンドはというと、冷たい目でセバスチャンを一瞥して俺たちと同じように彼の衣服を乾かした。目を丸くする。この極寒の海よりも冷たい態度で接してるから、てっきりそのまま捨て置くのかと思った。悪魔だし。
「濡れ鼠のままシエルに触るんじゃない」
「恐れ入ります」
セバスチャンは深々とお辞儀をして、どこからか拾ってきた救命着と自らの燕尾服をシエルに着せている。俺やレイモンドは魔法があるから、多少はやり過ごせるけど伯爵はそうはいかないので。
レイモンドは瞬きして、杖でボートを叩いた。
「…迂回して、姉上達と合流しよう。ここを突っ切るのはまずい」
ボートは滑るように進んだ。人々の叫びは遠ざかり、やがて消えていった。人々の声が届かないほど離れたのか、叫び声を上げる者がいなくなったのか、想像したくもない。俺達はみんなかたく口を閉じたまま、北大西洋の暗い海の向こう側を見つめていた。
不意にボートが大きく傾いだ。つぎはぎだらけの腐った腕がボートの淵に乗り上げようとしている。俺は慌てて杖を振った。
「フリペンド!」
白い光がボートの縁ごと抉り飛ばす。静寂ばかりだった海がいつの間にかいくつものあぶくで波打っており、次々あのゾンビ達が頭をのぞかせていた。慌てて立ち上がる。
「こいつら水の中で動けるのか!?」
「呼吸の必要がないので溺死しないということでしょうか、ッ!」
セバスチャンがボートに登ろうとしたゾンビを蹴り飛ばす。
「なんでこいつら、こんなに…」
「この辺りにいる生存者は、我々だけだということだろう」
レイモンドが言った。
「彼らは身体が朽ち果てるまでただ魂を追い求める──そうだな、執事」
「ええ」
「…なら」
シエルは寒さに震えながらも決然と言った。
「なら、逃げられない。僕らが逃げればリジー達が狙われる…生存者を危険に晒すわけにはいかない!」
レイモンドも同意見のようで、思わず口笛を吹いてしまった。悪であろうとも、高貴な貴族の身分である精神は捨てられないってワケね。
俺は大きく杖を振るって吹き飛ばし呪文を使うと、星々の瞬く夜空を撫でるようになぞった。
「レペロ・マグルカム」
マグル避けの呪文だ。死体もマグル判定してくれればいいなの気持ちをうっすら抱きながら唱えてみたけど、そうもいかないよね。知ってた。
大勢の生存者が遠くにいるけれど、ゾンビ達はみんなこちらを向いている。なるほど、数じゃなく、距離で標的を決めているらしい。ならばやることは決まっていた。
「ここで食い止める。やれるな、セバスチャン」
「使用人に問いかけなど不要です。どうぞご命令を──」
オールを武器にと構えた執事の手を、レイモンドがそっと押さえて下に下げた。俺は驚いている伯爵の肩をぽんと叩いて前に進み出る。
「頭引っ込めといた方がいいぜ執事くん。灰になりたくなきゃな」
「四方二十メートルといったところだ」
「あいよ」
迫り来るゾンビの群れを見据えた。憐れみはない。悲しみも、恐れもない。どうやったって救ってやれない哀れな死体なら、せめて静謐な感情と無慈悲な炎で送ってやろうじゃないの。
俺今カッコいいこと言った?
「「ペスティス・インセンディウム!」」
赤黒い炎が冷たい夜空を激しく照らした。一瞬のことだ。
海底にまで届かんとする悪霊の呪いは火柱でもってそこらじゅうのゾンビを文字通り消し飛ばす。一瞬ののち、海は静寂を取り戻していた。呪いの余韻をはらんだ波打つ音だけがボートにぶつかってこだましている。
「…悪霊の火」
セバスチャンがポツリと漏らした。
「悪霊の火?」
「魔法使いが行使する、おそろしく強力な呪いの一つです。扱いが難しく、操れる魔法使いはごく僅かだと聞きます」
「人生経験が違うんだよ」
大真面目に言ったのに、レイモンドが僅かに吹き出した。
「すまない。その見た目で言うものだから」
「悪かったな」
チッと舌打ちしておいて、俺はセバスチャンの前に座って胸の深い傷をのぞき込んだ。
「陸に着いたら診てやるよ。多少は治りが早くなるかもしれない」
「…ケニー」
「俺の仕事に好き嫌いは関係ありませーん」
文句も受け付けませーんというポーズをとってみせると、レイモンドは黙った。視線は不服そうだったので、肩を竦めてやり過ごす。
レイモンドがなぜこんなにもセバスチャンを目の敵にしているのかを俺が知ることになるのは、夜明けに救助船がやって来て、それに乗り込みイギリスに戻ってからずっと後のことだった。
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