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きっかけは何だっただろうか。
父の死に際を目の当たりにできなかったことかもしれない。母の死に際を目の当たりにしてしまったからかもしれない。全身をなます切りにされる責め苦を味わったからかもしれない。弟と生き別れになってしまったからかもしれない。あの夜、なんにもできなかった生き恥を、十七年間も晒すことになったからかもしれない。
さて、その瞬間に何を感じたかはもう思い出せないけれど。今の俺の心にあるのはただ、怒りだけだ。
両親を殺された怒り。死にかけた怒り。唯一の家族に言えない秘密を抱えた怒り。そのどれもは、押しつけられたものだ。雷の鳴り響く夜に眠りが浅くなることも、吸魂鬼やまね妖怪に二度とお目にかかりたくないことも、ハロウィーンが心底嫌いになったのも、すべて、予言に惑わされたヴォルデモートのせいに他ならない。
眠れない夜は自分自身にそう言って聞かせた。皮膚に爪を立てて、肌を引き裂く必要があった。心臓を握り潰して、真っ赤な血を滴らせる必要があった。十六年前、ハロウィーンの夜に何が起こったのか、何度も何度も反芻する必要があった。そうしなきゃ、俺はとっくに「まとも」になっていただろう。
名前を言ってはいけないあの人。ヴォルデモート卿。否、トム・リドル。あの男を殺すその日まで、俺に安寧は訪れない。それがたとえ──一般的な常識として──安寧ではなく空虚をもたらすのだとしても。
「だれかくる」
もう二度と親しみをこめて名を呼べない弟が突然そう言ったので、俺は素早く立ち上がった。かび臭い墓石の群れ。深くローブを被った人影が見えた瞬間、無言で杖を振るった。
バーンと音がこだます。反響する音に悲鳴を噛み殺した気配がしたのを見逃さない。
「動くな」
隣でハリーが膝をついた。呻いている。それでも視線は外さないし、杖腕は下ろさずにじり、と一歩あえて前に出た。
「余計な者は殺せ!」
「アバダ──」
「ミンブルウィンブル!」
舌もつれの呪いで相手が喉を詰まらせた隙を狙い、もう一度杖を振るった。
「インカーセラス!」
ドサッと音がした。暗がりで、間違いなく大きなものが転がった音だ。油断なく前方に杖を向けながら、地面に転がっている男を見下ろした。ローブを剥ぐ。長い逃亡生活でどんなに容貌が変質しても、記憶がわずかな面影を見出してしまう。反吐が出た。ピーター・ペティグリューに用はない。
顔をしかめた。ちらとだけ見えた、ピーターが抱えていた赤ん坊のような包みがない。自分で動けるはずもないのに。
訪れた静寂を引き裂くように、冷たくかん高い声が叫んだ。
「ナギニ!」
「──、ッッ、ぐ」
体が後ろに引っ張られた瞬間、上半身の左側が燃えるように熱くなった。瞬きの間に自分の左鎖骨に蛇の牙が深々と食い刺さっているのを認識する。もう一度瞬きする頃には、その牙が、自分の肉を食いちぎる痛みを認識していた。
ブチチチ、ゴリッ。理性を総動員して悲鳴を飲み込んだので、目の前が真っ赤になった。目の前にヴォルデモートがいるのに、まさか悲鳴を上げるなんてことは死んでも御免だったからだ。
あ、ヤバ。
ナギニは毒蛇に違いない。確信をもってそう言えた。なぜなら後頭部をバットで殴打されているかと思うほど頭がガンガンするし、視界もグルグル回っている。まるでジェットコースターだ。マグルの娯楽なんてとっくに忘れていたけれど、この内臓がひっくり返りそうな嫌な浮遊感は間違いなく、あれに近い。
おまけに首をねじ切られそうになるほどの激痛は、高速で回転させられることによってもたらされる平衡感覚の喪失によく似ていた。平成に流行った首を痛めたポーズをさせられているモデルだ。
昔は襟足を長くしたり、前髪を鬱陶しいほど伸ばして流したりする髪型がよく流行った。どうしてこんなことを思い出すんだろうか。昔の記憶なんて、とっくに摩耗してすり切れていたはずなのに…。
「(あ、コレ走馬灯か)」
バチバチと音が弾けていた。風も吹いている。鬱陶しくない長さに切った前髪が嬲られる。
瞬きした。長いこと意識を失っていたらしい。なぜなら目の前でハリー・ポッターと、とっくに蘇ったらしいヴォルデモートが一騎討ちをしていた。赤い閃光と緑の閃光は空中でぶつかって、まばゆい金色の雫を撒き散らしながら悲鳴を上げている。
ヴォルデモートの杖が悲鳴を上げた。白いイチイの木でできた長い杖の先から、濃い煙のような手が飛び出して、消えた。次に、ずっと大きい何かが飛び出した。濃い煙の塊のようなものは、老人の頭部を形どった。すぐに腕と胴体が続いて、ステッキに寄りかかる老人の形になった。老人はハリーとヴォルデモートをじろじろ眺めた。
「それじゃ、あいつはほんとの魔法使いだったのか?」
老人の声は遠くから聞こえるように反響していた。老人は二人と、二人を囲んでいる金色の光でできた網と、網を形作っている二本の杖を見ながらそう言った。
「おれを殺しやがった。あいつが…。やっつけろ、坊や…」
既に次の影が現れていた。煙が形どった魔女の顔を俺は知らない。魔女は老人と同じように目を丸くして、目の前の戦いを眺めた。
「放すんじゃないよ。絶対!」
魔女の声も、老人のと同じように、遠くから聞こえてくるように反響した。
「あいつにやられるんじゃないよ、ハリー──杖を放すんじゃないよ!」
老人と魔女は、金色の網の内側に沿って歩き始めた。檻の周りで、知らない黒いローブを羽織った影がたくさんうろうろしている。たぶんヴォルデモートが呼び寄せた死喰い人だ。
ゆっくりと視線をさ迷わせる。ナギニはいない。俺は本当に、長いこと気を失って倒れていたようだ。好都合。目の前に転がっている杖に手を伸ばしても、誰も気付かないに違いない。こちらに目を配る余裕もないはずだ。
左側に杖が落ちているのに左腕がまったく動かないので、気合いを入れて右半身を持ち上げようとした、その時だった。ヴォルデモートの杖から、煙が飛び出した。煙が形づくる者が誰なのか分かった時、俺はここがどこなのか、何をしようとしていたのか一瞬忘れた。
髪の長い、若い魔女がハリーを見つめている。ハリーもまた、クシャクシャの顔で魔女を見つめ返している…。
「お父さんが来ますよ」
若い魔女が静かに言った。
「お父さんのためにも頑張るのよ。大丈夫…頑張って」
そして、魔女と同じくらい若い魔法使いがハリーの傍に降り立った。ジェームズ・ポッターの形をした煙は陽炎のように揺れていて、けれどしっかりした声で言った。遠くで反響するような声なのに、ヴォルデモートには決して聞こえないように囁いた。
「繋がりが切れると、私たちはほんの少しの間しか留まっていられない。それでもおまえのために時間を稼ごう…移動キーのところまで行きなさい。あれがお前をホグワーツに連れて帰ってくれる…分かったね?」
「はい」
ハリーはヴォルデモートのものと同じくらい激しく震えている杖を必死で握りながら、喘ぎ喘ぎ返事をした。
「ハリー」
リリー・ポッターの形をした影が囁いた。
「ハリー、あの子を。あの子もホグワーツへ連れて帰ってちょうだい」
「頼んだよ」
ジェームズ・ポッターの影と目が合ったような気がした。なぜかは分からないし、俺がそう思いたいだけだったかもしれない。四つの影はハリーの姿をヴォルデモートの目から隠すように迫って、実際に俺はハリーを見失った。ヴォルデモートも、奴の後ろにいた死喰い人たちもみんなハリーを見失って、見えなくなっただろう。
頼んだよ、と言ったあの言葉はきっと弟への激励だ。まさか一世一代の土壇場の場面で、役立たずの兄貴が瀕死で転がっていようとは両親も思うまい。役立たず。嫌な記憶がリフレインした。父の死に目にも会えず、母をなすすべなく殺され、嬲られた、過去最高に嫌な記憶だ。
心臓を握り潰した。血が流れる。温度が下がって冷静になれる。見たはずもない父親の死に顔と、目の当たりにした母の死に顔を反芻する。こうやっていつも立ち上がる気力を保っていたのだ。
杖を掴む。
「ボンバーダ!」
渾身の爆発呪文は杖先から火花をほとばしらせ、二メートル先を吹き飛ばした。大理石でできた天使の像がまるごと吹き飛び、大小のつぶてになってバラバラと降り注いだ。俺を死に体だと思っていたらしい死喰い人達が驚きの声を上げたのが分かる。ザマアミロ。
苔むした墓石に寄りかかりながら、なんとか立ち上がろうとした。無理だった。仕方がないので全身に魔法をかける。これは後で反動がくるものだけど、ひとまずこの場を乗り切ることができるならあとでどんな地獄を見ようと構わなかった。
頭を低くしながら走った。向こうもどうやらこちらに気が付いたらしい。頭上を閃光が飛び、数メートル先の墓石を砕いた。
「どけ!俺様が殺してやる。やつは俺様のものだ!」
ヴォルデモートがそう叫んでいるのが聞こえた。目の前にぱっとハリーが躍り出る。ハリーは俺を見て、俺の名前を叫んだ。
「ケニー!!」
ヴォルデモートは突然飛び出してきた獲物だけをひたと見据えていた。その目は歓喜に震えている。赤い目がめらめらと燃えていた。ヴォルデモートとハリーの間には墓石ひとつしかない。ヴォルデモートは杖を構え、今にも振り下ろさんとしている。
千載一遇のチャンスだ──俺も杖を振り上げた。俺のすぐ傍には壁があり、ヴォルデモートの死角になっている。願ってもいないチャンスが転がり出た。ヴォルデモートを殺せる瞬間が、今目の前に。
だからたぶん、ハリーには見えちゃいなかったのだろう。
俺だけを見ていたから。奴に背中を見せてしまっていたから。
その事実を把握したら、ぞっと冷たいものが背中を駆け下りた。冷たさがもたらす痛みは、今この瞬間感じている激痛よりずっと大きな衝撃を俺の脳天に与えた。
立ちすくんだのは一瞬だ。躊躇ったのも、たぶん一瞬。
無事に生き延びて。
母が言い残した最期の言葉だ。
ハリー・ポッターは生き延びなければならない。俺もまた、生き延びなければならない。でも、そのどちらかだけしか生き延びられないような事態に陥ったら?
そんなことを悠長に思考しているいとまは、もちろんなかったけれど。
気付けば俺は死の呪文ではなく呼び寄せ呪文を唱えていたし、驚きのあまり目を丸くするハリーを抱きしめていた。
一瞬前まで動かなかった左手が優勝杯をキャッチしたのは、今年一番の幸運だったに違いない。
夜の帳が落ちていた。
瓦礫の山だ。幼い頃の数年を過ごした生家は見る影もなく吹き飛んでいるのに、生家だと分かったのはなんでだろう。ひゅうひゅうと風が鳴っているのに、まったく寒くない。暑くもない。一体なぜこんなところにいるのか、分からないまま瓦礫の上に座っていた。
「なぜだと思う?」
隣に誰かが腰掛けた。ジェームズ・ポッターの姿をした幻が、俺に微笑みかけている。
俺は状況をよく理解しないまま、バカの顔をしたまま問いかけた。
「俺って死んだの」
「さあ?どうだろう」
「親父のその人を食ったような顔キライ」
「そうか」
罵倒したのに父親の幻は微笑みを崩さなかった。俺の頭が見せる都合のいい幻だから、俺の都合のいいように動くんだろう。そうに違いない。
「お前の心にあるのは後悔だね」
幻は穏やかに言った。
「なぜだい?」
「なんか質問コーナー始まったな…」
俺はのろのろと瞬きした。
「おたよりを受け付けた覚えはないんですけど。何?ここって懺悔室かナニか?」
「どこでもない場所だよ」
「じゃあ言う必要ないだろ、…」
とはいえ、言葉にしなければ話が進まないのもなんとなく理解していた。舌打ちする。
「チッ」
「………」
「分かるだろ。チャンスを棒に振ったからだよ。あの野郎を殺せる、唯一のチャンス…」
「あの場では殺せないことを分かっていただろう」
幻は俺の言葉を遮った。
「ヴォルデモートは敵の血でもって復活した。リリーの護りという障害を、奴は克服した。ハリーにもお前にも、もう傷つけようがない」
「………」
「だがお前は分かっているはずだ。ハリーが分霊箱だということを。すべての分霊箱を破壊しなければ、ヴォルデモートを完全に滅ぼすことはできない」
「………、」
分かっている。分かっているけれど。
「別の手段がある」
俺は駄々をこねた。
「親父は知らないだろうけどさ、人間の尊厳を奪う方法っていくらでもあるぜ。お辞儀する必要なんてない。魔法使いぶって、ビューン、ヒョイってお行儀よくする必要もない。痛めつける方法も苛む方法もさ…」
「その方法を試さなくて良かったよ」
「ローブを取り上げてパンイチにして逆さ吊りにするとか?」
幻は黙った。
「あいつパンイチだったかな。モロだったかもしれない…いやむしろ脱がしたところで恥じらうのかどうか…」
「その疑問を突き詰める必要はあるかい?」
「あるだろ。俺は尊厳を踏み躙って辱めることを容認する」
笑っておいた。
「親父を非難するつもりはないよ。これからもしない。やっちまえばいいって思うからね。尊厳を踏み躙られてバキバキにへし折られたとき、口の中がどんな味になるか、思い知ればいいと思う。できたら俺が思い知らせてやりたい。そのためならどんな思いをしたっていい」
「………」
「そう思ってたんだけどね」
両手を見下ろした。
千載一遇のチャンスを棒に振ってしまったことが惜しい。あんなに傷付けてやりたかったのに、殺してやりたかったのに、そのためならなんにも惜しくなかったのに。
考える前に体が動いてたって、なんて愛らしい。
「獅子頭もここに極まったな」
「獅子頭?」
「寮で流行ってンの。向こうみずだったり無謀だったりすることを尊んで、愛を叫ぶハレンチな赤い連中にピッタリ」
「うーん」
「もうバカにできないって話だよ」
乾いた声を上げた。
「俺って思ってたより血が通ってたみたい。笑える」
「笑うわけがないだろう」
幻は俺を抱きしめた。温度はない。
「お前が心の奥に押し込めた優しさも、決して言葉にしない優しさにも、ちゃんと血が通っているよ」
「…そういうトコも獅子頭って感じ」
「組み分けの寮は選べる。お前も分かっているだろう?」
瞬きした。
六年前の九月一日。頭をすっぽり覆う大きさの帽子が口走りかけた寮の名前。覚えているかと聞かれたら。
「分かンねえよ」
俺は父親の胸板を押した。
「分かンねえから、ここなんじゃないの」
瓦礫に沈んでいる記憶の我が家。玄関の場所も、部屋の間取りも、チェストの上に何が飾ってあったのかも、覚えている。覚えているのに、死に際に思い出す我が家がすっかり破壊され尽くした瓦礫の山なのだとしたら、そういうことだ。俺は温もりを求めちゃいない。心から。
尊厳を踏み躙られたこと。家族のぬくもりを破壊されたこと。忘れようもない。忘れるものかと繰り返し、爪をたてて生きてきたのだから。
「終わりもここ。始まりもここ。俺が死んで生まれた場所だ」
「ケニー」
「いいだろ。もう」
瞬きした。ドアが一枚現れた。
「悪いけど、親父が期待するようには生きられない。そういうのはハリーにだけ期待しといて」
「ケニー、私は」
「質問コーナーは終了しましたァ」
ざくざくと扉に向かって歩いていく。視界の端々に懐かしいものが飛び込んできた。けど、そのどれもを注視することはない。
「私たちは、いつでもお前の傍にいる!お前を支えている。お前が…」
扉を開ける。もう聞こえない。届かない。
瞬きの間に視界は黒く塗り潰され、そして何もかもが遠ざかって、消えた。
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