ハリー・ポッターは絶体絶命の状況に陥っていた。

彼は山ほどの大きさの巨大蜘蛛に囚われている。体中に毛が生えていて、ハつもの黒目がひとつずつハリーを映している。ハリーは巨大な前肢に挟まれ宙吊りになって、動くことができないでいた。蜘蛛を蹴飛ばそうとして、片足が剃刀のような鋏に触れた瞬間、ハリーは激痛に襲われてうめいた。猛毒だ──。
その時、生垣からひょいと黒い影が飛び出した。
ケニー・アディントン。ついさっき別れたばかりの、ホグワーツの正当な代表選手である。ハリーは思わず叫んだ。

「ケニー!逃げて!」

ケニーはこちらを見てさすがに目を見開いた。分かる。こんなにも巨大な大蜘蛛が蠢いているのに、どうして遠くからでも視認できなかったんだろうと思う。おそらく、魔法がかけられていたに違いない。
巨大蜘蛛はズシンズシンと動いた。体の向きを変えて、ケニーに突進したのだ。ハリーはまたしても叫んだが、地鳴りにかき消される。

「………」

彼は落ち着きはらった様子で咥えていた煙草を右手にとると、バチッと指で弾いた。蜘蛛の進行方向へ向かってポイ捨てしたのである。ゆっくりと、火がついたままのそれがスローモーションで弧を描いていく。
それは蜘蛛とわずかに接触し、ヂッと空気を震わせた。

「え、」

ハリーは花火を見た。と思った次の瞬間ドォオン、と巨大な音が迷路に反響した。蜘蛛は大きくのけぞって、八つの肢をすべて空中へ放り出す。ハリーは空が下になって生垣が上になったのをこれまたスローモーションで、なすすべなく見つめていた。彼は蜘蛛に囚われたままである。視界の中で、ハリーを捕らえている脚がスッパリと切り落とされた。

「んぐっ」

地面と衝突するかと思って目を閉じたが、ハリーは腕の中に落下した。轟音がして、地響きが追いかけてくる。蜘蛛は煙を上げてひっくり返り、その巨体で生垣を押し潰していた。
ハリーは、かけている眼鏡が衝撃でずれているのも構わず、あいたままの口もそのままでケニーに抱き上げられていた。彼は細身であると思っていたが、十四歳の体を受け止めているはずのに揺らぎもしない。

「生きてるか?」

ケニー・アディントンはハリーを生垣に預けながら、少しも表情を変えずに言った。ハリーは戸惑いながらも頷いた。
ショックが落ち着けば、現実を受け止めなければならなくなる。
ハリーはケニーの背中越しに、蜘蛛の向こう側を見つめた。三代魔法学校対抗試合の優勝杯が、台座の上でまばゆく輝いている。ハリーは自分の足が満足に動かないことを自覚していた。足はべっとりと血で汚れていて、蜘蛛の鋏の分泌液がてらてらと光っている。

「取りなよ」

ハリーは出し抜けに切り出した。

「優勝杯に一番早く辿り着いた者が優勝なんだ。そういうルールさ」
「それ。それだよ」
「…?」

ケニーは立ち上がると再び煙草に火をつけた。

「俺が聞き逃しちまっただけかもしれないから誰かに聞きたかったんだよな。さっきお前に聞こうとしたのに。黙って行っちまうんだもんお前」
「なんだい?」
「この課題、制限時間あんのかって話」
「…え?」

ケニーは横を向いて煙草の煙を空中に泳がせた。
この男は今なんと言ったのか。

「終わりまで時間潰してんだわ。いつ終わるかお前聞いてる?」
「………ううん」
「ハ?」

ドスの効いた声で唸られたのでハリーはびくっとした。

「ほ、ほんとなんだ。バグマンは時間制限なんて説明しなかったよ。きっと第二の課題の時とは違うんだ。ただ一番最初に優勝杯をとった者が優勝だって──きっとそれで課題も終わるんだよ」
「ハー…」

ケニーはうんざりとした顔でザリザリと首をかくと、煙草を咥えてドサっと座り込んだ。

「クソか。何してんだよお前…早く優勝杯取りに行けよ」
「なんてこと言うんだよ。この足が見えないのかい?」
「めんどくせ…」

ケニーは素早く右手を振った。ひとりでに浮かび上がった優勝杯が、ハリーの足元にゴトッと落下する。

「ほら」
「あんまりだよ!」

ハリーは思わず状況を忘れて怒鳴った。数分前に助けてもらった恩があるというのに、感謝の気持ちなど吹き飛んでしまった。それほどの侮辱である。ケニーはというと煩わしそうな顔として「うるせえな」と肩をすくめた。

「お前は優勝したいのかもしれねえけど俺はマッジで嫌なんだよ。永遠の栄光とか賞金とかマジでいらねえ」
「僕だってこんなのは嫌だよ。そもそも僕は、誰かに勝手にゴブレットの中に名前を入れられたんだ。代表選手になってみたかったのは本当だけど…こんなのは違う」
「知ってる」

ケニーは地面に無造作に灰を落としていた。

「つかそれ俺もだし」

まあ俺の場合は誰が入れたのか知ってんだけどな。ケニーがうっそりと笑うのでハリーは身震いした。ハリーは大広間で、ケニーの名前を入れた生徒がどのように落とし前をつけさせられているのかを目の当たりにしていたのだ。

「お前は?まだ分かんねえの、誰が入れたのか」
「まだ分からないままだよ」
「フーン…」

お互いの会話が途切れたので、ハリーはじっとケニーの横顔を見つめた。不思議と沈黙が嫌ではなかった。
彼は唇で器用に煙草を挟んでいた。ただ地面にあぐらをかいて自分の膝に肘をついているだけなのに、それが妙に様になっていたので、ハリーは少し遅れて「いた」と呟いた。
大蜘蛛が吸いかけの煙草一本で爆発した時から忘れていた痛みを思い出したのだ。
ケニーの唇が動く。ハリーは首を傾げた。

「なに?」
「犯人。分かってねえって言ったよな」
「ウン」
「なんで分かんねえの?」
「ウン…え?」

生垣が不安を煽る音でサワサワ揺れた。

「鈍いよなあ、お前も、ダンブルドアも」
「待って。え?ダンブルドア?」
「毎年のことだろうが。学校がしっちゃかめっちゃかになる原因、だいたいがお前もしくはお前つまりお前」

ケニー煙草を人差し指と中指でつまんだまま、反対側の手で指折り数えた。

「一年目はトロールをぶっ飛ばしただろ。二年目は地下の怪物をぶっ殺して、三年目は、お前を狙って殺人鬼シリウス・ブラックが乗り込んできた」
「シリウスは殺人鬼じゃない」
「そうだった」

ケニーは構わず続けた。

「なんでだった?」
「なにが?」
「お前ほんとバカだな」
「バ…!?」
「何回もしっちゃかめっちゃかにされたらそうなるのかよ…俺も気をつけよ…」

本当にかわいそうなものを見る目をされたのでハリーは怒りでちょっとだけ痛みを忘れた。ケニーはサリサリと首を引っ掻いて、「だからさァ」とよちよち歩きの三歳児に言い聞かせるような優しい口調になる。

「トロールを女子トイレに置いたのは誰だ?地下の怪物をけしかけてマグル生まれを追い立てたのは誰だ?シリウス・ブラックが脱獄してまで追いかけてきたのは──まあ違うにしても、奴が従ってたのは誰だった?」
「…!」
「ちったあ頭回せ。そんだけ巻き込まれてんだから、今回も同じだって分かるだろ」

ハリーはまばたきして、やっぱり足の痛みを忘れたまま、囁くように言った。

「ヴォルデモート…」
「ん」
「君は今回のことを、ヴォルデモートが、裏で糸を引いていると思っているの?」
「分かってんじゃねえか」

ハリーは言葉をなくして彼を見つめた。赤い眼差しが更けた夜の闇の中でほんのり暗い色に溶けていて、それを見つめていると喉が乾くような気持ちになる。
ヴォルデモート、と囁くようにあの名前を口にしたときから、ハリーの口の中は乾いていた。

「どうして?」
「ア?」
「ヴォルデモートが生きてるって信じてる人はとても少ないんだ。君はどうしてそう思うの?」
「………。マジで鈍いのな。当事者だろ?お前」

ちょっと黙ったケニーは信じられないものを見るような目でハリーを見つめ返した。黒くてクシャクシャの、今は少し乱れている髪を見る。だらっと無防備に放り出されている肢を見下ろして…それから、自分を見つめ返している無垢な緑の瞳を見て、スコンと納得した。

なるほど、と。そりゃあ鈍るわけだ、と。
つまりコイツは、ガキの頃に殺されかけたコイツはずっと守られてきたのだ。二度とそういう脅威に晒すまいと、大人たちが必死になって囲ってきたというわけだ。
あるいはコイツ生来の性格かもしれないが。
一方で、そういう事情があるならば仕方のないことだ、とも思う。
コイツはまだ十四歳で、未成年で。自分や他の選手と比べればなにもかも劣っている。本来ならこんな袋小路に放り出されるはずもなかったガキなのだ。庇護されるべき子ども。それがハリー・ポッター。

ケニーは煙草をギュッともみ消して、杖を振った。浮かび上がった優勝杯は、彼とハリーの間でピタリと停止する。
そして、煙を吐き出しながら笑ってみせたのだ。

「手に取れば分かる」




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