04
揺さぶられるままにぶれる視界で、こんな風に天井の染みを数えるのも、幾度目かとため息をつく。ため息をつくのは、心の中でだけだ。本当にため息をついたら、光忠のように面を吹き飛ばされてしまうから。
汗と潤滑油と精液でべたべたになった身体。暴くだけ暴いた後は、主は一人で湯浴みに出てしまう。事が終われば閨から出なければならないから、俺は服をかき集めて急いで部屋を出た。今日の本丸は、夏だ。夏はいい。井戸水がぬるく、身体を拭うのに都合がいいからだ。冬の本丸の井戸水は、身体が縮んでしまうかと思うほどに驚いてしまったのを忘れていない。
「(驚き、か)」
このような驚きは求めていなかった。人間の真似事をして、欲にまみれる刀など。
だが、光忠が折れてしまった今では、この本丸に太刀は俺しかいないのだ。明日も明後日も出陣はあるし、演戦も控えていたような。それならば、明日の夜は久しぶりに湯を浴びることができるだろう──主は、他者の目をひどく気にする器だから。
最後に手入れを受けたのはいつだったか。割れた爪を見下ろして思う。
ある日、汚れてしまった自分をどうにも見たくないと願ったら、目が見えなくなった。これでは戦うことができない。主は役立たずだと俺を罵った。聞いていられなくて耳を塞ぐ。主の声はぷつりと止んだ。目も見えず、耳も聞こえない。自分で願った事なのに、放り出されたような心細さがたまらなかった。ただ一人、音のない暗闇に取り残されたようで。
どこかに突き飛ばされた感覚があった。戦場の臭い。錆びた鉄の臭い。時間遡行軍の気配。刀を抜いたが、なにも感じ取れない俺に抵抗する手段など残されていない。
体が激しく痛んだ。何かにぶつかり、斬り割かれる痛みに体が震える。恐ろしかった。
「(棄てられた、のか?)」
目の前で折られたいくつもの刀剣たちを思い出す。問答無用で刀解の扱いを受けた彼らに比べれば、優しい扱いだと思った。自ら愛でた刀を折ることは出来なかったのかもしれない。昨夜も舌が這いずった身体を抱える。
ふと気付くと、とても寒いところにいることが分かった。触れるものは氷のように冷たい。まるで製氷室に閉じ込められているような、突き刺すような冷えが体の動きを奪っていく。寒い寒いと震えるうちに、手先の感覚からなくなっていった。
このまま折れるのか、俺は。
がりがりと地面を擦る切っ先は、きっと錆びついているだろう。歩き続けるのも疲れてしまった。座り込んだ地は砂利ではないようで、泥にまみれる最期ではないことに少しだけ安堵した。
目を閉じる。目蓋をもう一度開ける方法など、忘れてしまっていた。
折れたと思ったが、折れていないらしい。
さっぱりわけがわからなかった。よくよく神経を尖らせてみれば、どうやら柔らかい何かに寝かされているようだ。冷たい石の上ではない。時間遡行軍に襲われ、満身創痍だったはずなのに手当すら施されている。薬草のつんとした臭いが体中にまとわりついていた。
分からなかった。分からなかったが、どうでもよかった。身体を動かすことも考えることも億劫だ。
霊力は感じない。ならばここがどこであれ、本丸ではないだろう。審神者がいないのであれば、藁の中だろうが獣の巣だろうがどうでもいい。どうせ俺は、朽ちて錆びるのを待つ身だ。
眠りを妨げるかのような珍事が起きた。なんと俺は手入れを施されたらしい。
相変わらず周りに霊力は感じないのに、何故。神経を研ぎすませてみると、なんとなく、空気が本丸のそれに近い気がした。空気が澄んでいるのだ。
身を起こしてみるも、目の前に広がるのは音のない暗闇。心の中でため息をついた。
もしかすると、俺の本体が運よく目利きの蒐集家に拾われたのかもしれない。本体が磨き上げられたのであれば、俺の肉体にだって多少の影響があるだろう。しかしそう考えると、相変わらず、安静にするよう寝かされている俺の身が分からない。本体と俺を拾ったのは、よほど親切な者なのだろう。
今はまだ主の霊力が体に満ちているが、それも数日のうちだ。やがてこの意識は空気に溶け、終わりのない眠りにつく。そうすればきっと、音のない暗闇をどうこう思う事もなくなる。
目を閉じる際、何かが手に触れた気がした。冷たくはない。
何かは分からないが、何かが俺の世話をしているらしい。
その『何か』は、実に甲斐甲斐しく辛抱強く根気よく、俺に付き合った。まず俺の手を握り、俺の衣服を整え、身体を拭き、そしてもう一度手を握る。何をするにしてもそうだった。
何かが口に触れ、臭いがした時は全力で抵抗したがあれはもしかすると、何かを食べさせようとしていたのかもしれない。恐ろしくて、口に含めたものではないが。しかし不思議と、腹は空かなかった。
この『何か』は、なぜ俺の世話をしているのだろう。
世話を願った覚えはない。目も見えぬ、耳も聞こえぬ刀剣が物珍しいからか?珍しさより、面倒が勝つだろうに。人の身の面倒は、顕現されてからというものの嫌と言うほど思い知っている。
相手の意図が分からない不審感を抱えたまま、されるがままに日々は過ぎていく。
何日も『何か』が身の回りをうろうろしていれば、嫌でも気配を覚えてしまう。彼か彼女か、『何か』の奏でる生活の音に驚いた。暗闇の中に、音が戻ってきている。
水が跳ねる音、床に響く足音。どこからともなく与えられる温もり。そのどれもに『何か』の気配がある。暗闇の中で存在を主張し始めた『何か』が、俺は案外嫌いではなかった。幾度となく握られる手をそっと撫でる。
ふと目を覚ますと、汗がじっとりと体にまとわりついていた。忘れていた情事の感覚を思い出し、こみあげてきた嫌悪で奥歯を噛みしめる。そして、己の右手が何かを握りしめていた事に気が付いた。すうすうという、静かな音。人の寝息のようなものが聞こえて身じろぎをやめた。俺が握りしめているのはきっとこの寝息をたてている『何か』の手で、いつも俺の世話をしてくれている『何か』を起こすのは忍びないと思ったからだ。
寝つくたびに、正体の分からないものに追いかけられる夢を見た。しまいに追いつかれ引き倒され、体を暴かれ、蹂躙される。過去の記憶を追想しているのだ、と気付くまでにそう時間はかからなかった。
あの時は何も思っていなかったのに、今はどうにも嫌で嫌で、たまらなく嫌で──眠るのも嫌になって座り込んだままでいると、また『何か』が俺の手を握った。
「?」
はじめて聞いた『何か』の声。急いで顔を上げたけれど、そこにあるのは暗闇だけ。あの時、見たくないと願った自分を心底恨んだ。だって、周りのすべてが見えなくなるなんて思っていなかったんだ。
相変わらず声の出ない喉を動かすと、いつも俺の手を握る手が俺の手の甲を撫でた。
眠れない日々は続けど、『彼』は相変わらず俺の世話を焼いていた。
見えろ見えろと願っていると、次第にうすぼんやりと見えるようにはなってきたように思う。すべての輪郭はぐちゃぐちゃで、自分の手とおぼしきものを見下ろせば、紫色をしている。俺の目は正常に機能していないと、すぐに理解した。以前はこんな風ではなかった。
もう、以前のようにはいかないのだろう。漠然と悟った。
折れる一歩寸前まで追い込まれていたであろう俺の心身は、きっともう本当に役にたたんのだろうと思うよ。目も見えず、耳もろくに聞こえず、一人では満足に日常生活すら送れないなまくらだ。ならばいっそ、一息に折れてしまった方がいいのではないか。折れれば、もう、これ以上。
「やめてくれ」
幾晩ののち、自分に覆い被さってきた黒い影に懇願した。
「嫌だ。触るな、嫌だ…!」
泣きながら懇願しても、力いっぱい抵抗しても、逃げられないことは分かっていた。違う、俺が逃げたことがないから、逃げられないのだ。この夢は過去の追想で、現実のくり返しで、だから俺がどんなに望もうと逃れる術はない。
刀、刀。俺の刀はどこだ。ずっと寝たきりでも、本体の気配を忘れたことはない。咄嗟に手を伸ばし、久しぶりに本体を握って、全力で影を断ち斬った。
ぱき、と映像が繋がる。
「(え?)」
真っ暗な空間から突然放り出されたみたいに、俺の視界には光が戻っていた。ものは輪郭を取り戻し、光は正しく像を結び、音がきちんと拾えている。
俺は寝台から飛び出しかけていた。片膝を寝台に付き、片足を床について抜刀した直後の姿勢で固まっていた。俺の目の前には見知らぬ男がひとりいて、袈裟懸けにされたばかりの傷を押さえ、呻いている。夢の中でなにかを断ち斬ったと思っていたが、現実でも断ち斬っていたらしい。
顔が濡れた感覚があったので、手の甲で拭った。血が付着した。俺のものではない。
「(…だめだ)」
壊れた俺にだって、神の端くれ。付喪神の矜持は持っている。誇り高きその矜持が、だめだと言う。目の前が真っ黒に塗りつぶされるような感情の激流がこみあげてきて、本体を取り落とした。体中を陵辱されても心ひとつ乱さなかった俺がどうしてこんなに取り乱しているのか、追い詰められているのか、自分でも分からなかった。きっと、今俺は俺自身が許せないことをしたんだろう。
感情の激流に耐えられず、体の内側が悲鳴をあげている。ばきばきと、罅が広がっていく音がする。破壊の足音が迫っている。もうだめだ。
羽交い締めにされたらしい。違う、拘束の意志はなさそうだ。ということは抱きしめられているのか?自分を斬った相手を抱きしめる馬鹿がいるとは驚きだ。まったく意味が分からない。
その時の俺は混乱していて、身体の自由を奪われたのだとそればかりを考えていたので力いっぱい、今まで以上の力で抵抗した。今思い返せば気の毒なことをしたと思う。身体を離した男は若者で、赤い髪に赤い目をしていた。南蛮の者だ。
若者は何かを言った。言葉は当然ながら、分からなかった。言葉が通じないのは向こうも承知しているらしく、ただ俺の手をとって、ゆっくりと握った。固く、節々のある男の手だ。
驚きで止まっていた涙があふれた。この手のひらを俺は知っている。何度も何度も、幾晩も幾晩も、俺の手を握ってきた手だ。俺の心を癒し、俺の身体を労り、穏やかな時間を与えてくれた手だ。混乱していた心が少しずつ凪いでいく。安心で、すとんと目蓋が落ちた。安堵の中で眠りに落ちたのは久しぶりだった。
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