07
むしゃくしゃしたのでやった。後悔はしていない。
「せい!」
気合い一発、声を張る。全員が気まずい面持ちで黙りこくった時、俺は既に動いていた。
鶴丸が左手で持ったままの刀を左手でぐいと押す。剥き出しの刃は俺の右手に食い込んで、研ぎたてのナイフよりもあっさりと簡単に、俺の皮膚を切り裂いた、はずだった。
「…あれ?」
別に走ってなんかいないのに、滑って「足を踏み外した」ような感覚がして思わず声が出る。バランスを崩して倒れそうになるのに近い。衝撃を堪えるために反射で瞬きして、そして、言葉を失う。
俺は真っ白い空間に立ち尽くしていた。右も左も、前も後ろも一面の雪景色。息は白く色づくほどなのに、不思議と刺すような冷えは感じない。眩しさもない。むしろ、ひんやりとした冷たさを心地よいとさえ思う。
空は高く遠い。薄曇りの灰色の空から降り落ちてくる粉雪が、肌に降りかかる前に不思議と消えていく。どこからか、糸が軋むような音がきいきいと響いていた。
「驚いたぜ」
どこからともなく男の声がした。彼の操る言葉を理解したことはなかったけれど、幾度となく聞いた声の主を俺は知っていた。
「無茶をするなあ、君は」
「…鶴丸?」
瞬きする。次の瞬間、鶴丸はあの初めて会った時の着物の装いで俺の前に立っていた。膝立ちのままだったので、俺も立ち上がる。
「霊力らしい霊力もないのに、勢いだけででここまで踏み込んでよく形を保っていられる」
「え?ここどこ?」
「俺の神域だ」
しんいき。言葉を理解できても意味が理解できない。
「ん、まあ、俺が普段いる場所だな」
「…鶴丸はずっと俺達と一緒にいただろ?」
「ああ、そうだな」
鶴丸は面白そうに体を揺すった。察するに、的外れなことを口にしたらしい。でも理由に見当なんてつかないから、唇を尖らせて、ふと手のひらを見た。ざっくり裂いちゃう覚悟で握りしめたはずなんだけど、傷痕はない。握った感覚さえ残っちゃいない。
「…ああ、うん」
掌をすり合わせた。
ここは少なくとも、俺がさっきまでいたアパートじゃない別の場所なんだろう。レグルスもセドリックも、ダンブルドアもここにはいない。家族も友人も、それどころか他の生きものは、何ひとつとしてここに存在していない。
次元を越えたのか世界の境界線を越えたのか。いや、別に越えていないかもしれない。
足を踏み外した感覚を頭の中で反芻した。つまり、言うなればちょっと『ズレた』だけなんだろう。知覚できない僅かなずれ。隣り合わせ。そこに鶴丸の、神様の世界がある。
「先に言っといてくれよ。ビビるだろ」
「おいおい。君が自分で飛び込んできたんじゃないか」
鶴丸は心外だという顔をして、それからすぐに表情を消した。
「だから、簡単には帰してやれない」
理不尽を突きつけられたのに、不思議と不満はなかった。それに、なんとなく理解できていた。だろうな、って納得するんじゃなくて最初から識っていたって感じだ。神様の領域に足を踏み入れたからか?鶴丸に血を吸わせたからか?分からない。
「嘘つけ」
俺はじっと鶴丸を見つめた。人が産まれた瞬間から呼吸できることとか、命が芽吹いた瞬間から心臓が動いてることとか、そういうことと似ている気がする。理由までは分かんないけど、理解するまでもないこと。そんな本能めいた感覚で、俺は鶴丸の脅しは偽りだと識っていた。
「お前は俺をどうこうできるのは本当だろうと思うよ。でもどうにかできてたんなら、最初っからそうしてるだろ」
「………」
「しなかったんじゃくて、できなかったんだろ」
平気そうにしていたから、少なくとも目につくところは大丈夫そうだったから忘れていた。あと一回振り抜けば折れていたと言ったのは誰だったか。治ったわけじゃないと言ったのは誰だったか。見た目には修復できたのだとしても、彼自身の命とも言える力は損なわれていたままだったわけだ。
糸がひときわ大きな音で軋む。
鶴丸は腰に下げていた刀を鞘ごと引き抜くと、ほんの少しだけ抜いてみせた。
言葉を失う。
刀身は罅だらけだった。扱い方を間違えてしまったら、砕け散りそうなほどに儚い。本当に、今にも折れてしまいそうな。
「鶴丸…お前、」
つまり俺は、今に割れてもおかしくない薄氷の上に立っていた。ぎりぎりのところで崩壊せずに踏みとどまっている世界のほとりで、世界の中心と向き合っていたんだ。
さっきから響いているの音はこの氷の、この世界の──鶴丸の軋みだ。
もしも砕けてしまったら、鶴丸はどうなるんだろう。本体である刀が折れてしまったら、鶴丸はどうなるんだろう。
「お前ほんとに」
「なあ、君」
鶴丸は俺の言葉を遮った。
「君は俺を関わらせたくないと言ったな。だがそれは、君にこそ言いたいことだ」
「お前また汚いがどうとか言うつもりか?」
「そうじゃない。なあ、ちゃんと考えてくれないか」
鶴丸がやけに念を押すので真面目な顔を作って瞬きしておいた。
「君の友が案じたように、未来から過去へ戻る方法を俺は知らない。事態を把握した時の政府が、俺と繋がりを持った君を無事に過去へ帰すのかどうかすら俺には分からないんだ」
そういえば審神者とか刀剣男子を戦線に立たせているのは時の政府とやらだったな。今更ながらに思い出した。
「今ならまだ君を帰してやれる」
「…やっぱ嘘じゃねえか」
「頼む」
鶴丸は俺の手をとって、ゆっくりと額に当てた。
「俺を哀れと思うなら戻ってくれ。本当に、君を巻き込みたくないんだ。折れかけの俺を労ってくれた君のことを──俺のことなんか忘れて、君の人生を歩んでくれ」
絶句してしまう。
酷く痛めつけられて、苦しんで悲しんで。性欲の捌け口にされて、尊厳を踏みにじられて。あげく、放り出されて棄てられた。なのに。
もしも同じ目に遭ったら、俺は鶴丸みたいに笑っていられるだろうか。
憎んで憎んで、恨んで恨んで、やっぱり苦しいからいっそ死んでしまいたいと思ったかもしれない。忘れてしまいたいのに忘れられないから、消えてしまいたいと思うかもしれない。同じ苦しみを、誰でもない誰かに与えてやりたい衝動に駆られたかもしれない。
なのに鶴丸はまっすぐなままだ。その身を映す刃のように美しく綺麗なまま、ひたむきに人間を信頼している。
自分を傷つけた人間と同じこの手をとって、巻き込むのが嫌だからって葛藤してる。尊厳を踏みにじった人間と同じ俺の未来を、案じてくれる。
…やりきれなくて情けなくて、言葉にならない。
神様っていうのはみんなこうなんだろうか。鶴丸以外の神様に会ったことないから分かんないけど。分かんないけど、それならばと思う。
どうか、報われてほしい。
「鶴丸」
たまらなくなって、薄い背中をかき抱いた。
俺はお前に何をしてやれるだろう。ひとりの人間として、どれだけ報いてやれるだろう。あつい気持ちが溢れて、指先が奮えてしまうほどだった。
力になってやりたい。支えてやりたい。この気持ちになんて名前をつけたらいいんだろう。
「なあ──鶴丸」
そろそろと顔を上げた刀の神様は、ほんとに俺よりも長生きなのか疑わしいほど幼げな眼差しを俺に向けた。
ぎいぎいと薄氷が悲鳴を上げている。せめて気丈なふりをしてみせた。
「お前、俺が一度決めたことを半端に放り出すような、いい加減な野郎に見えるか?」
「…、見えない」
鶴丸が絞り出すように言った。
「そんな風に感じたことは、一度もない。君は誠実な人間だ」
「誠実!」
思わず声をあげて笑う。
「違うぜ鶴丸。俺は誠実ってやつとはほど遠い人間だ。平気で嘘つくし、騙し討ちするし」
「そんな──」
「俺なんか、ただ諦めが悪いだけだよ」
諦めてしまえばいいのに、見限ってしまえばいいのに、できない。信頼を寄せられなくたって信じるのをやめられない。どれだけ絶望的でも希望を捨てきれない。
それは、俺が誓いを忘れられなかったからだ。
月もない夜空の中、まばゆい星の記憶がある。最も小さく朧気であるけれど、最も輝きを放つ思い出がある。一番星だ。
何もかも放り出してしまい衝動に駆られたとしても、憎くて悲しくてつらかったとしても、忘れない。忘れることなんてできやしない。それは俺のよすがだったから。
きっと鶴丸もそうなんだ。忘れようもない何かがあるから、人に手を差し伸べるのをやめられない。
神様にこんな風に思ったら罰当たりかもしれないけどさ。俺達って、わりと似たもの同士だね。
ぱっとハグをやめて、目をじっと見つめた。
「だからお前のことだって諦めない」
薄い金色の目がこれでもかと驚きで見開かれた。
鶴丸の手を改めて握る。俺よりも細い腕で結構重量のある刀を振り回してるの本当にナニ?俺より上背があるくせに、掌も指も、薄くて細っこい。幾度目かの感想を抱いた。ほんとに神様か?
鶴丸はかすれた声で呟いた。
「…君、俺の話を聞いていたか?」
「聞かなかった」
間髪を入れずに答える。
「鶴丸を哀れに思うことはこれまでもこれから先も絶対にない」
「………」
「でもまあ、万事解決すっからどーんと俺に任せとけ。お前の主も時の政府とやらもワンパンで沈めてやるよ。スニッチのように舞いブラッジャーの如く刺す」
刺す。物理で。
親指を立ててポーズを決めてみせたけど、このネタ俺と同じ経験積んでないと一ミリも通じないし単語の意味も分かんないな?つーかそもそもサムズアップさえ鶴丸に通じてるんだろうか。未来でもサムズアップって有効?ほかの意味になって伝えられてない?
「…その根拠のない自信はどこから来るんだ?」
「根拠ならあるわ!なんせ俺は──」
床が抜けた。両足から真っ逆さまに下に落ちて、ざぶんと水がひっくり返り、俺を下へ下へと沈めていく。灰色の空はみるみる遠ざかった。気泡はあっという間に見えなくなった。暗闇だ。
続けた言葉が、鶴丸に届いたのかどうか分からない。
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