言霊というものがある。

海を越えた遠い国では、発した言葉には力が宿っていると解釈されているそうだ。暴言も、真っ赤な嘘も、どんなに小さな偽りでも、一度口にしたらば取り消すことができない。不用意な発言は慎むべきという教訓ともなりうるし、他者を軽んじないための教訓にもなりうる。魔法使いならば尚更だ。魔法使いは杖だけではなく、ほとんどどんな道具を使っても魔法を行使することができるとされている。言葉ですら、そうなのかもしれない。



「ケニー・アディントン」

ダンブルドアが、炎が舐めた羊皮紙の切れっ端を捕まえて、そこに書かれた名前を読み上げた瞬間、セブルス・スネイプは数週間前の出来事を鮮明に思い出していた。
彼が入学してしでかした幾度目かという暴力沙汰による、校長からの呼び出し。彼は己のものではない血にまみれた右手でレイブンクローの生徒を殴り飛ばしていた。聞けば、同級生が勝手にゴブレットの中に名前を入れたことに憤った故の一発だったという。目眩を感じてかたく目を閉じて現実逃避して、もしも億が一がありえたら。そうぼやくと、隣に立っていた校長はこう宣ったのだ。

「彼は素行はともかく優秀じゃ。十分にありうる」

──貴方が、ありうるとか、馬鹿なことを!言うから!!
スネイプは平静を装いながら、めちゃめちゃに荒れ狂う心をやっとのことで静めていた。唇を真一文字に引き結び、少し前を見据えているように見えて、実際はどこにも焦点が合っていない。現実逃避をしているのだ。

大広間は、ボーバトンやダームストラングの代表選手が選ばれたときとはうって変わって静まりかえっている。「ケニー・アディントン」がどういう生徒なのか知っていれば、歓声など上げられるわけがない。
え、あいつが?あの不良が、うちの。ホグワーツの代表になったの?
マジで?本気で?
ボーバトンとダームストラング、話題の人物を知らない幸運な一部の人間が、首を傾げているのが分かる。そりゃあそうだろう。フラー・デラクールにビクトール・クラム。彼らのように魅力的で、自信に溢れ、印象のよい生徒がホグワーツからも選出されたのだと信じて疑っていないのだ。
そんな中、スリザリンの生徒の一部は振り返り、ある一点に視線を注いでいた。テーブルに突っ伏し、ピクリとも動かない銀髪の生徒。たった今、ダンブルドアに名前を呼ばれた男だ。

「ケニー・アディントン」

そこから見えているだろうに、ダンブルドアはふたたび名前を読み上げた。もういっそ殺してくれないかな、とスネイプは思った。あるいは生ける屍の水薬を希釈しないまま三リットル飲み干したい衝動に駆られていた。原子レベルでこの空間から消え去ることができるなら何だってしてやる心持ちでいた。

「ケニー・アディントン!」

ダンブルドアはしつこく呼んだ。たまりかねたスリザリンの生徒が、アディントンを揺さぶって起こしにかかる。
んん、とぐずる赤子のような声を出して、アディントンはようやく顔を上げた。赤い目がとろんとしていて、明らかに寝起きですという顔だ。どうやら本当に寝入っていたようだ。冗談だろう。スネイプは目眩がした。さっきからみんな、代表選手が選ばれるたびに床を踏みならし、反響するほどの拍手が鳴り響いていたというのに。

「あに?」

アディントンは寝ぼけ眼で同級生に尋ね、彼が指し示す方を見るために、緩慢な動作で上半身を傾けた。ダンブルドアがチョイチョイと手招きしている。アディントンは素直に立ち上がり、椅子をまたいで、大広間の真ん中へ向かって歩いた。ざわつく生徒達も、突き刺さる好奇の視線も、すべて無視している。

「なんすか」
「アディントン、あすこの部屋へ行くのじゃ」

ダンブルドアは教職員テーブルの後ろにあるドアを指差した。

「最初の指示が与えられるから、しばし待つ必要がある」
「指示?なんの」
「選ばれたからじゃよ。先日、君はもしもの話に難色を示しておったがのう」

ダンブルドアはアディントンの目の前に、彼の名前が記された羊皮紙を掲げた。アディントンはゆっくり瞬きして、ダンブルドアの細い指につままれたそれをようく見つめた。穴が空くほど見つめた。そうして、ガリガリと首を掻いた。

「なんだ夢か」
「まごうことなき現実じゃよ」
「夢だよ。夢じゃなきゃ、ゴブレットが俺を選ぶわけないし。なんかもっとみんなが応援してくれそうな奴選ぶでしょ」
「ひょっとすると、手酷く痛めつけた君への嫌がらせかもしれん」
「ブッ壊す!!」

予想できていたのだろう。ダンブルドアは杖をヒョイと振ると、アディントンの杖を宙へと吹き飛ばした。

「いかんいかん。アレは一点物じゃから、壊すと弁償どころの話じゃなくなってしまう」
「センセ、選出方法変えようぜ。今からでも遅くない」
「残念ながら、ホグワーツの代表選手が最後に呼ばれるんじゃよ」
「長い間お世話になりました。退学します」
「退学しても魔法契約は無効にならん」
「クソ〜〜世界がクソ〜〜」

駄々をこねる幼児がぺんぺんとお尻を叩かれて歩くことを強いられてるようだ。老人に背中を押され、文句を垂れ、メンチを切り、それでも舞台からは下りられない。
アディントンは最後に思いきり舌打ちをしてポケットに手を突っ込み、背中を丸めて大広間の真ん中を闊歩した。ダァン、と戸が閉まる。スネイプはビクッと痙攣した。あまりにも目が当てられなくて気絶していたのだ。マクゴナガルから同情めいた眼差しが向けられているのに気が付いて、もう一度気絶したいなあと思った。

悪夢は続く。

「結構結構さてこれで三校の代表選手が決まったので選ばれなかった者も気持ちを切り替えて心をひとつにしてみなで一致団結応援を──」とダンブルドアが言いかけていたところで、四度ゴブレットが燃え上がったのだ。
飛び出した羊皮紙に書かれていた名前はハリー・ポッター。スネイプは殴られたような気持ちになって、すぐに覚醒した。
いったい何をどのようにしてゴブレットを出し抜いたのかは不明。しかしゴブレットから名前が出てきたのなら、魔法契約は成立している。ハリー・ポッターもまた、他の代表選手と競い合わなければならない。ポッターは逃げられない。棄権もできない。最後まで課題に挑戦し続けなければならないのだ。

マダム・マクシームとカルカロフはダンブルドアを冷ややかな目で睨んでいる。フラー・デラクールは白い顔を赤くして反論するし、ビクトール・クラムは何も言わないが油断ならない目でポッターを観察していた。バグマンはイレギュラーが選出されたことを不審がるどころか面白がる始末。寮監であるマクゴナガルはポッターを擁護し、ダンブルドアも交えて議論は白熱する。終わりが見えない。

「最初の指示ねえんなら帰っていいすか?」

みんな振り返った。壁の花を決め込んでいたアディントンが、突然話し始めたからだ。

「帰るだなんて!」

いち早く融解したのはバグマンだ。

「指示があるって言うからここで待ってんだけど。ナニ?弁論大会か何か始まってんの?」
「いいや、だが──」
「ポッターの名前がゴブレットから出たこともホグワーツから二人代表選手が出たこともマジ、どうでもいいから。早く話進めてくんない」
「あう、イギリスは、おもしろーいジョークが得意でーす」

フラーは髪をサッと翻し、アディントンを睨みつけた。

「わたしたちみんな、何週間も何週間も、選ばれたーいと願っていました!学校の名誉かけて!賞金の一千ガリオンかけて──みんな死ぬおどおしいチャンスでーす!」
「俺は代表選手になりたいなんて一度だって願ってないし名誉も賞金もいらねえし死んだ方がマシ」

アディントンは一息で言った。

「テメエのものさし押しつけんじゃねえぞバカ女。丁寧に努力して積み上げた価値観がそんなに大事か?」

フラーの顔にさっと赤みが走る。そんなフラーを一瞥したアディントンは大きく一歩を踏み出した。
ダァン。
布を叩きつけたような音がした。バグマンの肩に腕を乗せたアディントンが、至近距離からねめつけるようにバグマンを見据えたのだ。

「なぜもどうしてもどうやってもどうッでもいいんだよ。指示を出せよ指示を」
「ハイ、すみません」
「つかポッターが自分でやったって、ナニ?俺前にさあ、けっこうマジでゴブレット痛めつけたけどダメだったんだよな。それを四年生が?壊すならまだしも出し抜くってさあ。え?それ常識的に考えておかしくない?」
「おかしいです」
「むしろ運営側が責任を問われる立場だろ。あれだけ未成年をエントリーさせない〜つって、させてンだろうが。え?大興奮しちゃってさあ。大丈夫かとか、不安はないかとか、そういう言葉のひとつもないわけ?それが大人の対応なんだ?尊敬する」
「すみません」
「謝んなくていいよ。ポッターが死んだらどう落とし前つけんのって話なだけでさあ。どうすんの?お前も死んで詫びるの?」
「死んで詫びます」
「これこれ」

ダンブルドアが待ったをかけたのでようやく話が進んだ。十代の青年に凄まれてちっちゃく背中を丸めたバグマンと、病気かと思うほど顔色が悪いバーティ・クラウチ・シニアによって最初の指示が出される。
第一の課題は、選手の勇気を試すもの。未知のものに遭遇したとき、どのように勇気を示すのかは、魔法使いにとって重要な資質だそうだ。それを全校生徒の前で行うことになる。
集まっていた全員が去り、残るはアディントンとポッター、ダンブルドアとスネイプというところになって、ダンブルドアはまたチョイチョイとふたりを呼んだ。

「ハリー、ケニー、二人とも寮に戻って寝るがよい」

ダンブルドアは微笑んだ。

「グリフィンドールもスリザリンも、君たちと一緒に祝いたくて待っておるじゃろう。せっかくお祭り騒ぎをする格好の口実があるのに、だめにしてはもったいない」
「………」

アディントンはポッターを一瞥するとダンブルドアを見つめた。

「センセ、眼鏡の度合ってないんじゃない」
「うむ?」
「どこをどう見たら、俺たちが激励と歓迎を望んでるように見えるわけ?」

アディントンはくるりと背を向けて、バタンとドアを閉めた。ポッターはダンブルドアに一礼して、慌てて彼を追いかけるために飛び出していく。

「失敗したかのう」
「少なくとも彼に対しては」

スネイプはにべもなく答えた。






「あの!」

ハリーは階段を駆け下りながら、地下の談話室に向かう背中に呼びかけた。呼びかけて、呼びかけた傍から「あの」と口ごもる。彼のことをなにも知らないからだ。
銀髪で、スリザリンで、不良で、ホグワーツで近寄ってはならないヤバい男。近寄ると前歯を折られるという噂はきっと尾ひれがついたものだろうが、彼が自分のものではない血に濡れているのを一度ならず見たことがあるので、ハリーはその噂を眉唾と否定できないでいる。

「…なに」

男は緩慢な動作で振り返って、静かに瞬きした。ただ振り返っただけなのにドキッとするほど色気があって、ハリーはますます言葉に窮した。唇を食んで、ようやっと言葉を絞り出す。

「さっきの」
「ん?」
「僕たちが、激励と歓迎を望んでないって…」
「ああ」

ケニー・アディントンは階段の手すりに腰を預けた。さっき動いたばかりのこの階段は、もうしばらくこのまま動かない。

「違った?」
「え!?い、いや、違わないけど」
「どもりすぎ」

銀髪を揺らしながら、彼は階段をひとつ上がってきてくれた。視線が近付く。目の色は濃い赤だということを知った。
ケニーが出し抜けに問いかけた。

「お前、名前入れたの?」
「入れてない」

ハリーはケニーを見下ろした。

「入れてないんだ。僕、本当のことを言ってるんだよ」
「そっか」

驚いて瞬きする。ハリーは不思議と、彼が信じてくれているような気がしたのだ。心の底がじわっと温かくなって、なんだか泣きそうになるほどだった。

「ありがとう」

だから、感謝の言葉が口をついて出たのは自然なことだ。

「その…さっき…」
「………」

大丈夫かとか、不安はないかとか、そういう言葉のひとつも──。
思惑が入り乱れたあの狭い部屋の中で、唯一まともな言葉のように思えたのだ。誰よりも代表選手に相応しくないように思えるのに、誰よりも親身で、でもきっと当たり前の言葉が彼の口から出たのが不思議だったけれど、でも。

「いーよ」

ケニーはハリーを見つめてくすりと笑った。

「夜更かしすんなよ」

上機嫌に踵を返した背中。猫背ぎみなのにしゃんと伸びているように見えて、なぜだか燐としていて。

「お、おやすみ…」

なんとかそれだけ言って、ハリーは地下に消えていく銀髪をいつまでも見つめていた。




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