幻影の意味
暑い。熱い。
炎天下の真夏に外に放り出された様な蒸し暑さが、体を蝕んでいた。酷い風邪をさらに悪化させたような倦怠感に叩き起こされてしまい、咳き込みながら目を開いたが病室も廊下も真っ暗闇に包まれている。生憎病室には備え付けの時計が存在しないため、今が何時かは定かではないが消灯時間は遠に過ぎているだろう。
ワイテル病による発熱か、ただの風邪か、それともぶるーくの相手をしていたせいで知恵熱が出たか。手のひらが汗でぐっしょりと濡れているのが分かり、いずれにせよ先生を呼ぶためにコールを鳴らした方が良いと思った。心なしか右腕が痛み、関節痛かもしれないと回らない頭で考える。
常日頃から枕元を陣取っているボタンを探したが、一向に見つからない。仕方なく怠い体を起こし、ベッドサイドランプに手を伸ばす。夕暮れの時の空に似た温白色の光は少々頼りないが、先程の暗闇より大分マシだった。
あぁ、ほら見付けた。
コールボタンに右手を伸ばした瞬間、甲高い女性の悲鳴が深夜の空気をつんざいた。それが無意識の内に発せられた自身の声であることを理解するのに、そんなに時間は要さなかった。
「零魔⁉︎零魔聞こえる?どうしたの?」
ドンドンと、壁が叩かれる鈍い音が病室を満たす。微かに聞こえた耳触りの良い男性の声は、隣の病室のきんときのものだった。
捲り上がった患者衣の袖から覗く腕に釘付けになる。関節部分が腫れ上がり、手のひらよりも大きなムカデが自由気ままに這いずり回っていた。ムカデだけじゃない、身体中に毛が生えた気色の悪い芋虫が腕にしがみつき、腕の中でも一等太い血管の中でうごうごと何かが蠢いている。腕を振っても布団に擦り付けても毒虫は姿を消さず、痛みだけが明確になっていく。
「いや、嫌、何これ、やだ、いや、」
「零魔、零魔、できれば返事して。コール押したからすぐなかむかきりやんが来てくれるから。落ち着いて」
「きんとき…?きんとき助けて!お願いきんとき、虫が、いや、気持ち悪い、きんときたすけてよぉ…」
毒虫を潰すように腕を壁に打ち付けたが、その影は消えるどころか私を咎めるように肌に足を食い込ませている。壁の向こうにいるきんときの名前を呼んでいると、突然病室に明かりが灯され目が眩んだ。
「零魔!大丈夫だから、何があったの?話せる?」
「ぁ、なかむせんせ、右手、むしが、虫がいて」
袖を肩まで捲り上げなかむ先生に見せるが、彼は私の腕を掴みながら首を傾げるばかりだった。その間にも、ムカデは私の腕の中に入り込もうと牙を突き立てている。なかむ先生がカルテを書く時に使用している万年筆ほどの太さの注射の針を、遠慮無しに刺されているような激痛が走った。
熱も上がっているらしく、意識が朦朧とする。病気のせいか毒のせいか、この際理由は何でも良い。霧で目隠しされている様に視界が霞み、平衡感覚が奪われなかむ先生の方に倒れ込んでしまった。
「いいよ、そのまま俺に体預けて。今きりやんが鎮静剤持ってきてくれるから」
額に張り付いた前髪を払われ、先生の手が額を覆う。なかむ先生の手は別段冷たい訳ではなかったが、徐々に熱が取り払われていった。
「あーぁ、どうしたのこれ?打撲の傷も後で冷やさないと。零魔、ちゃんとワイテル病の抑制剤飲んだ?」
「せんせ、ムカデがいて、ううん、毛虫みたいなのもいて、それで、怖くて。お願い信じて」
「そっか、一人でよく頑張ったね。零魔の言ってることは勿論信じるよ。虫も熱も俺ときりやんで何とかしてあげるから、零魔は安心してゆっくり休んで」
背後で、薄い金属同士が擦れるような音がする。きりやん先生となかむ先生の話し声が聞こえ、左腕の患者衣の裾が捲られた。
少し首を動かすと、困ったように笑うきりやん先生と目が合った。先生の手には銀色のトレーが握られており、なかむ先生はそこから細い注射器を手に取る。それすらも毒虫に見えてしまって、嫌だと精一杯首を振ったがよしよしとあやされるだけだった。
意に反して勝手に零れ落ちる涙が、なかむ先生の白衣を濡らしていく。左腕にも右腕と同じような痛みが小さく走り、意識が優しい微睡の中に落ちていった。
「零魔のこと呼び戻そうとしてるの?そんなことしても絶対返してあげない。零魔、ここにいれば怖いことなんて何もないからね」
熱が下がって早三日。右腕にムカデが這いずり回っていたあの夜の記憶はほとんど残っていないが、次の日に目を覚ました時には起き上がることも許されず、文字通り朝から晩まできりやん先生に介抱された。無機質な白色で塗り潰された病室で、点滴と天井を交互に見続けることでしか退屈な時間を凌ぐことができず、お陀仏になりかけた精神をきりやん先生が何とか繋いでいる状況だった。
「俺がずっとお世話してあげるから!」と騒ぐきりやん先生をやんわりとかわし、ようやく病室外に出る許可が降りた。
滔々と広がる快晴色の薬剤が詰められた輸液バックをぶら下げている点滴台をお供に、お目当ての部屋へと向かう。最早使用言語が不明な、日に焼けた医学書や、その道のエライ人が書いたらしい分厚い本が並べられたこの病院の図書室。基本的になかむ先生ときりやん先生、そして患者の一人しか出入りしない。
無論私のお目当ては本ではなく、彼の意見を仰ぐためにこの図書室に足を運んだ。
「スマイル」
「何だ零魔か、もう虫の相手はしなくていい訳?」
「…いつもどこから見てるの」
「見るまでもないだろ」と、相変わらず哲学書らしき本のページをめくる手を止めた。患者衣の上から羽織られた仕立ての良いスーツがずり落ちたが、気にしていないようだった。手招きされ、スマイルの隣に腰掛ける。
「零魔の部屋は俺の部屋の真上。中々暴れてたけど一体何だったの、あれ」
スマイルは怪訝そうな顔をしながら、何気なく「腕には何も映ってなかった」と付け足した。落ち着いた様子でこちらを見据える紫水晶の双眸に、全てを見透かされているような気がする。だんまりを決め込んだ私を気にする事なく、ローテーブルに座っているカメラを手に取った。
「データはこのカメラに転送される。ここ最近の零魔の写真、別に右腕に異常は無いだろ。とは言っても、病室にいる間のは無いけど…あの医者、仕掛けたそばからご丁寧に俺の部屋に返却してくるし」
顔色一つ変えず盗撮の宣言をしたスマイルは、カメラの画像をチェックし終えたのか、またカメラをローテーブルに戻した。
「それで、俺に何か用?まぁ零魔の考えてる事は大体予想がつく、またぶるーくが暴走して大変だったな。それで、『病院から出た方が良い』だっけ?シャークんは今診察中、きんときはぶるーくと中庭にいるけど、ぶるーくの前でその話題を持ち出したくない。それで俺に意見を求めに来た、違う?」
無論、全て当たっていた。畏怖に等しい感動を覚えた。肯定の意味を込め静かに頷くと、スマイルは満足そうに片笑みを浮かべた。「他の奴らじゃこう話は通じないだろ」と、私の頭に手を置く。しかし、「でもさ」と逆接詞から再開された会話は、私の心情は汲み取ってくれていないようだった。
「零魔が一番痛い目見たと思うけど、ワイテル病が突然悪化する時もある。仮に病院を抜け出したとして、行く宛ては?この病院がどこに位置してるか分かってる?零魔がやろうとしてる事は建設的な退院じゃない、賭博だろ。今はただ外に出たい欲求が高まってるだけ、一過性の感情に任せて馬鹿を見るような事はしない方が身の為だと思うけど」
「でも、」
「『でも』じゃない。そもそも前まで外に出たいなんて一度も言わなかったのに、なんでいきなり病院から出たいって思った?ここ数日の零魔はなんか…何かに呼ばれてるみたいな行動をとるな」
何かに呼ばれているような行動をとる。私の中に蔓延っていたもやを、スマイルは的確に言語化してみせた。否、自身でも理解し難いのだから的確と言ってしまうのはおかしいかもしれないが、外で誰かが待っているような、そんな気がした。
「…まぁ、ゆっくり考えればいいだろ。ただし俺は手伝わないし、零魔に危険が及ぶと判断すれば容赦無くなかむときりやんに言い付けるから」
再び本を手に取ったスマイルは、指先の感覚だけで本を閉じる前に読んでいたページを開いてみせた。本に集中し始めた彼が、これ以上会話を続ける事はないだろう。
部屋に戻ろうと腰を上げた時、「あ、」とスマイルが顔を上げた。
「零魔、地下にカルテと薬の保管庫がある。きりやんはともかく、なかむは基本鍵をかけない。そして今シャークんを診察しているのはなかむ、必然的になかむはカルテを片付けに保管庫へ行くだろうな」
片頬だけを持ち上げ含み笑いを見せたスマイルは、また本に視線を落とした。
今度こそ図書室を後にしようと扉に手を掛けるが、力を入れていない筈の扉が勝手に開く。戸惑う私を出迎えたのは、可惜夜を彷彿とさせる群青の瞳だった。
「零魔、ちょっと話ししようか」