【黄】れもねゑどの薬瓶でおやすみなさい
#ネタバレなし、Escapeパロ
消毒剤の一種であるグルタラール製剤の香りが目に痛い。粘膜を刺激する病院特有の薬品臭は、もうすっかり私の体に染み付いてしまっている気がした。
春先と言えど夜は冷え込み、薄い患者衣の上に羽織った淡い夕陽色のカーディガンを抱き締める。どうやら今夜は花散らしの雨に恵まれているらしい。夜のしじまに包み込まれた病棟の廊下を、微かに耳に入るしとしと花雨が降る音に密かな恋心を抱きながら夜の散歩と洒落込んだ。
「あ!勝手に出歩くの禁止って俺言ったよね、どうして守れないかなぁ…」
「きりやん先生」
薄暗い廊下の突き当たりに存在する当直室(とは名ばかりの彼の部屋)の前を注意深く通っていると、少しの足音も立てず近付いて来ていたらしいきりやん先生の手が肩に置かれた。もう片方の手には、鈍く光る銀色の医療用バットが乗っている。中を覗き込むと、不思議な色をした輸液バッグ、点滴筒とクレンメで飾られたチューブ、そしてプラスチックキャップに囲われた小さな針などがお利口に並んでいた。
「点滴、しなきゃダメですか?」
「零魔の点滴嫌いは分かってるけど、病気治さないと退院できないからね。それにこのままだと外出許可も出せないし」
「…じゃぁ、治療頑張ってるのになんでよくならないんですか?」
半ば八当たりじみた言い草だったと思う。
私の言葉を受けたきりやん先生は呆れたように溜息をつく事も、「尽力してる」と私を咎める事もしなかった。
先生は可愛く柔らかな印象を抱かせる太眉を下げて、困ったような巧笑を浮かべた。私がきりやん先生を完璧に信用する事ができないのは、こうやっていつも病気の事をはぐらかす癖があるからだと思う。「ワイテル病?」と、先生は首を傾げた。
「うーん、いつか治ると思うよ」
「ほら病室戻って」と手を取られる。どうしてなかむ先生もきりやん先生も、私の質問には曖昧で蒙昧な返答しかしてくれないのだろう。せめて病状の良し悪しや治療の方針を教えてくれさえすれば、私は純粋な信頼を持ってまだまだ頑張れるのに。軽やかな足取りで私の手を引く先生に、不信が募るばかりだった。
302号室が、私の病室。性格も感情も持たない無機質な白色で塗り潰された病室は、全くもって時の流れが塞き止められているように思える。以前まで時折下の階から他の患者さんのものであろう声がしていたが、最近はめっきり聞こえなくなってしまった。
「さてと、点滴するからカーディガン脱いで横になって」
促されるまま星色の上を脱ぎ、備え付けの寝具にしては寝心地の良いベッドに横になる。その間に輸液剤とチューブの接続を終えた先生に患者衣の袖を捲られ、針の刺入部位を消毒された。
もう何度この処置を受けたかは十二回を超えた辺りから数えるのをやめてしまったため定かでは無いが、力を抜かなければならないという意に反して体が強張ったのを感じた。体内に異物が侵入する感覚は、克服できそうにない。
「大丈夫、大丈夫、すぐに終わらせるから」
ぷつ、と肌を無理矢理裂いて針が侵入してくる音がする。勿論私の思い込みに決まっているのだろうが、どうにか気を逸らそうとシーツを掴んだ。
「はい、おしまい。速度はいつもと同じだけど、しんどかったり痛かったりしない?」
左手首に着けられた腕時計を見ながら、滴下速度を調節したきりやん先生は私の顔を覗き込んだ。口当たりの優しいレモネードの様な液体が、輸液バッグに閉じ込められている。いつもより色が澱んでいるような気がしたが、檸檬色について考える余裕などすぐに消え去った。
先生の問い掛けにゆっくりと頷くと、視界がくらくらりんと揺らめいた。平衡感覚を完全に剥奪され、天地も左右も判別の付かない不安に息が上がる。全身の血が沸き立ちぐるぐると身体を縦横無尽に駆け巡った。顔を布団に埋め、込み上げる酷い吐き気と格闘していると、きりやん先生の角張った手が頬を撫でる。
「ほら、歩き回ってたツケが来てるじゃん」
無意識に溢れ出した涕涙を指の腹で掬ったきりやん先生は、くすくすと花笑みをこぼす。ひどい、ひどい、どうしてそんなに嬉しそうなの。
「治るまで外出たらダメだからね、身の回りのことは俺が全部やってあげるから。何かあったら俺に言うこと、分かった?」
「次があると思わないで」、きりやん先生がそっと呟いた言葉の意味を理解する事は、今の私には難しかった。