【白尾】あなたをさらいに、夜がくる


#「夜廻」パロ
 サブイベント「自販機の怪」のネタバレがあります。ゲームをプレイ中の方はご注意ください。
 ライセンスガイドに基づき、一切の金銭が発生しない事をお約束致します。
 


 街が黒々とした夜に咀嚼されて飲み込まれてしまったのは、忙しなく時を刻む短針と長針が丁度時計の零を指し示した時だった。

 左右に迫る、苔の生えた軒が夜空を切り取っている住宅街の小道に体を滑り込ませた少女は、薄い前髪が張り付いたまるっこい額から吹き出す脂汗を拭いながら出口を目指し、背中に突き刺さる視線には気付かないフリをした。普段は簾の隙間から晩酌の灯りが漏れ出している筈の居酒屋も、今日だけは静かに寝静まっている。夜の街を我が物顔で徘徊する死に損ないの巣窟の様に思えるこの狭い道は、踏切までの近道だった。

 小道が終わりを告げれば、すぐ横に踏切が現れる。カンカンと両耳をつんざく様な警告音が、静閑な街に響き渡った。最終列車の時刻はとおに過ぎ去っているが、所々朽ちかけている木造の列車が零魔の目の前を通り過ぎる。

 無人のコンビニを横目に橋を渡り、東へ進むと灯りが途切れ気味の自販機が佇んでいた。背後から、大食漢の袋と風化が進んだアスファルトの道が擦れる様な音がずりずりと響いている。零魔は懐中電灯を落とさないように震えを抑え、自販機に錆びた十円玉を飲み込ませた。

 一枚、二枚、三枚、四枚。

「待ってや零魔ちゃん!そっちに行ったらあかん!」
 
 五枚目。

 拾い物の十円玉を五枚入れ終わると同時に、夜を廻るカミサマが少女の肩に手を付いた。しかし、その手はすぐに宙を切る。自販機下の隙間から伸びる血の気の無い複数の手が、零魔を空夜の闇へ引き摺り込んだのを鬱は見逃さなかった。

「あぁどぉしよ、零魔ちゃん、零魔ちゃんが取られてまう、何で工場から逃げ出したん?僕の何が嫌やった?僕はどこで間違えたん?お願いや、僕を置いて行かんで、帰ってきてや零魔ちゃん…」

 誘蛾灯の役目を果たす自販機の光が、少女の幻惑に縋る鬱の指の隙間から漏れ出した。

「うわさ、本当だったんだ…」

 少女が通う第二小学校では、街にまつわる七不思議の噂が代々口伝てに受け継がれてきた。もっとも信憑性に欠ける根も葉も無い噂話であり、特にその内四つは零魔の記憶の端にも残らない様なありふれた怪談だった。

 朧げながらも少女が脳裏に書き留めていた噂は、三つ。一つ目と二つ目は、第二小学校の生徒に限らず街の住民ならば誰もが知っているであろう、「よまわりさん」と「コトワリさま」。どちらも先程まで少女を追い掛け回していた厄介なカミサマのなり損いである。

 そして三つ目は、「自販機の怪」。コンビニの北側にある橋を渡り、東の道を進んだ先の行き止まりに位置する古ぼけた自販機の噂であり、その自販機に十円玉を五枚入れると、異界へ連れ去られるという内容だった。少女は決して噂話を信じ込んでいた訳ではないが、「よまわりさん」から逃れる為藁をも縋る思いで自販機に全てを託した。少し前まで閉じ込められていた缶詰工場の埃と酸化した油の香りが執念深く体に付き纏い、零魔は顔を顰める。

 異界は随分と静かだった。鈴虫と蝉の声が微かに聞こえ、穏やかな時間がゆったりと頬を撫でる様な感覚がした。逢魔時のノスタルジックな夕焼けの茜色が、街を優しく抱き締めている。半紙に墨汁を垂らした様な顔の怪異も、金切り声を上げ泣き喚く赤ん坊の水子の霊も、行き場が無く宙を漂う水死体の化物も、ここには存在しない。太陽と月の出番が入れ替わる瞬間が永遠と続く暖かな世界に、少女は立ち竦んだ。

「お化け、みんな消えちゃった」
「異界へようこそ、ここなら安全だよ」

 零魔がぼんやりと彼は誰時の空に目を奪われていると、酷く耳触りの良い蒼穹の声が夕焼けの香りに染まる空気を揺らした。驚愕と一抹の不安で肩を跳ね上げた少女が声の主を探すと、初夏の様に涼しげな雰囲気を纏う青年が、零魔のすぐ横で花笑みを湛えていた。

 お化け、と少女は懐中電灯を身構えるが、「待って待って」と慌てふためく青年に警戒心をすっかり解かれてしまった。
 「いきなりでびっくりしたよね、ごめんね」と謝罪を付け足される。

「零魔ちゃんにとっては初めましてかな。俺はなかむ、ここまで来てくれてありがとう」


今までの怪異やカミサマとは違った柔らかな雰囲気に絆された少女は、青年に差し出された手に恐る恐る自身の小さな手を重ねた。きゅ、と可愛らしい音と共に冷え切った手で包み込まれる。力加減を探る様な、臆病が見え隠れする繋ぎ方だった。

「ずっと見てたけど、色んな奴に追い回されて大変だったね」
「ずっと?」
「うん、早くこっちに来てくれないかなーってみんなで待ってた」

 「みんな?」と再びなかむの言葉を反芻した少女に、彼は街灯の下を指差す。「あっちはぶるーく、俺の仲間の一人」と虚空に笑い掛けた。

「…誰もいないよ?」
「いるんだなぁそれが、僕のこと見付けられる?」

 零魔の背後で、くすくすと少女を揶揄う戯笑が風に乗る。振り向いたとて誰も居ない。間伸びした楽しげな笑いが夕暮れに反響し、零魔は今までの経験から懐中電灯で街灯下を照らし上げた。夜の無意識下に溶け込むぶるーくを見付け出した少女になかむは感嘆の声を漏らす。滔々と流れる可惜夜の瞳に一等星を輝かせたぶるーくは、ふわふわとした足取りで零魔との距離を詰め、仕上げにふんわりと朗笑を零した。

「うふふ、見付かっちゃったぁ。はぁい零魔ちゃん、さっきなかむが言ったと思うけど僕はぶるーく、これからいっぱい遊ぼうね」

 少女から懐中電灯を取り上げたぶるーくは、たった今手持ち無沙汰となった零魔の左手に指を絡ませた。命綱であった灯りを取り上げられた少女は返してとせがんだが、比較的小柄ななかむでも彼女にとっては随分と大きく見えるため、背丈の高いぶるーくから懐中電灯を取り返す事は至難の業だった。

「えぇ、でももう必要ないでしょ?これからは僕らが一緒に居てあげるからお化けなんて怖くない、ね?」
「だめ、おねぇちゃんを探しに行かないと」

 「え、」と、晴天と宵の声が重なる。「どうして?」「何で帰るの?」「ここに居ていいよ」と二人は少女を捲し立てた。少女は確かに望んで異界へ足を運んだが、目的はあくまで「よまわりさん」から逃げる事であり、夜を廻る事に畏怖したからではない。「よまわりさんから逃げて来ちゃっただけだから」と零魔が口にすると、ひんやりと冷え切った風が三人を取り巻く空気の水面を揺らした。


「よまわりさん?よまわりさんが怖いの?大丈夫、きりやんは優しいよ」
「ぶるーく違うって、鬱先生のことでしょ。怖かったね、でも『こっち』のよまわりさんは優しいから…それに、ここにはお化けは居ないよ。お姉ちゃんの分まで、俺らが遊んであげる。だからここに居よ?」

 二人に優しく咎められた少女は、呆気なく押し黙ってしまった。姉を探さなければならない使命感と、少々強がりを見せてはいるものの、死と隣り合わせの夜の街を徘徊するという拭い切れない恐怖心が天秤に掛けられぐらぐらと揺れているのが手に取るように分かる。もう一押し、となかむとぶるーくは視線を交錯させた。

「ちょっと探検しよ、そしたら気が変わるかも。まだ鬱先生は諦めてなさそうだし、今帰っても二の舞になっちゃうよ」

 「ね、ね?」とまだ遊び足りないと帰宅を拒む駄々っ子のように同意を求めるぶるーくに、零魔はそっと頷いてしまった。ほとんど無意識に近い肯定の返事だった。それに気を良くしたぶるーくは少女の手をしっかりと握り締め、零魔となかむと引っ張る様に先頭を切った。

 異界の道には大量の二枚貝が散らばっており、小指の爪程の小さな物から、少女の背丈を優に超える通せんぼの貝殻まで、大きさは様々だった。三人が靴底で貝を踏み締める度に、小気味のいい音が鳴る。
「異界だから貝!」と豪語したぶるーくだったが、零魔の筆舌に尽くし難い微妙な表情を見て拗ねたように頬を小さく膨らませた。

 何の目的も無く徒然なるままに歩いて行けば、依然としてカンカンと甲高い奇声を上げる見慣れた踏切が姿を現した。随分と古めかしい電車が、またもやがたがたと通り過ぎる。「よまわりさん」から逃れる為に通った踏切と同じだったが、異界の踏切の向こう側には薄く水が張っていた。貝殻と併せて、波が打ち寄せる浅瀬の様な雰囲気がある。

「あ、スマイル」
「すまいる?」
「うん、さっきの電車に車掌…運転する人乗ってたでしょ、あれがスマイル」



「目合ったしこっち来るかなぁ」と電車の後ろ姿を眺めながらなかむは呟いた。零魔は誘われるままに、足首が浸かる程の深さの海の中へ足を踏み入れる。学校のプールよりもひんやりとしていて、夏祭りで冷やされるラムネになった気分だった。

 遠慮無く吸い取られる体温に身震いした少女は、なかむとぶるーくの手を引いた。

「あれ、寒くなっちゃった?抱っこする?」
「…ううん、いい」
「遠慮しないで、この先深いから」

 自身に伸ばされたなかむの手を掻い潜り、力が緩んだぶるーくから、繋がれた手をそっと解いた。ぱしゃぱしゃと打ち上げられた深海魚が跳ねる様に水飛沫を上げながら踏切を戻った零魔は、「もう帰らなきゃ」と二人の名前を呼んだ。

 茜色の空にぽつぽつと夕月夜のインクが滲み、夜の帳が引かれ始めている。異界に足を踏み入れた時よりも、辺りは随分と薄暗くなっていた。

「何回も言ったよね、どうして俺の言う事聞いてくれないの?帰らなくていいんだって」
「怖いことなんてなんにもないよ!ね、一緒にいよ?」
 
 夜のしじまが垣間見える薄明の隻眼と、雨夜の星を写し取った瞳に捉えられた零魔は、震える足に鞭を打ち自販機を目指して一目散に逃げ出した。懐中電灯が取り上げられたせいで深夜のカーテンが行く手を阻む。丑三つ時に似た空には、月の船の姿が明瞭に見えていた。



 あなたをさらいに、夜がくる。



「おっきい貝殻、さっきまでなかったのに…」

 枯れ木の様な色の二枚貝の巣窟と化した橋の節々を占拠する巨大な貝殻を退かせながら、『あっち』と『こっち』を繋ぐ自販機を目指す。暗闇が羽衣の様に纏わり付く為、足元すら見えず何度か転んだ少女の膝からはてらてらと鮮血が垂れていた。靴底で踏み躙り割れてしまった貝殻が刺さっているらしく、膝を曲げ伸ばしするたび、零魔の足止めをするように破片が食い込んだ。

 道を塞ぐ最後の貝殻に手をかける頃には、零魔は酷い息切れに襲われていた。怪異に追い掛けられるだけでも相当な体力を要するのに、追手が気掛かりの中自販機までの経路を開いた少女は怒涛の勢いで体に血を巡らす心臓が破裂してしまいそうな程に痛んでいた。自身が息を吸っているのか吐いているのかすら曖昧だったが、煌々と光を発する自販機まで歩み寄る。

 あと少し、あと少しで帰れる。実際には自販機までシャトルラン程の距離があったが、少女にとって異界からの出口は目前に迫っていた。

 しかしその希望は、呆気なく打ち砕かれる事となる。

 月光の下では銀色に輝く灰色の髪の毛をぐしゅぐしゅに丸めた毛玉から覗く、瞳孔が開き切った瞳と目が合った。カエンタケの様な毒々しい色をした蜘蛛の足が地団駄を踏み、零魔のか細い悲鳴に合わせてがぱりと口が開く。少女を襲う意志は持ち合わせていないものの、行く末を阻む大きな巨体の怪異は今少女が最も出会いたくないお化けの一匹だった。
 
「ぁ、ぇ、みちふさぎ、来た時はいなかったのに、なんで」
「道塞ぎ?へぇ、オレのことそう呼んでんだ」

 喋った、と漏れ出す畏怖を押さえ込むように少女は口元を両手で覆った。道塞ぎの姿を視認するには遅すぎたのかもしれない。がちがちと歯軋りをしながら佇む怪異に頭が回らなくなった零魔は、その場に座り込んでしまった。

「ちょ、どっかで転んだ?血出てんじゃん」

 なかむでもぶるーくでも無い、深海の底を這う様な低音が少女の鼓膜を揺らす。徐々に酸化が進む血が不恰好に固まり始めていたが、零魔に膝の怪我を労わる余裕など無かった。この場から逃げろと脳は警鐘を鳴らしているが、未だ道塞ぎと交わった視線を切る事ができていなかった。


「なぁさっきからどこ見て」
「お前が見えてないんだろ、気使えよ」

 少女の背後から、少々煤で薄汚れたカンテラを握った手が伸ばされる。星躔の空で一際見事な輝きを魅せる星芒を模ったカンテラの中で、澄清の炎が揺らめいた。急な明かりに目が眩んだ零魔は思わずきゅっと目を閉じ、目の前で揺らぐ不知火をゆっくりと噛み締める様に瞼を持ち上げる。

「お、目合った。オレのこと見えてる?」

 道塞ぎが夜の迷子を襲わないよう牽制をするように、零魔のすぐ前に碧緑は立っていた。ぎこちなく頷いた少女に控え目な花笑みを浮かべた青年は、零魔の名を確かめるように呟き、自身の名前を口にする。零魔の方からシャークんの名を呼ぶ事は無かったが、幸いにも彼は名乗るだけで十分満たされたらしい。

「んで、こっちがスマイル」
「さっき踏切で見たし、なかむ辺りが言ってるだろうけど」

 零魔の背後からシャークんの隣に移動したスマイルは、白手袋で覆われた手で「どうも」と制帽の鍔を気怠げに掴んだ。柔らかなストレートティーの色をした髪から、至極色の双眸が見え隠れしている。狼狽える零魔を興味深そうに観察した後、ぁ、と態とらしく話を切り出した。

「なかむ達は先に行ってるってよ、俺らも行くか」

 なかむの名前が出た瞬間、少女は言葉を発しようと口を開いたが、出て来るのは意味を持たない母音ばかりで何の役にも立たなかった。暗がりに浮かぶ花紫と鮮緑に有無を言わせぬ優しい圧を感じたが、意を決して再び口を開く。「あの、」と零魔自身も少し驚いてしまう程大きな声が出た事に、彼女は気が付いていない。

「おねぇちゃんを探しに行かなきゃいけなくて」
「ふぅん、それで?」
「…そこ、通してください」

 恐る恐るといった様子で道塞ぎの怪異を指差した零魔だったが、男性二人と怪異が作り出す異様な雰囲気に打ちのめされすぐにその手をポケットの中にしまい込んでしまった。瞬く間に大粒の冷や汗が額に浮き出てくる。その後の言葉に詰まっていると、道塞ぎの青年が気不味そうに幽霊電車の車掌を見遣った。スマイルは早々に、捲し立てる様な口調で少女に問い掛ける。

「それ、誰かに帰れって言われた訳?自分を探せって姉から言われた訳?」


知らない場所には行かないこと、夕方には家に帰ること、幼い頃から今は亡き母親と散々小指を絡ませた約束だった。今日はどちらとも破ってしまったが、怨霊が蔓延る夜の街に身を投じてしまった姉を探し、夜風に冷やされた手を繋いで家路に着く事が正しいと少女は信じて疑わなかった。

 帰らない、という選択肢が浮かぶ事すらなかった零魔にとって、スマイルの問いの趣旨が理解できる筈もない。正直に「言われてない」と答える他ない問い掛けは、完璧な誘導尋問に等しかった。

「じゃぁ、帰る必要ないな」
「で、でも」
「ここから逃げて元の世界に帰ることが正しいとは限らない。そもそも零魔の事が大切ならなぜ姉は零魔を家に一人にした?零魔が心配する程家を空けた?零魔は本当に帰りたいのか?」

「向こうに戻れば、また夜に襲われる。俺らは零魔を歓迎している。戻らない選択を取る判断材料には十分だろ」と言い放った。肝心の零魔が小難しい文言を打ち返す術を持ち合わせている筈もなく、何か言い返さなければと本能的に理解しているものの言い淀むばかりで稚拙な反論すら生み出す事ができない。白痴に濡れた少女を多少気の毒に思ったシャークんが「とりあえずなかむ達と合流してまた考えればいいだろ」と助け舟を出すが、零魔は自身の頭に伸びた手を咄嗟に跳ね除けた。

「わ、わたし、やっぱり帰る!」

 夜の心音が耳に入りそうな程冷えた空気に耐え切れず、零魔は勢い良く駆け出した。橋を渡る事はできない、自販機に向かう事もできない。少女に残された選択肢は、人工的な光が眩い異界の入り口とは反対側に走った。猫じゃらしが我が物顔で青々と茂る空き地とシャッターの降りたコンビニを通り過ぎ、左右を確認する事なく線路を横切った。

 線路の側方は住宅街の裏山に面している。零魔は懐中電灯もカンテラもない中夜の山に足を踏み入れる事を少し躊躇いつつ、コツコツと一歩ずつ確実に近付く足音から逃れるため、背に腹はかえられぬと足を踏み出した。

 生い茂る木々にスカートや髪を引っ掛けながらも雑草を掻き分け進むと、以前起こった轢き逃げ事故の捜査のために作られた簡易的な山道に合流できた。ふんわりと降り注ぐ月明かりだけを頼りに、薄暗い山道を登っていく。零魔はどこかでシャークんとスマイルを撒いて、自販機に戻る算段を立てていた。

齢一桁の少女の体力などたかが知れている。案の定彼女の逃亡劇が長く続く筈がなかった。既に息は絶え絶えな上ふわふわと覚束ない足取りで山道を登っていた零魔だったが、遂に膝から崩れ落ちた。手を付いた地面にぽたぽたと汗が流れ落ち、乾いた山道に小さな水玉模様が浮かぶ。顔を上げると、少女と同じように崩れ落ちたお地蔵様が虚な目で零魔をじっと見ていた。

 もう背後から足音は聞こえないが、零魔はあの二人の気配がじっとりと絡み付いている様な感覚に襲われていた。振り返れば薄萌黄と桔梗の瞳と目が合ってしまう、そんな強迫観念が少女を付け回している。

 立たなきゃ、立てない、おねぇちゃん、立たせて、立ちたくない。

 意志と運動神経の接続が緩み思い通りに動かなくなった足をぼんやりと見つめていると、地面の水玉が増えた。ぼたぼたと堰を切ったように流れる涙は、いつもなら姉が拭ってくれる筈の雫だった。年端も行かぬ幼子によるぐずりに近い暗涙が洋服の袖を濡らし、喉奥で押し殺していた筈の嗚咽が漏れ出す。
 えぐえぐと地蔵の前で泣きじゃくる姿は中々に滑稽だったが、涙でびしょ濡れになった少女の頬がそっと包み込まれた。

「大丈夫?あーあ、あいつらこんなに泣かせて何考えてんだか」
「っ、やめて、はなして、」
「おっ、と、大丈夫だから落ち着いて。俺は何もしないから」

 後退る零魔を腕の中に閉じ込めた和装の青年は、とんとんと少女を慈しむ様に背中を叩いた。深更の闇夜に溶け込む、真夜中の色に染められた羽織に、花時雨に似た涕涙が染みる。夜の抱擁に絆された少女の涙は、段々と瞳の奥に引いていった。


「落ち着いた?それにしてもこんなとこまでよく来れたね、スマイル達となんかあった?」
「…わかんない」
「うーん、まぁ大体予想はつくけど…それにしても丁度良かった」

 何が「丁度良い」のか、そして先程まで流れで受け入れてしまっていた彼は何者なのか、涙の波が引いたことで早急に頭が冷えた少女は、よしよしと自身の頭を何の躊躇いも無く撫でくり回している青年からそっと距離を取った。月明かりによく映える星の花の様な瞳はどこか朝焼けを彷彿とさせ、夜から駆け離れた印象を受ける。穏やかな雰囲気を纏っているが、零魔の心に底知れない不安がこびり付いていた。

「そんな警戒しないで。元はと言えばさ、零魔が逃げ出したのが悪いと思わない?」

 鈍く光った菜の花色の瞳が細められた。「実はなかむから連絡入ってたんだよね」と薄く笑った彼が後ろ手に隠していた物が、青白い月光に照らされる。

 少女は「それ」に酷く見覚えがあった。元々「それ」の持ち主から逃れる為にここに来た。深緋の彼が話していた「きりやん」という人物が、目前で窃笑を浮かべる人物だったならば。異界の主、街頭下のおばけ、道塞ぎに、幽霊列車。まだ少女は、この街の夜を統べるカミサマに出会っていない事を思い出す。

「まさか零魔から俺のテリトリーに踏み込んでくれるとは思わなかった」
「山奥の工場の存在、忘れてた?」
「夜に出歩いちゃダメだからね、俺が責任持って送り届けてあげる」

 視界が、燻んだ灰に染まる。



「あ、起こしちゃった?」

 耳に馴染む高音から男性特有のバスバリトンまで、統一感の無い複数の声で構成されたアラームによって華胥の国から現実へ引き戻された少女の起床は、決して清々しい目覚めとは言えなかった。視界の端々に快晴や午前二時の空、朝焼けの色が映っている。零魔が少し顔を動かすと、古びた鳥居がチラついた。

 一つ見慣れていない双眸を挙げるならば、街灯下の怪異とはまた違う、サファイア色の林檎を十六夜の飴に浸した様な瞳があった。

 先程から錆び付いた金属同士が擦れる様な音がする。常人ならば身が縮こまる様な音の原因は「コトワリさま」が操る赤銅色をした鋏だったが、今の零魔にその音源を探す余裕など無かった。姉を探し夜の街を走り廻り異界へ身を投じたものの、此処でも逃げ惑い今までの不安と恐怖を洗い流す様に泣き喚いた零魔は、また微睡に溺れ始めている。

「きんときずるくなぁい?僕も零魔ちゃん膝に乗せたいんだけど…」
「こればっかりは俺の役得だからね、流石に譲れないかなぁ」

 軽く不貞腐れるぶるーくを横目に、きんときの筋張った手が自身の胸に頭を預けうとうと船を漕いでいる零魔の髪を梳く。さらりと指の隙間から逃げ出した柔らかな髪に目を細めた彼は、そろそろ、と異界の主人に目配せした。

「きんとき、零魔のこと起こして」
「…起こさない方がいいんじゃねぇの?これからずっとここに居んのに、怖がられるとか嫌なんだけどオレ」
「ダメだよシャケ、大事な縁切りなんだから」

 神事だから、と異界の主人は道塞ぎの提案を跳ね除けた。「過剰な優しさはかえって酷だろ」と幽霊列車の車掌にまで咎められた道塞ぎは、それもそうかとすよすよ寝息を立てる少女を静かに見守り始めた。

 上辺だけの言葉で咎められたものの、シャークんの優しさの源泉は零魔への配慮ではなく、目覚めた時に全て事が終わっていた時の彼女の戸惑う姿を見たいという欲求が大半を占めている事を、異界の怪異全員が理解していた。


「零魔ちゃん、もう少しだけ頑張って」

 理を司る十六夜色のカミサマが、花弁を撫でる様な手付きで少女を優しく揺さぶり起こした。焦点が定まらない寝ぼけ眼できんときと視線を交わした少女の左手が、異界のよまわりさんによって持ち上げられる。

 鬱血を懸念する程零魔の左手に絡み締め上げている数本の赤い糸に鋏を滑らせたコトワリさまは、「ん〜?」と気の抜けた声を漏らした。

「此岸との縁がちょっと強いかな。そんなに向こうに執着してるの?それとも亡くなったお母さんの加護?どっちにしろ往生際が悪いなぁ」

 「往『生』際って言うのも何だけどね」とぼやいた縁断ちの半宵が鋏を赤い糸に滑らせる度、ぽたぽたと糸に深緋の液体が伝った。辛うじて切る事はできたとしても、また新しい糸が左手に絡み付く。
ぷつぷつと糸が何度も切り離される感覚が左手に伝わり、零魔は徐々に夢路の果てから意識を戻しつつあった。

「きんとき、流石に埒が明かないと思う。なんかいい方法とか…」
「はいはい!僕にいい案があります!」

 考え込むように腕を組んだきりやんにいち早く提案したのは、先程から零魔の頬を突き回しているぶるーくだった。子供が遊園地に行きたいとせがむような弾んだ声色は零魔の耳にも入り、こてんと首を傾げる。少女は未だ自身の置かれた状況を理解できていなかった。

「左腕ごと落としちゃえばいいんだよ」

 あは、といつもと同じ様にふわふわ朗笑した彼に、全員が釘付けだった。もっとも零魔以外は、「確かに」「零魔ここじゃ死なないしね」「それ採用でいいだろ」と賛同の色を示している。渦中の少女はと言うと、左腕を落とすという随分と倫理観が剥奪された提案で、寝耳に水と言わんばかりに急速に思考回路が稼働し始めていた。

「や、やだ、しんじゃう、やだ」
「異界では何も生まれないし、誰も死なない。死という概念が覆された彼岸と此岸の境目、そういうとこなんだよ此処は」


はくはくと口を動かし音の乗らない吐息を漏らす零魔を、鋭いアメジストの瞳が射抜く。思わずきんときの蒼い羽織(厳密には羽織ではなくジャージであり、彼は和装にジャージという奇天烈な格好をしていた)を掴んだ零魔の小さな頭を、シャークんがぎこちなく撫でる。

「やだ、もうやだ、おねぇちゃん、たすけておねぇちゃん!」
「ふふ、零魔から『もう嫌だ』って言ってくれるんだ。じゃぁ早いとこ願いを叶えてあげないと」

 「痛くしないからね」と茶目っ気たっぷりに微笑んだコトワリさまが、零魔の二の腕に鋏を当てがう。少し刃を滑らせただけでも薄く切れ込みの入った柔らかな肌に気を良くしたきんときは、至極の享楽とでも言いたげにゆるりと口角を上げた。零魔の頬を濡らす透き通った真珠の粒を、なかむの細い指が掬い上げる。

「ほら、行きはよいよい帰りは怖いって言うよね」

 「足を踏み込んだ零魔ちゃんが悪いんだよ」、鋏が更に食い込んでいく。俺の専売特許だから、と断りを入れたきりやんが、初氷宛らの一掬の涙を零す零魔を慈しみに溢れた手であやした。その間も、無慈悲な刃は遠慮する事なく少女の腕を抱き締めて離さない。

「ぃた、痛い、もうやだ、やだぁ、たすけ、」

 形容し難い生々しい音が、夜の帳に包まれた異界の境内に響き渡った。

 一瞬の静寂の後、「わぁ!」と歓喜の声を漏らしたぶるーくを皮切りに、皆一斉に零魔を誉め出した。しかし「頑張ったね」「いい子」「よくできました」の声は、零魔には届いていないらしい。

 痛みはあるのに、二の腕から下の感覚が無い。左手を動かしているのに、地面に転がる腕が一向に動く気配は無い。人生においてまず体験する事のない、焼いた鉄釘で傷口を刺されている様な痛みで意識が遠のいて行く。

ごめんね、おねぇちゃん。

 姉への謝罪を口ずさんだ零魔の頬に、啄ばむような口付けを。

「異界へようこそ、零魔ちゃん」








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