痛みの理解
「洗濯物干すの手伝ったらさ、しばらく開放してくれるって」
きんときに手を引かれ(正確には点滴台を人質に取られ)連れて来られたのは、いつもは施錠されている屋上だった。雲一つない澄清の空の下で、洗濯された白いシーツがはためいている。頬を撫でる柔らかな風が、煮詰まった思考を溶かしていく感覚が心地良かった。
「零魔の気分転換になれば良いと思って。もう体調は平気なの?」
「うん。あの時はコールしてくれてありがとう」
「どういたしまして。それくらいしかできなかったけどね」
落下防止のフェンスに腕を乗せたきんときは、「きりやん達がいてくれてよかったね」と微笑んだ。どことなく御伽噺の王子様を彷彿とさせるが、病衣の袖から垣間見える真新しい包帯が邪魔をする。ジャージに袖を通せば隠れる位置ではあったが、きんときは私が包帯の話題に触れるのを待っているような気がした。
あえて触れないでおくという選択肢も存在したが、ゆるりと細められた群青の瞳には、底知れない期待が込められていた。聞いてくれれば良いな、なんて淡いものではなく、身の危険を感じる程の毒々しい期待だった。
「…きんときも、腕大丈夫?」
「ふふ、この話題に触れたくないって顔してるのに聞いてくれるんだ。零魔は優しいね、漬け込みやすいって言うんだろうけど」
きんときは私の右腕に手を伸ばし、患者衣ごとカーディガンを捲り上げた。打撲痕を隠すためきりやん先生の手によって完璧に巻かれた包帯を、彼は迷う事なくしゅるしゅると解いていく。
「うわぁ、痛そ。ううん、痛かったね。零魔が感じた痛み、俺が一番分かってあげられるから」
包帯が取り払われたことで顔を覗かせた青紫の打撲痕を、きんときの細く筋張った指がなぞる。傷を労ってくれているのかと思ったが、次の彼の発言でこの生温い思考は間違っていたのだと痛感した。
「うん、覚えた。俺も試しに痣を付けてみたんだけど、やっぱり零魔のと同じ位置に付けたいと思って。その方がさ、零魔がどんな痛みを味わったのかよく分かると思わない?」
一等大きな打撲痕に力を込められ、喉奥から形容し難い声が漏れた。
「好きな子と同じ感覚を共有したいって気持ち、零魔は分かるかな?嬉さとか楽しさとか、気持ちよさとかね。でもそれだけが全部じゃない。悲しい、苦しい、痛いとか怖いとか、そういう負の感情も全部共有したい。だから零魔が傷付いた分だけ、俺も傷を受けるよ」
私の頬に手を添え額同士をくっつけたきんときは、目を伏せながら言葉を紡いだ。自身の体が冷えていくのを感じたが、冷え性なきんときの冷たい手が私の体温を奪っているのか、ただ血の気が引いているだけなのかは分からなかった。
きんときが、何を考えているのかも分からなかった。
「きんとき、きんときが分かんないよ」
「そっか。それは残念だけど、零魔には理解して欲しいんだよね。だって俺の一方通行は嫌だから。でも安心して、零魔が分かってくれるまで俺がしっかり教えてあげる」
「大丈夫、ゆっくりでいいよ」と締め括ったきんときは、仕上げにとでも言いたげに私の額に口付けを落とした。彼に触れられた部位から、体が凍りついていく。まるで金縛りにでもあったかのように、新月の夜を写し取った様なきんときの瞳を眺めることしかできなかった。
「じゃぁ、早速一つ教えてあげる」
きんときは、ゆったりとした動作で私の頬から手を離した。彼の手が離れたことで、ようやく体温が戻っていく。彼はそのまま私の頭を一撫でし、手持ち無沙汰になった手を宙に彷徨わせた。
何だろうときんときの手を追っていると、点滴の輸液バッグ辺りまで持ち上げられた手が、勢いよく振り下ろされた。
私の頬めがけて。
バチンと肌同士がぶつかる小気味の良い音がなる。きんときの手は綺麗な放物線を描き、もう片方の手のひらに打ち付けられた。頬の横で音が鳴ったせいで、一瞬自分がぶたれたのだと錯覚してしまう。困惑し目を白黒させる私が面白いのか、きんときはくすくすと嘲るかのように笑った。
「怖かったね、でも俺も同じくらい怖かった。さっきぶるーくから聞いたんだよね、零魔が外に出たいって言い出したって。零魔はこの病院が変だと思ってるみたいだけど、俺らからしたら今の零魔の方が変だよ。前はそんなこと言わなかったのに。まぁ、どう思うかは零魔の自由だけど、よく考えて」
「先に戻ってるね」と眉を下げたきんときは、足早に屋上から出て行ってしまった。
彼が始めに言った「きりやん達がいてくれてよかったね」と、最後の「よく考えて」という発言。彼は最初から、会話のシナリオを全て完成させていた。そうだった、きんときはそういう人だった。
間違っているのは貴方の方だと、相手を追い詰めるのが上手い人。
一体どちらが間違っているのか。屋上を吹き抜ける温かな風に、自信が削ぎ落とされていった。