【紫】この無情な箱庭で、君が来るのを待っていた



#「MAZE」


 亡霊でさえ立ち入らない、深い樹海で大口を開けている井戸がその迷宮のエントランス。命が惜しくば大手を振って帰るが良い。

 誇大広告の様な噂を信じ、新米記者の私は迷宮「MAZE」の正体を解き明かし記事にすべくこの箱庭に身を投じた。今思い返せば、その中途半端で生ぬるい泥水の様な精神がいけなかった。此処は地獄だ、出口など最初から存在しないのだ。

 血の底を這いずり回る様な呻き声と、松明から産み落とされる炭と灰の蛾にさえ怯えながら先へ進み続けた。ある時は身体が朽ち果てた少女に追いかけ回され、またある時は巨大なジャック・オ・ランタンの生首の破潰から逃れようと息を殺してロッカーに閉じ籠った。精神が嬲られ甚振られ、いっそのこと自決を選択した方が良いのではないかと思い始めた頃、彼に出会った。

「疲れたなら休憩挟むけど…まだ足動くなら、とりあえず俺が拠点にしてる部屋まで行くから」
「っぁ、全然大丈夫です」

 彼の手は本当に人間かと疑ってしまう程冷え切っていたが、逸れないよう繋がれた左手が熱を孕む。一歩先を歩く彼の表情は見えないが、古めかしいカンテラの弱々しい明かりが異様に頼もしかった。

 スマイルと名乗った彼はこの迷宮へ友人を探しに来たらしく、絵画の部屋の隅で震えていた私を助け出してくれた。大量の本棚が並ぶ部屋に通され、ランプから漏れ出る温かな光に照らされた彼はチェストに腰掛けふわりと小さく微笑んだ。

「あの、本当にありがとうございます。私、スマイルさんが居なかったら今頃…」
「別にいいよ、これくらい。災難だけど、脱出は難しいだろうな」

 カンテラを床に置いた彼に手招きされ、そっとスマイルさんの横に腰掛けた。ひんやりとした冷気が横から伝わり、そっと彼の顔を盗み見るが別段変わった様子はない。

「ん、何?」
「ぁ、いえ、何でもないです…スマイルさんは、いつから此処にいるんですか?」


何か当たり障りのない話でも、と振った話題が間違っていた。彼はゆっくりとした動作で立ち上がり、唯一の明かりであるカンテラを蹴飛ばす。飛んだ勢いで蝋燭の炎が消え失せ、静寂と暗闇が混ざり合ったラビリンスに引き摺り戻される。彼の息遣い一つ聞こえず、一人狼狽えているとスマイルさんが口を開いた。

「四年前、四年前からずっと此処に居る」
「四年前…って、食糧どころか水もない中一体どうやって」
「分かんない?人間じゃないって言ってんだけど」

 多少の呆れが含まれた声が鼓膜を揺らした瞬間、私は何かに弾かれた様に扉に向かって走り、ドアノブを回した。しかし無情にもドアはガチャガチャと掠れた金属音を奏でるだけで、一向に開く気配がない。どうして、さっきは開いたのに、どうして開かないの!鍵も錠前もないただの扉を叩くと、背後からくすくすと私を揶揄う様な嘲笑が聞こえた。

「開かねぇよ、絶対。俺のテリトリーに入ったのが運の尽き」

 ドアを叩く手を優しく絡め取られ、チェストまで引き戻された。生憎夜目が利く方ではなく、スマイルさんの表情も姿も一切見えない。否、元より見えていない方が正常なのかもしれない。じわじわと私の体温を奪っていく冷たい手は、「死人」という比喩がよく似合っていた。

「結局、友人諸共此処から出れなかったよ。俺ら全員、仲良く地縛霊になった訳」
「そのお友達は、どこに」
「すれ違っただろ、至る所で。ところで零魔、その手どうすんの?」

 いきなりカンテラに明りが灯され、光に目を眩ませつつ先程まで彼と繋いでいた手に視線を落とすと、確かに何か違和感を感じた。恐怖で高鳴る鼓動を抑えつつ、カンテラの光に血潮を透かせる様に手を伸ばすと、とろりと肉が溶けた。ぽたぽたと蝋の様に溶け続け、遂に芯が顔を覗かせる。悲鳴すら、喉に張り付いて出なかった。

「こ、これって、放浪者の子同じ」
「まぁ、アレとは少し違うけど。これから段々溶けて骨だけになって、俺と同じ幽霊になる」

 楽しみだな、と彼が私の腕をなぞると、べちゃりと品性のカケラもない音を立てて肉塊がチェストを汚した。空気が直接骨を撫で、全身に悪寒が走る。

「井戸のとっから全部見てた、って言ったらどうする?っはは、もう聞こえないか。そんじゃ、おやすみ」








目次