【黄】はいたつやさん


#「例外配達」要素が含まれます

 玄関の呼び鈴は相変わらず配線同士の接触が悪いらしく、音に変換されなかった一部の電流が直接流れるような、不快なノイズ音が流れ出した。管理人に何度か修理を持ちかけたものの、どうやら彼女はこのおんぼろアパートに壮大な愛着形成をしているらしく、「それもまたいいじゃない」と、不便と風情を履き違えているようだった。

 玄関横に設置されている機械は本来呼び鈴ではなくインターホンと呼ぶべき容姿の代物だが、これまた通話を司る部分がイカれてしまったらしい。覗き穴無し、チェーン無し、最後の砦のインターホンはご臨終。このご時世に時代錯誤も甚だしい防犯面を誇る玄関扉をそっと開くと、見慣れた配色の制服にどっと安心感が湧き出した。

「きりやんさん…お荷物ありがとうございます」
「いや、こっちこそいつも夜遅くにごめんね。こんな時間に来客って不安でしょ」

 「それにしても今日暑すぎない?」と会社指定のキャップを取ったきりやんさんは、帽子でぱたぱたと顔を扇いだ。癖毛の間から覗く額にはじんわりと汗が滲んでおり、彼がこの熱帯夜にアパートを駆け回った事を示唆していた。

「そうそう。今日の荷物結構重いんだけど、よかったら部屋まで持って入ろっか?何なら俺組み立てるし。今日は零魔ちゃんの荷物で最後だからさ、時間とかは気にしないで」

 彼は、私の身長よりも少し小さいくらいの段ボールに視線を落とした。箱の側面にネットショッピングのロゴが大々的に描かれており、送り状の内容物の欄には教科書の字体で『本棚』と印刷されていた、

「あ…でもご迷惑じゃ」
「いやいや、こんな大きいの零魔ちゃんだけで組み立てる方が心配だって!あ、いや、流石に男を部屋ん中に入れるの嫌だよね、ちが、そういうつもりじゃなくて、」

 わたわたと両手を振って否定するきりやんさんが何だか面白くて、思わず笑いが溢れてしまう。実家からは遠い大学に通うためこのアパートに引っ越してから一年と少し、彼とはこうして立ち話をする程度には打ち解けていた。夏場にはアイスを渡したり、雪の日にはカイロを差し入れしたり。配達員とは思えない砕けた口調に、お互いの名前を知っている状況が、見知らぬ配達員を家に上げる事に対する警戒心など打ち砕いていく。

「それなら、お願いしちゃってもいいですか?」

 きりやんさんは、嬉しそうに頷いた。


「あの、本当にありがとうございました!」
「いいよいいよ、気にしないで」

 狭苦しく、課題や授業のレジュメ、エナジードリンクの空き缶、さらにはコンビニスイーツの抜け殻が散乱する四畳半の部屋に彼を通すのは些か憚られたが、深夜に勢いだけで注文した本棚は、きりやんさんの言葉通り私一人で組み立てられる代物ではなかったため感謝しかない。

「でもさ、まさか零魔ちゃんがペット禁止のアパートで猫飼ってるとはね」
「そ、それは大家さんには内緒で…!」
「流石にチクったりしないって。それより、コレのことなんだけど」

 きりやんさんは急に神妙な面持ちで、靴箱の上に放置されたままの猫缶に視線をやった。彼が本棚を組み立てている最中に、三○六号室の住人が差し入れという名目で持ってきたものだった。私が猫を飼っているなんて一言も、誰にも話したことはない筈なのに。私の手を撫でるようにして掌の上に生温かい猫缶を乗せた彼は、玄関口で揃えられたきりやんさんの靴をじっとりとした目で観察した後、そのまま立ち去ってしまった。

「コレは俺が捨てとくね、コンビニのゴミ箱にでも放り込んどくからアパートで処分するより良いと思う。あんま気分の良いモンじゃないし、万が一毒でも入ってたら大変だから。あと今日は俺がいたからいいけど、次は何かされる可能性も十分にあることを覚えといて。最悪…ストーカーの線も考えた方がいい」

 きりやんさんは猫缶を訝しげに眺め、そのままウエストポーチに捩じ込んだ。「返して」とでも言いたげにきりやんさんの足に擦り寄るうちの子の頭を一撫し、申し訳なさそうに謝った。

 ストーカー、という酷く現実離れした単語がすぐそこまで躙り寄って来ている事を自覚してしまった瞬間、途方もない息苦しさに包まれた。きりやんさんに甘える子猫を抱き上げ部屋の中へ。彼を玄関先まで送り、お礼を言う。どれだけ些細であろうとも全ての動作に尋常でない量の労力を使ってしまい、肺をぎゅぅと鷲掴みにされたような圧迫感と苦しさだけが蔓延った。

「何かあったら…いや、何かある前に連絡して。迷惑だと思わなくていいからね」
「何から何まで、本当に…ごめんなさい」

 きりやんさんと連絡先を交換したばかりのスマートフォンを、胸元で抱き締めた。

彼女が亡くなるなんて、誰が予想できただろうか。

 家に帰ると、彼女は部屋の隅で、私から隠れるように冷たくなっていた。初雪という名に相応しい甘いミルクの様な美しい毛並みを吐瀉物で汚して、苦しみから逃れるように丸くなっていた。私は冷え切った彼女を抱き上げようとしたが、きっと私に彼女を弔う資格など無いだろうと、伸ばした手は震えるばかりでそのまま宙を掻いた。胃なんかよりも、もっと深い場所から込み上げてくる吐き気にひとしきり喘いだ後、子供のように泣いた。子供の時よりも随分と複雑な死へ対する感情が捌き切れなくて、泣きじゃくった。

 溢れ出す水滴をカビ臭い畳に吸わせていると、あの雑音塗れの呼び鈴が鳴った。

 嗚呼、出ないと。

 ふぁふぁとした足取りで立ち上がり、内鍵を回す。凍傷を負ってしまいそうな程冷え切った指先に触れる、夏に温められた鍵の生ぬるさが心地良かった。夕暮れ時、まだ蝉は短い寿命を削るように鳴き喚いていた。その蝉の喧騒で部屋の中を満たすように扉を開けると、夏の暑さにやられてしまったのか、私の視界はそのまま反転した。打ち付けた頭に響く蝉の音の煩わしささえも、視界に広がる油ぎった男の顔よりはずっとマシだった。

「ぁ…あ…零魔ちゃ、零魔ちゃん」

 くらくらと一番星が舞う視界で捉えたのは、あの三○六号室の住人だった。お腹に馬乗りになられ、汗かはたまた…か、触れている部分がじっとりと湿って気色が悪い。平べったい肉団子の様な乾燥した手で口元を抑えられ、嗚呼、私はこのままこの小汚い男に、好き勝手に暴かれてそのまま殺されるんだ、と冷静に考えた。きっと初雪を苦しめたのも此奴で、私の彼女の後を追うことになるのだ。

「ぃ、いいこ、やっぱり、ぉ、ぉれ、僕と両思いだったんだね、そうだよね、だから開けてくれたんだよね、ぁ、ぁは、嬉しいな、やっと結ばれるんだね、ぅふ」

 瞼に、頬に、額に、首筋に、殻から引き摺り出したカタツムリを二つ並べたような唇が寄せられる。唾液で濡れた肌が、濃硫酸でも被ったかのように痛んだ。

「さ、最後は口、だよね、ね?絶対、ぜったい幸せにするからね、すきだよ、零魔ちゃん」

 男が私の口を押さえていた手を頬に滑らせた瞬間、そのぶくぶくとした体が視界から姿を消した。


「零魔!」

 いつもの、見慣れた配色の制服が私を抱きすくめた。袖から覗く色白の肌からは想像出来ないような肩の逞しさや、息切れで上下する胸筋は男性らしさの象徴の一角であったとしても、私に一切の恐怖心を与える事がない。きりやんさんも、震えてる。冷静なのか茹っているのか、薬の服用量を誤ったかのような使い物にならない頭で考えるも、その震えが私のものであると気が付くのに随分と時間がかかった。

「ごめん、本当にごめん、あの時俺がもっと対策しとけば良かった。もっと早くここに来れたら、零魔はこんなしんどい思いしなくて済んだのに」
「きりやん、さ、わたし、」
「大丈夫、何も喋んないで。しんどかったね、気持ち悪いよね、怖かった、よね。よく頑張ったね」

 再び溢れ落ち始めた涕涙を、きりやんさんの指が一粒一粒丁寧に掬い取っていく。愛猫の死に、三○六号室のストーカー。溢れ出す感情が煮崩れて、きりやんさんの言葉を聞くまでは自身の感情を言葉として認識することもできなかった。

 せめて。せめて彼にお礼を言おうと息を吸った時、ふんわりと口付けが落とされた。

 頭の中で響いた警鐘は蝉の鳴き声に酷似していた。二度も同じ経験をした私の体は咄嗟に、そして無意識の内にきりやんさんを突き飛ばそうとしていた。勿論そんな些細な抵抗で彼が引くはずもなく、重なり合った唇の隙間から澱んだ液体と生々しい吐息が漏れる。散々蹂躙された後、ずるずると座り込む私を支えるように彼は私を胸に閉じ込めた。

「腰抜けちゃった?マ、そんなとこも可愛いね」
「ぃ、いや、なんで」

 きりやんさんは、困ったように笑った。零魔ちゃん、と優しく呼んでくれていた頃の彼は、もう居なかった。

「その『何で』は何に対して?俺が猫を殺したことに対して?偶然俺が駆け付けれた理由について?それとも俺がキスした理由について?」

「猫はさぁ、邪魔になると思ったんだよね。ほら、やっぱ零魔は俺と暮らした方がいいと思って。こんなボロアパートじゃ零魔の身が危ないし、零魔のあの生活見てたらいてもたってもいられなくなって…同棲するなら猫も連れていく事になるけど、二人の時間は邪魔されたくないから。だから殺した。あ、勝手に零魔の部屋に入ったのは謝るけど、俺ら恋人になる訳だからさ。合鍵使うくらい大目に見てくれると嬉しいんだけど」


「あと零魔のとこに来れたのはずっと見てるし聞いてるからだよ。好きな子のことって、全部知りたいって思うのは普通でしょ?おはようからおやすみまで、ずっと見守ってる。ねぇそんな顔しないで。だって零魔が助かったのは俺が見守ってるおかげなの、分かってる?」

「キスは消毒。こんな男に汚されかけたと思うと本当に虫唾が走る。でも零魔がいけないんだよ?俺、ちゃんと確認してから扉開けてっていつも言ってるのに。マジで警戒心がないんだからさぁ…嗚呼でも、俺を部屋に上げてくれたのは嬉しかった。俺に襲われても良いんだって、思っちゃうのは仕方ないよね」

 きゃぁきゃぁと乙女の様にはしゃいだ彼は、全て言い終わった瞬間スッと瞳を細めた。絶対零度の瞳、とはよく言ったものだが、彼は元から体温など持ち合わせていないのではないかと思ってしまう程に、冷たく、決して綺麗とは言うことのできない熱の篭った瞳で、私の耳元に顔を寄せた。

「ちょっとだけ我慢してね」

 彼は私の首に片手を添えた。肌が触れ合っている事に対してあの男のような不快感は無かった。しかし、その分恐怖が強かった。

 そのまま床に雪崩こむ様に体重をかけられる。後頭部に差し込まれた手がクッション代わりとなり頭を打つことはなかったが、彼が私に跨っている光景は、三○六号室の住人と変わりなかった。徐々に力が込められる手を引き剥がそうとするも、脳と神経の配線が狂っているらしい体は言う事を聞かない。

「…こんなに震えて可愛そう。もう二度と、あんな思いさせないからね。大丈夫、怖くない、こわくないよ。ちょっと眠るだけ」

 どぷ、と血液の塊が喉奥から迫り上がってきそうだった。段々と、確実に。足の指先から体温が抜けていくのが分かる。泡立った唾液が口の端から溢れる度に、きりやんさんがゆるりと口角を持ち上げるのが怖くて堪らなかった。彼は私を殺さない。壊れ物を扱う様な優しい手つきで首を絞められるのが、こんなにも怖い事だと知りたくなかった。

「俺が幸せにしてあげるからね、零魔」








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