【緑】揺らぐ金魚鉢の深層


鉢堂では、葉月の第一日曜を本祭、前後の土曜、月曜を前夜祭、後祭とする『鉢堂六鱗祭はちどうりくりんさい』が開催される。『六鱗』は所謂金魚の別称であり、金魚の姿を模した神様のお膝元であるとか、江戸時代空前の金魚ブームの火付け役となった藩士の出身地だとか、街の形が金魚鉢に似ているだとか、鉢堂町に関する適当な伝説が積もりに積もった結果生み出された飾り言葉である。元々は神様への感謝云々の為の祭りであったらしいが、夜店目当ての子供達、ひいては真っ昼間から誰にも咎められず体にアルコールを突っ込む事を楽しみとする大人にとっては、祭りの意義など存在しないものと同義であった。

 鉢堂に住む子供達にとって鉢堂六鱗祭は夏の醍醐味であり、夏休みの絵日記を埋めるための絶好の機会であり、手習いをサボるための理由であった。いくら鉢堂が田舎町の代名詞であるといえど、そこそこに大きな祭りのため毎年数人の行方不明者(迷子)が発生する事も少なくはない。
 そう、丁度彼女のように。

「ありゃ、迷子になってしもた」

 紅いステンドグラスの様な飴が溶け始めた林檎飴の最後の一口を頬張った彼女は、のんびりと呟いた。先程まで手を繋いでいた筈の、三つ上の姉の姿が見当たらない。薄らと赤く色付いた林檎飴の串を屑籠に手放した彼女は、特に焦った様子もなくふらふらと商店街の石畳と下ろしたての下駄を擦り合わせる。零魔が足を進めるたびに、金魚の尾鰭に似た、子供用のくしゅくしゅとした帯が揺れた。

「お姉ちゃん、悪い人に連れてかれんかなぁ」

「おっきい綿菓子あるよって言われたら、すぐついていきそうやもん」、ランドセルを背負い始めて半年の自身よりも、来年には初等学校の四年生になる姉を心配した零魔は、器用に人混みを縫い屋台が並ぶ大通りから少し外れた脇道へ身を滑り込ませた。錆びたシャッターが降ろされた玩具屋の前に座り込み、夕暮れ時の空に泳ぐ紙垂をぼんやりと眺める。白い金魚さんみたいやなぁ、大きくなったら鯉になるんやろかと、紙垂と金魚を重ね合わせていると、ふいに視界に影が差した。

「零魔じゃん、迷子?」
「えぇと…ううん、お姉ちゃんが迷子なんよ」
「ふは、迷子になっても呑気なのは相変わらずか」

蓬色の浴衣に身を包んだ男性は、綺麗に結い上げられた少女の髪を崩さないように、髪の流れに沿って慎重に彼女の頭に手を滑らせる。零魔の名を呼ぶあたり少女の知り合いらしいが、彼女がいくら記憶の糸を手繰り寄せようとも、彼の名を手に入れることはできなかった。彼女のすぐ隣に腰を下ろした青年は、言い淀む零魔を不思議そうに眺めている。

「おにーさん、あんな、んー、なんでうちの名前知っとるんかなぁって」

 考えあぐねた零魔が眉を下げながら彼に問うと、青年は「あぁ」と少し落胆したような、それもそうかと自身を納得させるような声を漏らした。

「シャークん、って覚えてない?」
「しゃーくん…」
「…マ、別にいいか。ほら、折角の祭りなんだし迷子なら一緒に回ろ」

 角張った細い指が並ぶ手を差し出される。日焼けを知らない青年の肌は、日焼け止めを塗りたくっている姉よりもずっと色白だった。

 零魔がそっと手を重ねると、夏の宵の蒸し暑さに襲われ汗ばんだ自身の手から一気に体温が奪われるのを感じた。ひんやりしていて、心地よい冷たさで、それなのに汗を一切感じさせない。「行くか」と微笑んだシャークんは、零魔の手を引き人混みの中を歩き始めた。

「お姉ちゃん、見つかるとええなぁ」
「さぁ、零魔のこと置いて家に帰ってるかもな」
「もぉ、お姉ちゃんはそんなことせぇへんもん!」

 からからと笑った青年は、手近な屋台からベビーカステラを二つ摘み取った。出店の主人が腹を立てたり、大声で怒鳴ったりする様子はない。シャークんは零魔にベビーカステラを勧めたが、彼女は大袈裟に首を横に振った。「お兄ちゃん、怒られへんの?」と、甘い香りが優しく漂う彼の手元の焼き菓子と、若葉色の瞳を交互に見遣る。

「怒られたりしないって。だって俺のための祭りだし、な?」

 この発言を皮切りに、度々零魔にかき氷や綿菓子、串焼きからたこ焼きまで色々と勧めたシャークんだったが、不安が拭いきれない零魔は下駄の鼻緒に視線を下げ申し訳なさそうに断った。日は段々と傾き、茜色だった空は逢魔時を経て宵の口へと姿を変えている。


「おにーさん、そろそろ帰らんと」
「は、何で?」
「だって、おひさまが沈んだらすぐ帰っといでって言われとって…お母さん怒ったら怖いんやもん」

 「じゃぁ帰んなきゃいいじゃん」、淡々と答えたシャークんは、溶けかけの氷が泳ぐ金属の桶でビールと一緒に冷やされているラムネ瓶を二本引っ掴んだ。「神社行くか」と零魔の手は絶対に離す事なく足を進める。大通りの出口へと向かう人達が溢れる商店街を逆走しているのに、誰ともぶつかる事がない。まるで二人の為に、不思議で不自然に歪んだ空間が作り出されている様だった。

 雑踏に軽く目を回した零魔を抱き上げたシャークんは、狭い路地を辿ったかと思えばまた大通りに合流し人混みを掻き分け、古びた喫茶店や店じまいをする射的屋の角を曲がった。同じ場所かはたまた酷く似通った別の場所か、同じ様な景色を繰り返すように滅茶苦茶に歩き回るシャークんに、また目が回る。最早彼女は帰り道の検討などつかなかった。

ここで放り出されたりしたら、本当に帰れなくなってしまう。

零魔は彼の浴衣を、きゅっと握る事しかできなかった。

「よし、着いたついた。休憩するか」
「…お宮さんや」
「そ。零魔が三つの時お参りに来たとこ。よく覚えてんじゃん、俺の事は忘れたみたいだけど」

 「鉢堂は七歳のお宮参りないもんな」と溢したシャークんは、鳥居を潜った先にある石段に零魔を座らせた。連れ回されたラムネ瓶から泡が溢れ出さないように、慎重にビー玉の栓をサイダーの中に落とす。強制的に握らされたラムネ瓶を眺めた少女は、心の中で店主にごめんなさいを言った後、夏の炭酸を口に含んだ。

「飲んだ?」
「え、ぁ、うん、だめやった?」
「いや、炭酸飲めんのかなと思って」

 零魔が多少なりとも炭酸を嚥下したことを確認したシャークんは、ぱたぱたと透明な結露が滴るラムネ瓶を一気に傾けた。


「んじゃ、やっと帰る気が失せたんだな」

 ぱちぱちと弾ける甘い炭酸が未だ残る口が、小さな唇を食むように少女の口を覆った。彼を引き剥がそうと金魚の胸鰭の様に浴衣の袖を揺らすが、呆気なく抑え込まれてしまう。鉢堂六鱗祭の赤い提灯の明かりに混ざって、酸欠による警鐘の光の粒が視界に舞った。

「おにぃ、さ」
「…かわい、金魚鉢に入れるには丁度いいじゃん」

 ふんわりと降り注ぐ月明かりにてらてらと光る零魔の口元の涎を拭ったシャークんは、彼女と向き合う様に少女を膝に乗せた。引っ切り無しに口内を蹂躙された零魔の体はすぐに傾き、小さな頭がぽすんと彼の胸を叩く。

「ほんと、零魔が八つになる前に会えて良かった。三つになった時、親に連れられて俺に挨拶しに来てくれたのなんか覚えてないよな。千歳飴貰うってここで迷って、『迷子?』って聞いたら『ぱぱとままが迷子』って。夕暮れ時まで遊んでやってさ、迷子になっても泣かなかったくせに最後はまだ遊ぶって大泣きしたじゃん」

 「だからまた迎えに行くって、ゆびきりまでして約束してやったのに」と、シャークんは続ける。

「俺の事は忘れてるし。黄泉竈食ひ、食べさせようにも全部断るし帰るとか言うし。まぁでも良かった、指切る前に約束守ってくれて」

 優しく、優しく、作りたての硝子細工を扱うように。うとうとと舟を漕ぐ少女を抱き上げたシャークんは、金魚が囲む本殿へ姿を消した。

 神隠しの真相は、金魚鉢の深層にて。


#神隠し、黄泉竈食ひ








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