痛みの理解
地下室に足を踏み入れたのは、今日が初めてだった。
地下室へのルートは二つある。一つ目は、普段からなかむ先生ときりやん先生が使用している重苦しいエレベーター。二つ目は、緊急時以外の使用が認められていない非常階段。
非常階段は先生達が寝泊まりしている部屋を通り過ぎなければ辿り着くことができず、できれば前者を選択したかったがエレベーターを稼働させるためにはカードキーが必要だった。しかしカードキーはスタッフ証を兼ねているため二人のネックストラップからこっそりと持ち出す必要があり、生憎そのような技術は持ち合わせていない。仕方無しに非常階段を使用するルートを選択する事に決め、どうにか一寸の音も立てないよう彼らの部屋を通り過ぎた。
地下室と言えど病院らしく最低限の衛生は守られており、非常階段が埃っぽく、廊下が少々薄暗い以外は何も変わった様子が無かった。スマイルの話が本当だとすると、保管庫の鍵は掛かっていないらしいが。
霊安室、臨床試験室、そして手術室。手術室の前を通り過ぎようとした時ふと妙な違和感を覚え、足を止めた。病院の手術室は、地下に存在するものなのだろうか。否、以前ぶるーくがきりやん先生に手を引かれ手術室に連れて行かれたことがあったが、確か手術室は三階の待合室と同じフロアに位置していたと思う。
それなら、この手術室は何のために。
地下に手術室を作るメリット。そう例えば、手術中か否かが把握されにくく、患者が暴れたとしても地上の階に声が届きにくい、とか。否、今は考えるのをやめておこう。後でスマイルにでも聞いてみれば良い、私の知識では想像できない正当な理由があるのだろう。
不穏な想像を振り切り手術室を後にすると、保管庫のプレートが姿を見せた。
「ほんとに、開いてる…」
角張ったお行儀の良い文字で『関係者以外立ち入り禁止』と彫られているプレートを無視し、保管庫のドアノブに手をかけそっと扉を開いた。立て付けが悪いのか年季が入っているのか、少しでも動かすと扉がギィギィと悲鳴を上げる。
必要な分だけ隙間を作り、保管庫に体を潜り込ませた。
「大量の薬瓶…と、注射器、輸液バッグ、医学書…」
机の上に積まれている医学書には、菜の花色のリボンがついた栞が挟まっていた。きっときりやん先生が積読しているのだろう。何気無しに一番上の図鑑の様な分厚さを誇る本を手に取り開いてみると、きりやん先生が読み込んでいるため型がついてしまっているらしく、ひとりでにページが捲られ、人間の頭の断面図が視界いっぱいに飛び込んできた。
正直、こういうものに耐性は無い。
医学書では普通なのだろうが、ぶにぶにとした脳味噌の質感や、脳に伸びる無数の太い血管、出目金のように飛び出した眼球。ヤケにリアルに描かれた人間の苦痛に歪んだ表情が、何とも言えない気持ち悪さを醸し出していた。小さく漏れた悲鳴に気が付くよりも先に急いで本を閉じ、元の場所に戻す。
本来の目的であるカルテを探している間中、眼球と目頭の間にアイスピックに似た器具が刺さった人間の絵が脳裏にこびり付いて離れなかった。一体きりやん先生が何のためにあのページを好んで読んでいるのかは、考えたくなかった。
「カルテ…これだ」
本棚三つ分を埋め尽くしているカルテには、顔を合わせたことのない患者の名前が書かれていた。私達以外にも患者がいるのかと思ったが、過去の患者のものも全て保管してあるのだろう。博物館に展示されている古書の様な、紅茶をひっくり返してしまった色に変色している紙もあった。
指先で一つずつ名前を確認しながらカルテを漁っていると、『零魔』と書かれたカルテを見つけた。隣には『ぶるーく』のカルテがお利口に座っており、『シャークん』『きんとき』そして『スマイル』と、見知った面々のカルテが固まっている。
自身のカルテを手に取り開いた瞬間、私は大切な事を忘れてしまっていたのに気が付いた。スマイルのアドバイスを鵜呑みにしてしまっていたが、カルテの使用言語は独逸語、私に読めるはずがない。
何だか拍子抜けしてしまって、小さく落胆の溜息をつく。病気に関しても、治療方針に関しても、なんら情報は得られなかった。
しかし、仕方が無い。『ぶるーく』と『シャークん』の間にカルテを戻そうと手を伸ばすと、背後から伸びてきた手に軌道を変えられた。
「ダメじゃん零魔、零魔のカルテはここでしょ」
男性にしては高めの声に、袖の余った白衣。「どうして」の声は、意味の無い母音となって漏れ出した。
「随分熱心に探してたみたいだけど、探し物は見つかった?」
作りたての硝子細工を扱う様に。摘んできたお花を花瓶に生ける様に。普段は万年筆を握っている手が優しく肩に乗せられ、後ろから顔を覗き込まれる。「顔色悪いよ?」とふんわり微笑んだ彼は、私の背中を本棚に押し付けた。
「なかむ、せんせ、と、きりやん先生、ぁ、なんで」
「スマイルがいるの」と付け足す前に、彼は淡々と言い放った。
「言っただろ、零魔に危険が及ぶと判断すれば容赦なくチクるって。こんな夜中に立ち入り禁止の地下室を一人歩き、どう考えても危ないよな」
保管庫の壁に背を預け、得意げに言い切ったスマイルに詰め寄る気力も無かった。確かに、我ながら安直な行動だとは思った。スマイルからのアドバイスを鵜呑みにし、彼がヒントを与えた日の夜に行動した。しかし、心のどこかで『スマイルなら大丈夫』と安心感を抱いていた。彼は言いつけたりなんてしない、と。
ところがどうやら私の計画は誤算だらけだったらしい。スマイルは私に助言をしたその時から、彼らに言い付けるつもりだったのだ。否むしろ、なかむ先生が鍵をかけないという情報は、なかむ先生自身からスマイルに伝えられていたのかもしれない。「じゃぁ俺は帰るから」と出て行ったスマイルの背中を、呆然と眺めることしかできなかった。
「さて、零魔は自分が何したか分かってる?そろそろさぁ、一人で歩けないようにしてもいいと思うんだよね」
愉悦たっぷりの奇麗な笑みを見せたきりやん先生は、「零魔にもやってあげようか?」と医学書の表紙を小突いた。
「言い付けを破っちゃう悪い子だーれだ?」
悪い子には、オシオキしなきゃだね。
私に手を伸ばした二人の瞳には、溶けたハートの瞳孔に浮かぶ赤十字の証が煌めいていた。