【赤】ゆーとぴあ・おーばーどーず
なけなしの体温と共に血液を吐き出せば、いつも悪夢から目覚めることができた。
その桃源郷は、和三盆が詰まった菓子箱の蓋を開いた時の様な、曖昧な淡い甘さに包み込まれている。いつ足を運んでも春の陽だまりが私を歓迎し、柔らかく瑞々しい草花が足裏をくすぐる感覚が心地良かった。薄いヴェールに似た雲が漂う夕暮れ時と夜の狭間、逢魔時の空は何度見ても私を穏やかな気持ちにさせてくれたし、この静かなヴァルハラでも一切の孤独を感じさせなかった。否、鬱陶しい程に纏わりついていた筈の独りぼっちが取り払われるのは、きっと。
「わぁ!零魔ちゃん、また来てくれたの?僕ずーっと零魔ちゃんのこと待ってたよ」
名前を呼ばれ、背後から思いっきり抱きつかれた。彼を支え切れる筈もなく倒れ込んでしまうが、体同士を縫い付けるように抱き締められていたおかげで優しい衝撃だけに襲われる。ぎゅうぎゅうと更に力を込める彼の髪が頬を撫で、思わず笑みが溢れた。
「ぶるーく、危ないよ」
「だってだって、零魔ちゃんに会えて嬉しかったんだもん。久しぶりの大学はどうだった?お友達とは話せた?勉強は楽しかった?ちゃんと頑張れた?」
蒼玉の瞳がゆるりと細められた。始めて初頭学校に赴いた子供に問いかけるような、酷く穏和な声色がこだまする。私の答えなど分かりきっている筈なのに、彼は敢えてそんな質問を投げかけている。咎めることも怒ることも呆れることもなく、黙りこくってしまった私の背中をとんとんと叩いてくれた。
「…なんにも、がんばれなかった。大学も行けなかったし、友達からの連絡返す気も起きなくて、勉強もできてないの。ぶるーくと、ちゃんと頑張るって、約束したのに」
「ごめんなさい」を言葉にすると、ぼろぼろと涙が溢れた。ぶるーくの袖に染み込んでいく雫をどうにかしなければと彼から離れようとするが、背中に回されたぶるーくの腕がそれを許すことはなかった。
「そっかぁ、泣いちゃうくらい頑張っちゃったんだね。僕だけは零魔ちゃんのこと、ちゃんと分かってあげられるから」
「わたし、頑張れてなんかないよ。みんなちゃんと学校も行ってるし、ちゃんと人と付き合えて、ちゃんと課題もして、ちゃんと頑張って、私なんて」
自暴自棄になりかけたところで、ぶるーくの人差し指がふんわりと唇に当てられた。彼は相変わらず人懐っこい笑みを浮かべており、「それなら」と言葉を続ける。
「とっておきのおまじない、教えてあげよっか?」
「おまじない?」
「そう!僕のおまじない、零魔ちゃんにだけ教えてあげる。このおまじないを使うとね、もう頑張らなくて良くなるんだよ。ずっと僕と二人でいれるおまじない、もし知りたかったら僕以外は全部いらないって、ここで誓って?」
重い瞼を持ち上げると、重なり合ったビニールのゴミ袋が視界に入り込んだ。抜け落ちた髪の毛が目立つ皺だらけの枕の側に、中身が綺麗に繰り抜かれた薬の包装シートが転がっている。湖底のぬかるみにぴったりと嵌っている様に重い体を何とか起こし洗面台へ向かうと、口の端に乾ききった血液がこびり付いていた。
「…おまじない、しよ」
彼にこんな顔を見られてしまう訳にはいかない。薬のせいで身体中のねじが緩みきっているようで歩くこともままらなかったが、体に鞭を打ちシャワーを浴びる。金木犀の洗髪剤が香る髪を乾かし、クローゼットの奥底に眠らせていたワンピースを引っ張り出した。いちご、ポプリ、ショートケーキ、花明かり、ローズクォーツ。可愛いをかき集めて煮崩したような洋服を纏い、年確を避けるため深夜のコンビニで買った甘いだけのお酒を取り出す。冷蔵庫にはもうお酒しか残っていなかったが、丁度良かった。
たった一年前、大学生になりたての頃。親元を離れたのは初めてで、多少の寂しさはありつつも一人誕生日会を開くために購入した小さなケーキプレートを棚から取り出した。花を象った真っ白なお皿に、アルミのシートから薬を一粒ずつ丁寧に取り出しては並べる。頭痛薬も、女の子の日の痛み止めも、余った風邪薬も、処方された抗鬱薬も、みんな平等に並べていった。
ぶるーくだけ、ぶるーくが一緒にいてくれればそれでいいの。ぶるーくとずっと一緒にいたい。だから、おまじない、私に教えて。
えへへ、零魔ちゃんからの告白、ちゃんと受け取ったからね!絶対に絶対に破っちゃダメ。約束だよ?じゃぁお呪い、教えてあげる。あのね、
「こんな量飲むのは初めてかも…でも怖くないよ、早くぶるーくに会いにいかなきゃ」
この量なら、なけなしの体温と共に血液を吐き出す暇もないかもしれない。
この悪夢から目覚めた時、どうかぶるーくが微笑んでくれていますように。煩く警鐘を鳴らす脳を無視し、桃源郷への片道切符を飲み込んだ。