オシオキ
「待って、ご、ごめんなさい、きりやんせんせ、ぉ、おろして、」
「はいはい、暴れないでね。どうしてそんなに悪い子になっちゃったかなぁ」
きりやん先生に横抱きされ案内されたのは、あの手術室だった。
金属の輪に通された鍵の束を指でくるくると回し弄んでいたいたなかむ先生が、大量の鍵があるにも関わらず迷う事なく錆びた鍵を選び取り鍵穴に差し込んだ。随分と使われていないのか扉が酷く軋んでいたが、手術室の中は埃一つ存在しない。まるでつい先程まで手術が行われていたのかと錯覚するほどに綺麗で、この仄暗い地下に不釣り合いだった。
なす術もなく、部屋の中央に鎮座している歯科用チェアのユニットに似た椅子に降ろされ、嬉々とした様子のきりやん先生にカーディガンを没収された。地下は空調が効いておらず、ひんやりとした半宵の空気に抱き付かれる。突如として天井に設置された無影灯に明かりが灯され、あまりの眩しさに視界が眩んだ。
「あ、眩しかった?ごめんね、でもそのうち慣れるよ。それよりちょっとお手を失礼」
けたけたと笑ったなかむ先生に、そっと手を取られる。「零魔はちっちゃいね、すぐ壊れちゃいそう」と愉悦に浸った声で呟いた彼が恐ろしくて、なかむ先生に握られた右手を引くが手首を掴まれ脱出は叶わなかった。
「ぁの、ごめんなさ、本当に、もうしないから、だから」
「うん、ごめんなさいできて零魔は偉いね。でも許してあげない。だって今の零魔は悪い子だから、俺らで良い子の零魔に戻してあげる」
まるで中世の精神病院のように、手首に革製のベルトを通され肘掛けに繋がれる。きりやん先生の手がふくらはぎを掴み、ゆっくりと病院指定のシューズを脱がされた。
何も覆い隠すものが無くなった足首に、無機質な鉄のアンクレットが通される。
きっと、もう何を言っても許されない。
顔にかかる髪を払われ、なかむ先生が私の額からこめかみ辺りまでを消毒していく。ヘンテコなベルトが巻かれ、仕上げに口付けを落とされた。「大丈夫」「怖くないよ」と慰めの言葉が安売りされ、不安だけが募っていった。
「せんせ、わ、私」
「大丈夫だって。俺もなかむも、零魔に酷いことしたい訳じゃないから。痛くも苦しくもないからさ、リラックスして」
無影灯の光が、強くなる。
「ここは俺らの病院だもん、俺らが作ったルールに従ってもらわないと」
じゃぁ、始めよっか。
かわいい零魔、良い子になぁれ。
「零魔、これ何か分かる?」
まるで待ちに待った遠足の準備をする子供のように鼻歌を歌いながら、丁度私の頭上に置かれているらしい機械を弄るなかむ先生にほぼ全ての意識を集中させていると、私の気を逸らすためか、はたまたただ自慢がしたかっただけなのか、きりやん先生はアイスピックに似た器具を片手に口元だけを歪め笑ってみせた。
アイスピックと形容するよりも、以前読んだ英国が舞台のミステリー小説に登場した、スティレットと喩える方が正しいかもしれない。鎧の隙間を縫い、確実に相手の命を仕留めにいく…そんな中世の武器の面影がちらつく。
しかしその器具がアイスピックであろうとスティレットであろうと、手術室に不釣り合いな凶器であることに変わりはなかった。
「うわ、きりやんそれ使う気?」
「俺は全然使ってもいいけどね。でも零魔に選ばせてあげようと思って」
「俺の本読んだでしょ」ときりやん先生は至極楽しそうに呟いた。私への質問ではなく、自分への確認に近い独り言だった。
ペンを回す要領で、器用に器具を回した先生は鋭い先端を私の右目に向けた。もし私の体が固定されていなかったら、驚いた拍子に眼球の中に滑り込んでいたかもしれない。
瞬く間に、大粒の汗が額を濡らした。きりやん先生が私に向けたそれは、銃口と同義だった。スティレットが鎧の隙間から差し込まれる様に、眼を取り囲む肉と眼球の間を縫いながら脳へと進む器具の様子がありありと目に浮かぶ。いつ差し込まれても不思議ではない距離まで迫る器具から目を離す事など許されず、眼の筋肉が痙攣するのが嫌でも分かった。
「零魔、返事は?」
「ぁ…やだ、本の、」
「そう。ロボトミー手術って呼ばれてる脳への侵襲なんだけどさぁ…マ、平たく言うと零魔が金輪際悪い事なんて考えないように脳の一部を切除する手術ね。何も考えられなくなるけど、お人形みたいな零魔も絶対可愛いでしょ。ね、零魔はどう思う?」
いつもよりずっと穏やかな笑みを浮かべたきりやん先生に、くらりんと眩暈がした。「うわぁ」と歓喜の嘆息を漏らしたなかむ先生の姿は視認できないが、白衣の袖で口を覆いながらくふくふと笑っている。
「俺も零魔の口から聞きたいな、どうやっていい子にしてほしい?」
いっそのこと、思考回路を壊された方が幾分かマシだったかもしれない。
「なかむ、せんせに、いい子にしてほしい、です」
「ふふ、零魔からのご指名もらっちゃった!」
「えぇ…じゃぁこれはまた今度ね」
「次があっても困るんだけど」と凶器を指揮棒のように振ったきりやん先生が椅子の側から離れると、降り注ぐ無影灯の光が束ねた蜘蛛の糸に見えた。焦燥から吹き出した汗が背中側の患者衣をぐっしょりと濡らし、背もたれに張り付いて気色悪い。固定されているのは手足のためその気になれば背中は微かに浮かすことができるはずだが、まるで椅子と一体化してしまったかのように体はひとつも言う事を聞かなかった。
「零魔?まだお仕置きは始まってもいないんだから、そんなに安心した顔していいの?」
「…も、反省、したから、だから」
「だーめっ!悪い子にはこんなんじゃ足りないでしょ。それに、俺にいい子にして欲しいって言ったのは零魔なんだから」
無慈悲にも淡々と言い切ったなかむ先生が、きりやん先生から受け取った手袋を嵌め終える。
「そろそろおしゃべりも終わり。また明日、いっぱいお話ししてあげるから。ほら、これ咥えて?」
「ぃや、嫌、おねがいやめて」
「我儘言わないの。舌噛んじゃったら痛いのは零魔なんだから」
きりやん先生にタオルを捩じ込まれ、言葉も嗚咽も全て吸い取られていく。「じゃぁスイッチ入れまぁす!」と高らかに宣言したなかむ先生に静止をかける間も無く、パチンとスイッチが入れられる軽やかな音が手術室を満たした。
「…やっば、超かわいい」
絶叫すら出なかった。
足元を見ていたはずの顔が勝手に上を向いて、全身の筋肉が痙攣しているのが分かった。爪先が丸まったが、この衝撃の逃す手段としてはあまりにも不十分だった。
脳みそが風船のように膨れ上がった後、シャボン玉のようにぱちんパチンと弾けていくような感覚がした。電極から流れ込む電流が神経を撫でくりまわし、土足で体を踏み荒らしていった。錆びた五寸釘を打ち込まれるような鋭い激痛に身を任せ意識を飛ばそうと試みるも、電気の熱と肌を焼かれる痛みでまた現実に引き戻される。地獄の方がいくらか気分が良いと思った。
「零魔、気分はどぉ?」
一体どちらがスイッチを切ったのかは分からない。電流が止められたのは、猿轡に飽き足らず患者衣にまで垂れた涎がシミを作り始めた時だった。
「零魔、零魔?ふふ、本当にお人形さんみたい」
零魔の口から粗末な猿轡を取り去ったなかむは、轡と唇を繋ぐ透明な糸を悦に浸った表情でひとしきり眺めた後、自身の口を零魔に重ねることで縁切りの儀を行った。行き過ぎた電気けいれん療法により認知機能が著しく低下した零魔は、焦点の合わない虚な目でぽやんと虚空を眺めており、薄ら氷色の医師にされるがままになっていた。
「零魔、俺にお返事ちょーだい」
「……ぅ、」
「そうそう、いい子いい子。一緒にお部屋に戻ろっか」
汗と涎で使い物にならなくなった零魔の患者衣を着替えさせ、カーディガンのボタンを丁寧に閉めたきりやんは、なかむの発言を受け眉間に皺を寄せた。彼が零魔に口付けようと事に至ろうと目を瞑るが、彼女の介抱及び生活の手助けは自身の専売特許だと主張する。
「いやいや、俺が連れてくから。なかむだと零魔落としかねないし」
「好きな子くらい抱えられるって。マ、今回はきりやんに譲ってあげる」
「もし次があったら何してあげようかなぁ」と、なかむは零魔の手足の自由を奪っていた拘束具を横目に、血の気の無い手首に薄らと残ってしまった鬱血痕に指を添わせる。
左手首の打撲痕を塗り替えるように、新しく浮かび上がった青紫の痛々しい痕。数日前のこの時間、原因不明の毒虫に侵された彼女の様子が脳裏を過ぎったなかむは、零魔の瞼に手を添え目を閉じさせるきりやんに話を切り出した。
「零魔の『担当医』も往生際が悪いよね。零魔がこうなってもう七年、そろそろドナー提供でも安楽死でもさせちゃえばいいのに。早く俺らと同じになってくれないかな、零魔」
「親御さんが頑なに拒んでんじゃない?こっちは零魔のこと返すつもり無いけどね」
脱力した零魔を軽々と抱き上げたきりやんは、ふんわりと香った蓮華の蜂蜜の様な香りに頬を緩ませる。電気けいれん療法により健忘の症状の片鱗が見え隠れする零魔を上手く言い包めることができれば、入浴や排泄の介助も可能だろうと踏んでいた。
「あ、見てなかむ。零魔が笑ってる」
「ぅぁ、めっちゃ可愛い…これは益々手放せなくなったなぁ」
「零魔もここにいたいんだよね」と笑ったきりやんは、彼女を病室へ送り届けるため手術室を後にした。
「いっその事、零魔に全部バラしちゃおうかな!結局こっちでしか息ができないんだから、零魔の方から戻ってきてくれるよね」