ゆびきり


柔らかな朝日の色を帯びたきりやん先生の声に起こされた私は、朝食を完食した後に自由時間を与えられた。まるでぬいぐるみの綿のように、今の私の頭にはたんぽぽの綿毛が詰められているのではないかと思ってしまう程に意識がふわふわとする。自分が何をしたいのかも、どこに向かえば良いのかも考えが纏まらない。ただ柔らかなピアノの音色に誘われるがまま、感覚が希薄な足を動かした。

「あ、しゃけだ」
 
 からころとラムネ瓶の中でビー玉が転がるようなピアノの音は、斜陽に似た光が灯る娯楽室から漏れ出していた。何となくぶるーくかなと思っていたが、床に座り込み幼児用の小さな赤いピアノの鍵盤に指を滑らせていたのは、カンラン石を瞳に閉じ込めたシャークんだった。

「零魔、何かふらふらしてね?ふらふらと言うか…ふぁふぁ?」
「うん、おくすりの副作用だって」

 シャークんは一度演奏を止め、入り口で棒立ちしたままの私を向かえに来てくれた。彼に倣ってピアノの横に座り込むと、先程まで鍵盤に独占されていた彼の指が目元を滑り、くすぐったくて思わず笑ってしまう。朧げな意識に、さらに霞のヴェールをかけるような触り方だった。
 その感覚が心地良く、瞳を閉じ彼にされるがままになっていると、何の前触れも無く力が抜けた体がくらりんと傾いた。曇り一つないアクリルで作られた調味料入れの中に無造作に転がっている、紅茶の色をしたきび砂糖の塊を踏んずけてしまって、足を取られたようだった。

「おっ…と、あぶね。なぁ、ホントに病室戻った方がいいんじゃねぇの」
「んーん、だいじょうぶ。ちょっとくらくらするだけ」

 シャークんの腕に支えてもらうことで転倒を免れていると、そのままゆっくりと上半身を倒された。彼の太腿に頭を預けることを許され、霞んだ視界いっぱいにシャークんが映り込む。手を伸ばしぴょこんと跳ねた彼の寝癖を優しく撫で付けると、シャークんの指が私の手を絡み取った。

「膝枕、体勢キツくない?」
「うん、ありがとう…しゃけ、ぎゅうぎゅうするの好きだね」
「まぁ…零魔がここに居るって、よく分かるし」

 私の手の甲に頬を擦り寄せる彼が、安寧に濡れたこの時間が、矢張り心底愛おしいのだと痛感した。大粒の雨が叩き付けられる窓の内側では、こんなにも穏やかな時が流れている。船人を咀嚼する嵐からも、泡影を嚥下する荒波からも守られた深い海の底で、とこしえの安穏を享受しているようだった。


「零魔」

 揺蕩う意識と襲う睡魔に微睡んでいると彼に名前を呼ばれ、私の手を握る力が徐々に強くなった。薄い飴細工を扱うような握り方から、絶対にはぐれてしまわないようにと言わんばかりの力加減に。そして、シャーくんの手との隙間を完全に潰すような、お互いの手を縫い合わせるような、そんな繋ぎ方へ。

「しゃけ、どうしたの?」
「零魔は危なっかしいから、オレが守ってやんなきゃなって」

 色濃い隈のシャドウに飾られた目元を緩ませて、シャークんは空いている方の手を鍵盤に乗せた。幼子が喜ぶ稚拙なピアノの音が、彼によって束ねられ綺麗な音色となり娯楽室に満ちていく。
 甘い音色が子守唄となり、華胥の国へと腕を引かれた。脳を直接撫でられとろとろ溶かされていくような感覚が、夢路への片道切符となる。帰りの切符は、またシャークんが用意してくれるだろうか。

「オレが零魔に手を上げるかも、って言ったらどうする?」
「しゃけ…?」
「いつか指の隙間から零れ落ちていきそうなんだよ。ほら、突然ここからいなくなったり、とか。いや、想像の話でしかないとかそんなんは分かってんだけど、もし零魔が、例えばこの病院から逃げ出そうとかそんなことを考えてるんだったら、オレはきっと零魔に手を上げることも厭わない。でもオレは零魔を傷付けたい訳じゃないし、ずっとこうして、こうやって、零魔には笑ってて欲しい。だから、オレを置いて、いこうとか、考えないで欲しい」

 「オレに零魔のこと、殴らせないで」、そう懇願するシャークんの瞳は、朝露を凍らせた様な薄ら氷の膜が張っていた。

「しゃけ、私はしゃけもみんなも大好きだよ。だから泣かないで、私はしゃけのこと置いて行ったりなんてしないよ」

 「だって、置いていこうとしたことなんてないでしょ」と、眉を顰めるしゃけの目元を拭う。

「零魔のその言葉、オレ信じるから」
「うん」
「置いていこうとした時は容赦しないけど」
「うん」
「約束、な」

 演奏を中断し、手を差し出すシャーくんの小指に自身の小指を絡める。
 ゆびきりげんまん。指を切った記憶を最後に、意識を微睡に掬い取られた。

「もし破ったら、悪いのは全部零魔で殴られても仕方ない。そういう事だよな」








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