したい
行き過ぎた清潔が保たれている、いつもの病室で目を覚ました。
ベッドの下で綺麗に揃えられたシューズを履いていると、少し下手に畳まれたカーディガンがサイドテーブルの上に置かれているのが目に入る。子供っぽい不器用が垣間見える畳み方は、私が娯楽室の、シャークんの膝の上で寝落ちてしまった事を暗示していた。彼は私を病室まで運んでくれて、寝苦しくないように態々カーディガンを脱がせてくれて、私が体を起こした時に履きやすい位置を考えてシューズを揃えてくれていた。
相変わらず霞が脳を覆い隠しているような症状は健在だったが、それでもきりやん先生が言った「薬の副作用」も多少は改善の兆しを見せており、シャークんに会いに行った時よりも幾分かはマシになっている。
今何時だろう。痛いくらいの静けさの中で点滴の滴が落ちる音にぼんやりと耳を澄ませていると、ふいにこんなな自己暗示が頭をよぎった。
何か、忘れてるかも。
忘れている事など山程あるだろうし、普段は忘れる事に対してこのような不安を覚えることもなかった。しかし、何かしらの警鐘が、ガンガンと頭の中で反響しており、全身の血液が頭に集まっているのではないかと錯覚してしまう程、熟れた柘榴が裂けるような、そんな痛みが蔓延っていた。
「零魔、起きてる?入るよ」
額に冷えた手を当て熱を覚ましていると、意外なことに病室に訪れたのはなかむ先生だった。それが顔に出ていたのか、「俺じゃ不満だった?」と悪戯っぽく笑ったなかむ先生の言葉を、両手を振って否定する。
「ぇ、っと、ちが、珍しいなって、その」
「まぁ、いつもはきりやんだもんね。今ちょっと用事頼んでてさ、音聞こえない?」
「しぃ」となかむ先生の人差し指が唇に押し当てられる。揶揄われているのか、はたまた無意識なのか、ふにふにと弄ばれるのは微妙に気恥ずかしかった。
扉の外へ意識を集中させると、二人分の呼吸音に混ざって、からからと言うか、ごろごろと言うか、オノマトペに悩む音が聞こえてきた。しかしその音が、キャスターのついた冷たい金属製の台が廊下を這う音だというのは理解できた。
「ね、きりやん何運んでると思う?」
「薬とか、機械とか…」
「残念、はずれ!」
なかむ先生は、白衣の余った袖をぱたぱたと揺らしながら笑った。
「今日死んじゃった患者さんだよ」と呟きながら。
「ねぇ零魔、想像してみて?」
なかむ先生の人間らしい生温かい手が、親指から順々に私の指を絡め取っていく。チョコレートの様に澱んだ血液同士が互いの体温によって溶け出し、絡まり合って固まっていくような感覚に襲われた。なかむ先生はたっぷりと沈黙を作り出した後に、そっと息を吐き出した。
「真っ白なシーツを掛けられて運ばれてる物は、どんな姿だと思う?」
耳に優しい彼の声が、そっと鼓膜を撫で上げた。私はなかむ先生に促されるがままに、きりやん先生が運んでいるらしい『したい』について思いを巡らせてみる。
彼か、彼女か、仮に彼女だとすると、彼女が『それ』になったのがつい先程であれば、まだ深海を悠々と闊歩する軟体動物の体表のように透き通った肌をしているに違いない。しかしこうして私となかむ先生が言葉を交わしている間にも、ピンと張ったシーツに腰を下ろした時のように彼女の肌は波打って皺になっている。死後硬直によって筋肉が凝り固まり、空調によって冷え切った脂肪が厚ぼったい求肥の様に弛んで、彼女との素敵な思い出を持っている親族や知り合いでなければ目も当てられないような惨状へと変化していく。
私は包み隠さずなかむ先生へと、妄想を打ち明けた。「いい子」、と彼の指が頬を滑るたびに、脳にぽっかりと穴が空いてしまったような気分になる。
「でも、私はその子を見たことないです。あの、いつもの、四人以外の患者さんがいただなんて思ってもみなくて」
「そりゃぁ、ね?この病院は広いもん、零魔が会ったことない患者さんくらいいてもおかしくないよ」
「それより、『したい』になった理由はなんだと思う?」と、なかむ先生は微笑んだ。以前スマイルに教わった、水平思考ゲームを楽しむ子供のように。
「病院だから…何かの病気、です」
「うんうん、そうだね。じゃぁ、それ…零魔的には彼女かな?彼女は本当に死んでると思う?」
「…亡くなってるから運ばれてるんじゃ、」
「んー、もうちょっと頑張って欲しいかな。これは俺からの宿題だからね!考えといて?」
「俺もきりやんのとこに行ってくるね」と上機嫌に病室の扉を開けたなかむ先生は、カシャンと可愛らしい鍵掛けの音を残して出て行ってしまった。「あ、そうだ」と扉の向こうから態とらしい閃きの声が響く。
「ね、零魔って本当に生きてるの?」
病室に取り付けられた覗き窓の鉄格子に緩く指を絡めながら、なかむ先生は笑った。
「私って、生きてるのかな」
なかむ先生が私に課した宿題は、私の裁量では到底手に入れることのできない回答を求めているようだった。
机上に鎮座する、蝶々が繊細な金糸で描かれた二つのティーカップには、底が澱んだ茶色の液体が静かに立ち竦んでいた。スマイルは綺麗に磨き上げられた銀のティースプーンで紅茶を引っ掻き回した後、口元へカップを運ぶ。机には、相方を失ったソーサーが寂しそうに残された。
「答えのない問いだな」
「生きてるって、言ってくれないの?」
「それは俺が判断できる範疇に無いだろ、だから何とも言えない。まず生死の定義が曖昧だし、零魔が求めている答えが客観的事実に基づく物かも分からない」
「それよりなかむからの謎掛けは自分で解け」といつも通りの含み笑いで魅せるスマイルは、カップをソーサーの元に帰した。彼が私となかむ先生の会話の内容を知っている事に関しては、今更驚きも呆れも湧いてこなかった。
「スマイルの言ってること、難しくて分かんないよ」
「はぁ…つまり死ってものは厳密に定義しないと認識できないふわっとした概念ってこと」
「じゃぁ、心臓が止まったから死んでるって判断するのは?これって死んでるって事にはならないの?」
「それは…なかむが欲しがってる答えからは少しズレてるんじゃないか?アイツは『零魔は生きているのか』って聞いたんだろ。言い換えれば自分の死を自分で認知できるのかって話」
再び紅茶を口に含んだスマイルは、口の隙間から零れ落ちそうになった一滴の宝石を、薄い唇を食むようにして取り込む。彼の口から紡がれる紅茶と古書の香りを含んだ難解な言葉は、スマイルによって何度も噛み砕かれ、ようやく私でも理解できるほどの易しさに落ち着いた。
劣化した医学書の名誉ある埃を吸い込んだカーテンが、図書室に吹き込む柔らかな風に弄ばれ揺れている。雑音が入るからと読書中は窓を締め切っているスマイルが、換気のためにと珍しく開けっぱなしにしている窓の外から、中庭で話し込んでいるらしいぶるーくときんときの声が聞こえた。会話は途切れとぎれでも、声の主を判断するには十分だった。
「結構声って届くんだね。ここ四階なのに」
「まぁ、静かな分余計にとは思う」
遂に底の澱みまで飲み切ったスマイルは、舌に残る渋味を堪能しているらしい。こくりと喉を動かした後、そっと呟いた。
「三階から飛び降りるよりも、四階から投身した方が生存率は高いらしいな」
スマイルはおもむろに、そんな事を口にした。それは決して博識な彼の独り言ではないと、自身に寄越された試すような視線が物語っている。私は「そう」と相槌を打つことしかできなかった。
「変だよな、階層の高さと死亡率は比例してもおかしくはない。まぁ俺も聞き齧っただけだし、真偽は知らないけど」
「…飛び降りようなんて考えてないよ」
「知識はあればあるだけ役に立つ、勿論知らない方が良いこともあるけど」
「零魔にとっては。俺は全部知りたい」と、スマイルは嘲笑とも捉えられるような、得意げな笑みを浮かべた。勝ち気と言った方が的確かもしれないが、穏やかに持ち上げられた彼の口角と鋭い紫水晶の瞳に何となく畏怖の感情を抱いてしまい、すぐに目線をスマイルから紅茶へと移すしか道が残されていなかった。角砂糖が二つ、均等に溶け込んでいる透き通った液体をティースプーンでくるくると弄ぶ。
胡桃色の湖底に沈んだ輪切りのレモンの輪郭をスプーンの先でなぞると、まるで眼球の水晶体を削っているような気分になった。きりやん先生が運んでいた『彼女』は今どうなっているのだろう。今朝は潤んでいた筈の瞳は、既に乾き切ってしまっているだろうか。それとも、伏せられた瞼のお陰で永遠に潤んだままなのだろうか。思いきりグロテスクな亡骸を想像してからというもの、死の概念が私に纏わり付いている。
「零魔」
内臓が溶け出してしまそうな程穏やかな声で、思考の海にどっぷりと浸かっていた私の名前をスマイルが口にした。
「手伝ってやろうか」
「何を…?」
「気になるんだろ、きりやんが運んでた物のこと。だから連れて行ってやってもいい」
向かい側のソファーから隣に腰掛け直したスマイルは、私の片頬に手を這わせる。親指で撫でられた目尻に力を込められ思わず片目を閉じると、そのまま瞼に指の腹が触れる。眼と骨格の隙間に指を差し込むような動作に思わず仰け反ると、「その表情は初めて見た」とスマイルはこの上ない悦楽に酔いしれるような嬌笑を浮かべた。
「今度は告げ口したりしない。今夜五人で、好奇心の赴くままに地下室へ。悪くない話だろ?」
スマイルの言う「今度」は、以前があった事を指し示していた。
その「以前」の正体は、謎に包まれたままではあったが。