(53 / 274) 原作沿い (53)

水城はまだ肌寒い春の夜、肌蹴ていた胸元を整え、ふぅと息を吐く。
息子と離れているが、まだお乳は出るため時々溜まったお乳を出さないと胸が張って痛いのだ。
だから我が子が飲むわけではない溜まったお乳を出すためこうしてアシリパ達と離れる事が多々ある。


(坊、元気かしら…)


胸が痛み水城はコタンを離れ森の中に身を潜め、溜まったお乳を絞り出した。
お乳は血だと聞いた事があり、あの真っ赤な血が白く濁っているのが不思議でならなかった。
飲む子供もおらず寂しく無駄になったお乳を見ながら水城は息子を想う。
大きな大樹に背を預ける様に寄りかかっていた水城が顔を上げれば、その目には葉っぱの間から美しい夜空が見えた。
この時代まだ車や機関車など汚染するようなものがあまりないため、そして森深い場所というのもあって空気は澄んでおり散りばめられた星が現代よりも近く見えていた。
月も現代よりも近く感じ、夜深いというのに周りが見えるほど明るかった。


「いい人、か…」


白石の言う『いい人』と聞き、思い浮かべたのは当然『鯉登』だ。
水城は色々な男に抱かれているのに、『恋』というものは鯉登としか経験がない。
まるで少女漫画のように純粋で甘酸っぱい恋愛を水城は…雪乃は鯉登だけとしていた。
今思えば鯉登はやりたい盛りだったろうに、それを我慢してくれていたのだ。


(こうなるって分かってたら音之進と寝てもよかったかもなぁ…)


軽く言うが、心底後悔している事の一つである。
水城はあの頃から性行為に嫌悪はなかったから鯉登が求めてくれればそれに応じた。
だけど鯉登の自分を大切にしてくれるその気持ちが嬉しくて水城も我慢したのだ。
しかしそれが仇となった。
もう誰とも一緒になるつもりがないからそう思うかもしれないが、こうなると分かっていたのなら一度くらい想い人と夜を共にしても良かったかもしれないと思う。


(お母様…あれからどうしてるかしら…)


鯉登を思い出すと養母の事を思い出す。
長兄が犯罪者となり、夫を亡くし、娘も亡くし、そして次兄も亡くした母は一人だ。
近所に姉がいるし、使用人のトメやその孫であるカナもいるから、決して一人ではないが、身内は全ていなくなってしまった。
もしかしたら実家に帰って再婚しているのかもしれない。
…そう、水城は思う事で重くなる心を軽くし…現実から目を逸らし続けた。
確認したい気持ちはある。
だけど何度も言うがこんな体になり果てて、こんな人生を送って、どこに母に合わす顔があるのだろうか。
鯉登ですら好いてもいない相手の子を産み育て愛している時点で…吉平と寝た時点で、裏切っているのだ。
そう思うと再び鯉登の事を考えてしまう。


(音之進はもう忘れてくれているかしら…新しい恋をして、過去でしかない私を忘れてくれるのかしら…)


出来れば忘れてほしいと何度も思う。
鯉登が自分を覚えていて良い思い出なんてないのだ。
川畑雪乃という女は鯉登の気持ちも知らず自殺したただの弱く自分勝手な女である。
そんな女とっとと忘れて、過去の事だと奥底に仕舞い込んで、鍵をかけて一生思い出さないでほしいと思う。
新しい女性と恋をして、夫婦となって、子供を儲けて、幸せに……―――そこまで考え、水城の視界がぼやける。
頬に雫が垂れ、上を向いていた顔を俯かせれば葉っぱに雫が落ちた。


(……しあわせに…なってほしい、けれど…でも…忘れてほしくない…)


水城は耐えきれず溢れた涙に顔を覆って座り込んだ。
誰もいないのに、村ではないのに、水城は声を抑えて泣く。
軍人となって癖になってしまった泣き方だった。


(音之進…お願い…忘れないで…私をずっと想っていて…私をずっと…ずっと愛して………あなたが好きなの…愛しているのよ…お願い…他の女なんかにあなたを触れさせないで…他の…私以外の女なんかの肌を触らないで…愛しているわ…あなたをずっと…誰よりも、愛してるわ…)


水城はずっと…吉平に捕まってから今日までずっと奥に仕舞いこんだ思いを吐き出した。


忘れてほしいと願った。
―――忘れてほしくないと願った。

自分なんか忘れて別の女性と幸せになってほしいと願った。
―――他の女なんかを見ないでと願った。

音之進が選んだ女性と、その間に生まれた子供と、幸せになってほしいと願った。
―――ずっと自分を想ってほしいと願った。


水城はずっと自分の気持ちを偽り、鯉登がいなくても平気だと思う事で潰されそうになっていた心を守ってきた。
でも、水城は鯉登に自分だけを見てほしいと願う資格はないと分かっている。
鯉登から離れたのは自分だ。
吉平はきっかけではあるが、その決断をしたのは何者でもない…水城なのだ。
自分勝手だと分かっている。
勝手に鯉登の側から離れたくせに相手に願う事ではないことも。
勿論軍人の家に生まれた鯉登の立場も十分理解している。
理解しているから本心がどうであれ表向きは自分以外の女と一緒になっていても諦める事ができるのだろう。
だけど…
せめて…
そう…せめて、かつての恋人だった人を心の隅でずっと想うことだけは許してほしい。
きっともう会うこともないのだから。
水城はずっと声を殺し泣き続けた。



◇◇◇◇◇◇◇



すんすんと鼻を鳴らしながら水城はコタンに戻ってきた。
もうどれくらい泣き続けたかは分からないが、数分、数十分ではないのは確かだ。
目元が赤くなっているのは予想できるので、水城は熊に遭遇するかもしれないという危険を覚悟に川に向かい、まだ冷たい川で目を冷やした。
コタンに戻れば人がいないのではないかと思う程静まり返っていた。
アシリパの大伯母のチセに入るとすでに全員寝ていた。
寝ているアシリパ達を起こさないよう水城は空いている場所を探す。
きっと水城がアシリパの傍に寝る事を分かっていたのだろう…キロランケと白石はアシリパの隣を空けていた。
その隙間に水城は寝転び、大伯母から借りた掛けを肩まで掛け目を瞑ろうとした。
しかし、ふとアシリパの様子が可笑しいのに気づく。
寝転びながら彼女の傍に近づき顔を覗き込めば、少し寂しそうな表情で眠っていた。


(何か…悲しい夢でも見ているのかしら…)


水城はよく戦争中の記憶を思い出し魘されてアシリパや白石に起こされる事はあった。
今でいうPTSDである。
アシリパはよく笑う。
だから彼女に悲しい過去は結びつかない。
だけど父を幼くして亡くし、しかし亡くした父は実はアイヌを殺して金塊を盗んだ凶悪犯かもしれないと知らされ、彼女も苦労していたのだ。
水城はあの見せてくれる笑顔の下でどれほどの涙が隠れているのか分からない。
でも自分達がいる事で彼女が笑ってくれるなら、今はそれでいいと思った。
水城は背を向けるアシリパをまるで守る様に抱きしめ、彼女の体を一定のリズムを刻んで叩く。
そして以前彼女が聞いてきた、養母から教わった子守り歌を小さな声で奏でた。
水城の願望だろうか…

―――眠るアシリパの顔が和らいだ気がした。

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